第3話 美織、フィールドに立つ(4)

[4]

 お屋敷では、悦子お姉さん達が帰った後で、芳翠先生が慌ただしく戻って来ました。

 そして、師範代の桜子さんと打ち合わせを始め、美織には玄関前に打ち水をする様に言いつけました。

 美織は、門から玄関までの露地を箒で掃き、手桶に水を汲んで、柄杓で水を打っていきました。

 ふと美織は立ち止まりました。

 手桶を敷石に置き、手にした柄杓を眺めました。

 それから、柄杓を、肩に担ぐ様に右手で持ち、ちょっと助走をして、柄杓を投げる様にしてみました。

 なぁんとなく、違う気がします。

 もう一度、柄杓を肩に担いでみた時でした。

「何してんのや?」

 後ろから声をかけられ、美織は、

「ひゃあ!」

と飛び上がりました。

 振り向くと、朋美が、学校の制服姿で踏み石の上に立っていました。

「朋美さん! いつからおりましたん?」

「ん? 今や」

「今? ああ、そうですか」

 美織は安堵しました。

 朋美は、うむと重々しくうなずき、それから、ニヤッと笑いました。

「でも、そのフォームやと、槍は飛ばんなあ」

 美織の体が、きゅ~っと小さくなりました。

 が、すぐに顔を起こすと傲然として、

「朋美さん! 今日は何のご用ですえ?」

「そんな、おばあさまみたいな訊き方せんといてやぁ」

 朋美は、嫌そうな顔で言いました。

「今日は、友達のつき添いや」

「お友達?」

 ふいに、門の方からにぎやかな声がして、十数人の、朋美と同じ制服の少女たちが入って来ました。

「うちの学校の茶道部や」

と言って、門の方に手を振ります。

「アリスちゃん、こっちや!」

 少女たちが、大挙して駆けて来ました。

「きゃー! 美織ちゃんやー!!」

と、美織を囲んで、眺めたり、頭をなでたり、着物に触れたりします。

 美織は、今や、ちょっとしたネット・アイドルなのでした。

 目をパチクリさせている美織も見ものでしたが、朋美は助け舟を出すことにしました。

「美織。茶道部部長で、うちのクラスメートの冷泉亜梨朱(れいぜい ありす)ちゃんや」

と、朋美が紹介した子は、色白で、黒目がちな目のくりっとした少女でした。

「こんにちは!」

という亜梨朱ちゃんに、美織も頭を下げます。

「お越しやす」

「今日の夕方のお稽古な、この人たちのための特別講座なんや。新入生歓迎の一環やな」

「そうでしたか。先生も、もう、お座敷でお待ちです。こちらへどうぞ」

 美織は、中学生たちを玄関に案内しました。

 少女たちは、美織を囲んで、きゃあきゃあ言いながらついて来ます。

「朋美ちゃん。今日はほんまにおおきに」

 亜梨朱ちゃんが、朋美に言っていました。

 朋美は何をした訳でもありませんが、例年、芳翠先生が、中学校の茶道部のために特別にお手前の指導をしてくれるのでした。

 玄関口で出迎えてくれた桜子さんに少女たちを引き渡すと、朋美は美織の脇をつついて言いました。

「うちがあんたやったら、きっと今頃、ネットで歌でも歌うで」



 室内からは、

「よろしくお願いします!」

と、少女たちのあいさつの声が聞こえます。

 かと思ったら、朋美はもう、玄関から出て来ました。

「美織は、5時になったらお座敷に来てって」

 朋美は言いました。

「それまでは休んどってええって」

「そうですか」

 美織は、朋美を見ると、手の甲をちょっと口元に当てました。

「なに?」

「いえ!」

 美織は、すぐに手を降ろしました。

「朋美さんも、お友達とご一緒されればよろしいのに」

「ええの! 放っといて!」

 今日の美織は、水色の地に菖蒲の花をあしらった着物を着ています。

 帯は山吹色です。よく似た色の組み紐で、髪はてっぺんで留めていて、仕事をしやすい様に袖を留めたたすきも黄色です。

 よく見ると、菖蒲の脇にもごく小さな黄色い蝶があしらわれています。

 相変わらず、地味なのかおしゃれなのだか、よく判りません。

 誰のセレクトなのだろう、と、朋美は常々思っていたので、今日こそは尋ねようとしたのですが、その時、パタパタと足音がして、建物の角から家政婦の田所さんが走り出て来ました。

 田所さんは、玄関先にいた朋美と美織に目を留めると、立ち止まり、

「おや、朋美お嬢さん、いらっしゃい」

と言いました。

 朋美も、

「こんにちは」

と頭を下げました。すると、田所さんは美織に目を当てて、

「ちょっと、あんた! 何しとんのや? お嬢さんをお部屋にご案内せな!」

と言います。

「あ! うちは、今日はすぐに帰るところやから」

 あわてて朋美は言いました。

「田所さんは、お出掛けですか?」

「へえ。ちょっと、調味料を切らせまして」

と言って、そのまま行き去るのかと思ったら、門の方に目を向けて一人ごちます。

「ああ、忙しい! 夕げの仕度もせなあかんのに。

 どなたか、暇な人が行ってくれればええんですけどなあ。でも、まさか、介護ロボットに、そんな雑事も頼めませんしな」

 美織は、目を伏せています。

 田所さんは、朋美に顔を向けて、

「ほな、お嬢さん、ごゆっくり」

と会釈して行きかけます。

「田所さん。美織がお買い物、参ります」

 美織が、急いで言いました。

「とんでもない! 先生のロボットに勝手に用を言いつけたりしたら、わたしが叱られるやろう!」

 田所さんは言いました。美織は、顔を伏せています。

「大体、あんたにお使い事を頼んだりしたら、日が暮れてまうわ!」

「ああっと!!」

 あわてて朋美は口を挟みました。

「田所さん、美織に頼むとええよ!」

「いや、でも、お嬢さん」

という田所さんに、

「大丈夫や。美織は、今の時間は、うちが自由にしてええ事になっとるんや」

「いや、せやけど」

「大丈夫! 美織には秘密兵器があるよって、20分で行って帰って来れるさかい。うちも付き添うからそれでええやろう?」

 そう言うと、田所さんは、

「そうですか? そうしたら、頼みましょうか?」

と、買い物袋を朋美に渡して、必要なものを告げて、勝手口に戻って行きました。

 ところが、朋美が振り返ると、美織は、

「あ、あの、朋美さん? 秘密兵器って、あの、『あれ』ですか!?」

と腰が引けています。

「いや、あの、今日は悦子さんも帰らはりましたし、美織、今日は歩いて行こかなあと思いますけど」

 朋美は、ニマニマと笑みが浮かんでしまいます。

「大丈夫や、美織。『あれ』やないって!」

 この頃朋美は気づいて来ましたが、美織は、スピードの出る乗り物が苦手な様なのでした。

 朋美の言う秘密兵器とは、もちろん、朋美の自転車です。美織を後ろに乗せて行けば、スーパーまでは5分で着きます。

 荷台に美織を横座りさせて、朋美は自転車を走らせました。

「あんた、結構、苦労しとんのやな?」

 下り坂に自転車を転がしながら、朋美は尋ねました。でも、美織は、

「へ!? 何でどすか?」

と言うので、話題を変える事にしました。

「そう言えば、昨日、おばあさまと学校のグラウンドの裏に来とったやろう?」

「はい。おばあさまのお散歩の付き添いで」

と美織が答えるのに、

「ん? おばあさまの散歩の付き添い?」

と尋ね返すと、美織はしばらく黙った末、オクターブ低い声で、

「‥‥、美織の付き添いですぅ」

と答えました。

 ついつい、肩を震わせて笑ってしまうと、後ろから、美織が、拳で背中を叩いて来ます。

「まあまあ。そう、気に病まんとき。その内にまた、悦子お姉さんがなんとかしてくれるやろから」

「でも、ほかの人たちは、施設や病院で、高い評価頂いておるのです」

と、背中の美織は言います。

「美織たちの実証試験期間、もう半分過ぎてしまいました。やのに、美織だけ、ずっと『調整中』みたいなのです」

 泣き言めいて来たからか、美織は急に話題を変えました。

「朋美さん、お茶道の方たちとは、お仲がよろしおすのですか?」

「ん? 亜梨朱ちゃん? きれいやろう?」

「美人さんどすなあ」

「うちの一番の仲良しやし自慢や。美人やし、頭ええし、人気者やし」

「‥‥。その上、お茶道もされはるし?」

 美織が言うと、朋美は「くっ」と肩で笑って、

「いけず!」

 そう言って、ブレーキから指を離し、下り坂のカーブで脚にグンと力を入れてスピードを出しました。

「きゃー!」

と悲鳴をあげて、美織は、朋美の体に掴まりました。

 スーパーで買い物を済ませて帰ります。

 お屋敷へは、今度は上り坂です。

「そう言えばっ!」

と、朋美の声にも、つい力が入ります。

「昨日っ、グラウンドでっ、おばあさま、何か言うとった!?」

「ん‥‥」

と、美織は言葉を淀ませました。

「どしたんっ?」

「あの、朋美さん?」

「んっ!?」

「お気にされんといとくれやす」

「うんっ!」

「美しくない、おっしゃってはりました」

 朋美は、脚に力を入れました。ちょっと、力が抜けそうでした。

「美しくないかあ!!」

「あの、朋美さん!」

「ええの、ええの。気にせんから。うち、今やるべき事を一生懸命やろうって決めたん」

 朋美は、立て直して自転車をこぎ続けました。

「でも、美しくないかあ! まあ、お茶やお花とは違うしなあ!」

「朋美さん」

「ん!」

「美織、思いますのん。先生がおっしゃられたのは、槍投げが美しくないのんと違うんやないかって」

「ん?」

「『用の美』いいますのやろか?」

「うん?」

「済んまへん。良う分かりもせんと、あやふやな事言うて」

「ん‥‥」

 朋美はしばらくこぎ続けて、お屋敷の前に自転車を乗りつけました。

「えろう済みまへん」

と、荷台から降りてしきりに恐縮する美織に、

「あんたの言おうとしてる事は、分かるわ」

 朋美は言いました。

「『用の美』か。でも、何をどうしたらええのやろう?」

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