第2話 美織スピードダッシュ(6)

[6]

 翌日も、素晴らしい快晴でした。

 泉湧寺には、大勢の人が集まり、境内には、幾つものお茶席が設営されます。

 芳翠先生たちの車が、駐車場に着きました。

 ほかのお弟子さん達と同様に、美織も、新しい藤色の着物姿でした。

 悦子お姉さんと狩野さんもやって来ました。

 やがて、暁子おばさまと文子さんを乗せた介護タクシーが到着しました。車から、暁子おばさまの車椅子が降りて来ました。

 芳翠先生は、水差しを入れた木箱のふくさ包みを、美織に渡しました。

「頼みましたえ」

 そうして、師範役の桜子さんやお弟子らと共に、山門を入って行きました。

 お寺は、山門の中も駐車場の周辺も、美しい着物姿の女性たちが、忙しく行きかっています。

 パンツスーツの悦子お姉さんと、着慣れないスーツ姿の狩野さんは、ちょっと浮いています。

「さあ!! わたしらも仕事や」

 悦子お姉さんも、狩野さんに言うと、芳翠先生の一行に続いて山門をくぐりました。

 しばらく、晴天が続いていましたが、境内には打ち水がされて清々しい空気に満たされていました。

 美織は、ふくさ包みを胸の前に抱えて、芳翠先生に従って歩いて行きます。

「バランス、良好です」

「そうやね!」

 少し離れたところから、狩野さんと悦子お姉さんはデータを取り続けます。

 美織は、ふくさ包みを抱えつつ、芳翠先生から目を離さずに歩いていました。芳翠先生は、杖をつきつつ、隣の暁子おばさまと話しながら歩いて行きます。

 美織の注意は、同時に、芳翠先生と並んで進む暁子おばさまの車椅子にも注がれていました。境内の石畳は、アスファルトの道路よりはガタピシしています。

「CPU負荷率!」

「40%です」

「余裕やね」

 ピルルルッと電話の呼出音が鳴りました。悦子お姉さんがジャケットの内ポケットからスマホを取り出しました。

「はい、浪江です。ええ! 順調です。ありがとうございます」

 悦子お姉さんが笑顔で応じた時でした。

「そうやで! オーライ、オーライ」

 作業服姿のおっちゃんが、背中を向けたまま機材を誘導して来ると、そのまま、美織の右肩にぶつかりました。

「きゃっ!!」

と悲鳴を上げて、美織は横倒しになりました。

 ふくさ包みが、石畳に落ちてガシャンと音を立てました。

「なんや!? わーっ!!」

 美織の上にそのまま倒れかけて、おっちゃんが叫びました。

 悦子お姉さんは、呼吸が止まっていました。

 狩野さんは、真っ青になっています。

「なんや、なんや!」

「えらいこっちゃ!! ロボットを倒してしもたで!!」

 作業着姿のおっちゃん達が集まって来ます。

「ロボットやありまへんっ!!」

 美織は金切り声を上げていました。

「水差しが! 水差しがー!!」

 美織は、膝でにじって、ふくさ包みを抱き上げました。

 はっと我に返って、悦子お姉さんは、美織のそばに駆け寄りました。

 美織は、ふくさ包みを胸に抱いたまま、肩を震わせています。

 芳翠先生は、渋い顔で立っていました。

「美織」

 悦子お姉さんは、どうして良いか分からず、美織の肩に手を当てていました。

 その時、すーっ、と、二人の視野に入って来るものがありました。暁子おばさまの車椅子でした。

 見上げる美織を、暁子おばさまは優しく見下ろすと、体をかがめて、美織の腕から、ふくさ包みをそっと持ち上げました。

「清美さん」

 おっとりと、暁子おばさまが言います。

「若い人を余りいじめるものではありませんよ」

 芳翠先生は、渋い顔で歩いて来ると、無言で、暁子おばさまの膝の上のふくさ包みをほどき、木箱のふたを開けました。

 水差しは、厚手のタオルで包まれ、木箱の隙間には、ビニールのプチプチが詰められています。

 タオルの中の水差しには、ひび一つ入っていませんでした。

 悦子お姉さんの顔に生気が甦りました。美織が、目を大きく見開いていました。けれども、芳翠先生が言いました。

「半人前のあんたらを、うちが手離しで信じとる思うとりましたか? 十年早いえ」

 悦子お姉さんの安堵は、ブリザード級の木枯らしで、東山の彼方に吹き飛んでいました。

 芳翠先生は、手早く水差しを木箱に戻すと、自分で小脇に抱えて立ち上がりました。

「でも、そのふくさは、よろしくありませんねぇ」

 その時、暁子おばさまが言いました。ふくさは、石畳に撒かれた水で濡れて泥もついています。

 暁子おばさまはバッグからふくさを出して差し出しました。

 一瞬、芳翠先生の顔が、能面のようになりました。すぐに、ますます渋い顔を作って、黙ってそれを受け取ると、木箱をふくさで包み、それを、立ち上がった美織の手の上に載せました。

「仕事を任されたら、まずはそれに集中や。他に気を散らしとうてはあかん」

 そう言って、傍らの悦子お姉さんの事もちらりと見たようでした。

 悦子お姉さんは、思わず、右手のスマホを体の陰に隠していました。

 芳翠先生は、何も見なかった様子で、暁子おばさまを促して歩き出しました。

「値札がついとりましたえ」

 低い小さい声で、芳翠先生は暁子おばさまに言いました。

「あんたかて、要するに、何やある思うとったのやない! 人の事ばあっか悪役にしてから! 相変わらず、弁天さんみたいな顔して、キツネやな」

「たまたま、予備に買うとっただけです。あなたこそ、相変わらず備えの足りない事ねぇ」

 暁子おばさまは、楽しそうに笑っていました。

 取り残された様に、悦子お姉さんが傍らを見ると、美織もこちらを見上げていました。

「半人前やて」

 二人は、カクンと首をうなだれました。

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