第2話 美織スピードダッシュ(5)
[5]
お屋敷に戻ると、悦子お姉さんと狩野さんが来ていました。
「偉う遅くなりましたな?」
芳翠先生は言いました。
「で、どうしますのや?」
稽古部屋で二人と向かい合い、芳翠先生は悦子お姉さんに尋ねました。
「美織の腰部に、新たにジャイロセンサーを取りつけます」
悦子お姉さんは、自分の腰に手を当てながら説明しました。
「腰を安定させます。これによって、体幹が安定し、また、重心が下がることで、ご要望にお応え出来ると確信しております」
悦子お姉さんは、身内の芳翠先生に、お客様に接する様な口調で話しました。
芳翠先生は、じっと悦子お姉さんを見つめました。
「よろしい。やって頂きましょ」
「ありがとうございます。控えの間をお借りします」
悦子お姉さんは、畳に手をついて礼をすると、美織を促して立ち上がり、隣の小部屋に入って障子戸を閉めました。
芳翠先生は、そのまま稽古部屋に座っています。そうして、部屋の隅にいた朋美に顔を向けて言いました。
「あんたは、もう帰りなはれ。今日はありがとうさん。時間も遅いえ」
「もう少し」
朋美は愛想笑いして答えました。
「ふん。明日、困っても知りまへんえ」
それ以上は何も言いません。
でも、実は、朋美は既に待ちくたびれていました。こめかみに脂汗が浮かびます。
しばらくして、芳翠先生が、ちらりと朋美を見ました。
「親指や」
「え?」
「足が痺れたら、左右の足の親指を組み替えるんや」
「そ、そうなん?」
「大体、なんですえ、あんたのその座り姿は? 背筋を伸ばしなはれ。アスリートやろう」
「は、は、は」
朋美は乾いた笑いを漏らしました。
「練習します」
「そうしなはれ」
そのまま、涼しげに座っています。
それからさらにしばらくして、引き戸が開いて、悦子お姉さんが美織を連れて現れました。
見たところ、美織の外観に変化はありません。
「美織、座りなはれ」
芳翠先生が言いました。
美織は、稽古部屋を横切って下座側に移ると、朋美のかたわらに座りました。
「立ってみなはれ」
言われて、美織は立ち上がりました。
芳翠先生の目は、美織の所作に注がれています。
心持ち、前より安定したかも知れませんでした。
「もう一度、やってみなはれ」
言われて、美織は、再び畳に座り、そうして、立ち上がりました。
少し頭が揺れました。でも、体がぐらついて倒れる事はありませんでした。
「もう一度や」
芳翠先生が言います。美織は、三たび、畳に座りました。手を膝に置き、しばらくじっとします。そうして、立ち上がりました。今度は、全くふらつきませんでした。
芳翠先生は、すっと立ち上がると、控えの間に入りました。
戻って来た芳翠先生の手には、大振りの水差しが、ふくさで包むように抱えられていました。
芳翠先生は、それを美織の足元に置くと、上座に戻って座りました。
「明日のお茶会で使う水差しです。それを持って来てみなはれ」
美織は、足元の水差しを見ました。
キュンと、目のレンズが動きました。
美織は、座ると、両手を畳につけて、芳翠先生に一礼しました。
そうして上体を起こすと、水差しを、ふくさで包みながら両手で持ち上げて、膝に載せました。
足袋を履いた足をキュッと鳴らして爪先を立て、右膝をわずかに立てて立ち上がると、胸の前に水差しを抱えて立ちました。そうして、静かな足捌きで歩くと、芳翠先生の前に出ました。
そうして、畳に腰を沈めて座り、芳翠先生の前に水差しを置くと、再び両手を畳につけて頭を下げました。
「よろし!」
芳翠先生が、ずしりと言いました。
「あんたには、明日、その水差しを持って、うちに付き添うて頂きましょ!」
悦子お姉さんは、わっと叫びそうなり、両手で口元を覆いました。
床から飛び上がっていました。
思わず加納さんとハイタッチすると、あわてて、深々と頭を下げていました。
「ありがとうございます!」
「美織、おめでとう!!」
朋美が声をかけると、美織がこちらを振り返りました。
「よかったな、美織!」
朋美は、精一杯の笑顔を作って美織に笑いかけました。
畳から、立てませんでした。
朋美は、近江工業の車で家まで送ってもらう事になりました。
「美織、明日、頑張ってな!!」
玄関アプローチまで見送ってくれた美織に、朋美は言いました。
「はい。朋美さんも頑張って下さい」
美織が言いました。
朋美は、明日は、市営運動場で競技会でした。
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