第2話 美織スピードダッシュ(7)

[7]

 朋美が自転車で駆けつけた時、お茶会は既に終宴でした。

 美織は、汚れてしまった着物は着替えて、普段の着物姿になっていました。

 そうして、暁子おばさまと文子さんは、夕方の新幹線で鹿児島に帰る事になっていました。

「また、来年もいらしゃりますか?」

 駐車場で、介護タクシーに乗り込む暁子おばさまに、芳翠先生は尋ねました。

「そうですねぇ‥‥」

 暁子おばさまは、おっとりと笑いながら、首をかしげました。

「この歳になったら、とにかく、一日一日を丁寧に、でしょうねえ」

「その通りやな」

 芳翠先生も深くうなずきました。

「体を大事にな」

「あなたも、お元気で」

 暁子おばさまを乗せたタクシーは、駐車場を出て行きました。



 終了時間となり、撤収作業が始まりました。

 持ち込んだ道具類を片付けて、借りた水屋をきれいに清掃します。

 時間は、あっという間にたって行きました。

 そうして、水差しを入れた木箱を持ち上げて、芳翠先生は、あわてて声をあげました。

「いかん。うっかりしたわ!」

 ふくさが、借りたままでした。

「済まんけど、桜子さん、あんた、京都駅まで一走り‥‥、いや、あんたに行かれても困りますな」

 桜子さんは、芳翠先生の右腕とも言える存在です。細ごまと人を動かしているのは、今や桜子さんでした。

 と言って、暁子さんを知るお弟子はほかにはいません。

「ちょっと、朋美」

 脇でスポーツドリンクを飲んでいた朋美に芳翠先生が呼びかけた時、悦子お姉さんが申し出ました。

「おばさま。美織に、届けさせて下さい!」

 芳翠先生が、驚いて、悦子お姉さんと、一緒にいる美織を見ました。

「この人に?」

 確かに、ふくさを汚してしまったのは美織でした。でも、

「せやけど、この人に『明るい内に帰り』言うて送り出すと、翌日の朝に帰って来るえ?」

 うわあ、おばあさまぁ!! 朋美と悦子お姉さんは、奈落に突き落とされた気がしました。

「冗談や」

 芳翠先生は涼しい顔で言います。

「けど、バランスが良うなったんは分かったけど、この人の足が速よなった訳やないやろう? そろそろ暗くもなります。この人かて安い機械やないんや。一人で行かせて、悪い人にかどわかされても困るえ?」

「せやったら」

 朋美が代替案を出しました。

「うちが自転車に美織を乗せて行きます。間に合うやろう」

「自転車の二人乗りは、いかんえ!」

 芳翠先生がずしりと言いました。

 朋美は、美織と顔を見合わせました。

「あんたとうちでも、『二人乗り』になるんやろか?」

 美織も首を傾げています。

「分かりました」

 悦子お姉さんが答えました。

「美織が速くなれば、よろしいのですね? 狩野君!」

 隣の狩野さんに声を掛けます。

「え!? あれを使うんですか?」

 言いつつ、狩野さんは、バッグから大きなものを取り出しました。

 スケートボードの様に車輪がついています。ですが、機械と、ご丁寧に先頭にはライトまでついています。

「何ですえ? それは」

「モーターボードです。時速30キロは出ます。これなら」

「悦子さんっっ!!」

 芳翠先生がずしりと言い、悦子お姉さんは「ひっ!」と悲鳴を上げて縮み上がりました。

「あ、あの‥‥」

 悦子お姉さんは、おずおずと芳翠先生を見上げました。

「何か‥‥、まずかったですか?」

 芳翠先生は、世にも悲しげな様子で首を伏せています。

 やがて、すっかり憔悴し切った様子で顔を上げました。

「悦子さん。うちがあんたを養女にせんで、ほんまーっに良かった思うんは、こういう瞬間なんや。あんた、よくまあ、次から次へと、こういうけったいな事を考えつきますな?」

 そう言って、再び首を落としてしまいました。

 やがて、ぽつりと言いました。

「やりなはれ」

「は?」

「あんたの好きにしなはれ。ただし、この人に怪我だけはさせんといておくれや」

 そう言って、芳翠先生は、ふくさを差し出しました。

 悦子お姉さんは、喜色を浮かべました。

「はい!!」



 ですが、その悦子お姉さんの隣で、目のレンズをキュンキュンと動かしながら、ボードと悦子お姉さんを交互に見ていたのは、他ならぬ美織でした。

「悦子さん。美織が、これに乗りますの?」

「そうや、美織。このUSBケーブルであんたとつなぐと、ドライバが自動的にインストールされるから、使い方はすぐに分かるようになるわ。だから、---」

と言いかけて、悦子お姉さんは、ふと美織を見ました。

「あ!! でも、無理せんでええんよ!! 何が何でもやれ言うとんのやないんや」

 悦子お姉さんはあわてて言いました。

「やっぱり‥‥、やめ‥‥とく?」

 美織は、小さな肩を、ひとつ大きく上下しました。

 そうして、草履を脱いで足袋裸足になると、草履を帯に挟んで、ボードに足を掛けました。

 悦子お姉さんが、ケーブルで美織とボードを接続しました。

「朋美。あんたは併走しなはれ」

 芳翠先生が言い、朋美は自転車にまたがりました。

「行くえ、美織!」

 朋美が言うが早いか、美織のモーターボードは飛び出していました。

 朋美は自転車を走らせました。

「美織ーっ!! スピード・セーブや!!」

 叫びつつ、朋美は自転車のギヤをトップに入れます。

 お寺の周辺は、まだ、引き上げる車や人であふれています。美織は、その合間を縫って走って行きます。

「す、凄っ!!」

 思わず声を上げてしまいました。

 お寺の前を抜けて、人と車の渋滞から抜け出た時でした。

 塔頭の裏門から、作業着姿のおっちゃんが、後ろ向きのままでトラックを誘導して出て来ました。

「オーライ、オーライ」

 美織のボードは、そのままそこに突っ込んで行きます。

「あかん!! ダメやーっ!!」

 朋美は叫んでいました。

 その時、バンッと地面を蹴って、美織とボードは、トラックの空の荷台を飛び越えていました。

「うわーっ!! また、ロボットやー!!」

 おっちゃんが腰を抜かしそうになっていました。

「ロボットやない! ふくさや!!」

 叫びながら、朋美も、おっちゃんの脇を走り抜けました。

「おっちゃん、運が良すぎやでー!!」

 一日に2回もロボットとぶつかりそうになるおっちゃんは、きっと日本で一人でしょう。

 着地した美織は、門前町の長いスロープを滑り降りて行きます。朋美の自転車がそれに続きます。

 「泉涌寺前」交差点を左に折れて、二人は東大路通りを走ります。道はそのまま、鴨川へと下って行きます。その向こうで、夕陽が次第に傾いて行きます。

 川の手前、東福寺駅の駐輪場に自転車を入れると、朋美は、美織の降りたボードを小脇に抱えました。

「急ぐえ!!」

 走り出す朋美に、美織も小走りで続きました。

 改札は、ICカードで通り抜けました。美織のことは、

「この人は、うちの手荷物やー」

と叫んで、そのまま抜けさせました。

 ホームに出ると、丁度、京都行きの電車が入って来て、二人は手をつないで駆け込みました。

 プシューッと音を立ててドアがしまり、電車が動き出しました。

 手摺りに掴まり息をついで振り返ると、美織が、床にしゃがみこんで胸を抑えて肩を上下させていました。

「悦子お姉さんって‥‥、無茶苦茶やな!?」

 声をかけると、美織は、顔を上げて、コクコクとうなずきました。



 京都駅も、大勢の人であふれていました。

 朋美と美織は、人の流れの間を縫って、大急ぎで新幹線のホームに向かいました。

 ですが、暁子おばさまの乗る予定の列車は、既にホームに入っていました。

 階段を駆け上がった朋美がホームを見回した時、美織が前の方を指差しました。見覚えのある二人がいました。

「暁子おばさまー!」

 朋美は、とにかく走り出しました。

「朋美ちゃん?」

 暁子おばさまは、驚いた様子で朋美を見て、そうして後ろから小走りに走って来る美織を見ました。

 そうして、やっと朋美に追いつくと、美織は、帯の間からふくさを取り出して、暁子おばさまに差し出しました。

「あら?」

 暁子おばさまは、ふくさを受け取ると、そのまま美織の体を抱き締めました。

「ありがとう。美織ちゃん、朋美ちゃん」

 発車合図のベルが鳴り出しました。

 文子さんが、暁子おばさまの車椅子を押して、列車に乗り込みました。

「来年も、いらして下さい」

 美織が言いました。

 暁子おばさまは、笑顔を浮かべました。

「来ますよ。必ず」

 新幹線のドアが閉まりました。

 列車が、走り出して行きました。



(第2話 終り)

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