第1話 美織(みおり)誕生(6)
[6]
家に帰ってみると、家の中には、もちろん、誰もいませんでした。
「おばあさまから、おじやを持たされて来ています。今、温めます」
と美織が言うのも煩わしく、
「ええよ」
と言って、制服だけ脱いで、ベッドにもぐってしまいました。本当に体がだるいのでした。
でも、それだけでなく、何だか、自分がひどく情け無い人間に思えるのでした。
なぜか、目から涙がこぼれて来ました。そうして、いつの間にか眠ってしまっていました。
どれくらいたったのか、朋美は、ふと目を覚ましました。
体はだるいままでしたが、額に、保冷材が、手拭いで包んで乗せてありました。
いつの間にか、パジャマに着替えていました。
辺りは暗く、夜はまだ深い様でしたが、暗がりの中、勉強机の脇の椅子に、人影がありました。
「美織?」
スイッチが切れているのかと思いましたが、美織が、ぱちりと目を開くのが分かりました。
キューンと、例の、レンズが動く音がしました。
右手の人差し指が光を放って、床を照らしました。間接的に部屋がぼうっと明るくなりました。
「朋美さん、お加減はいかがですか?」
「喉が渇いた」
ベッドに寄って来た美織に、朋美は言いました。
美織が、机の水差しから湯飲みに水を注ぎ、朋美の体を起こして飲ませてくれました。
「白湯です。お台所をお借りしました」
「うん。いい‥‥」
喉を潤して、朋美はまた横になりました。
そうして、ふと気づきました。
「あんた、停まっていたのやないの?」
「少し、スリープモードに入っていました」
美織が答えました。
「でも、あんた、10時半から5時半まで停止しているんやなかった?」
「はい。でも、この家には充電ボックスがありまへんから」
「それで大丈夫やの?」
「はい。しばらくは」
「ふうん‥‥」
それから、ふと思い出しました。
「あんた、そういえば、うちの練習がどうとか言うてたやろ? うちが陸上やってるて、おばあさまから聞いたの?」
「いえ。悦子さんから」
ちょっと驚きました。
「悦子お姉さん? うちのデータなんか入れてたん?」
「いえ。そうではのうて、悦子さんが、朋美さんのこと話すのを、色々伺っていました」
「どうして? 初めから、うちの看病もさせるつもりやったんやろか?」
「さあ‥‥」
美織は小首をかしげました。そして、しばらくして答えました。
「きっと、朋美さんのお話をするのが楽しかったんやと思います」
「楽しい? どうして?」
「朋美さん、似てはられる、言うてはりました」
「似てる? どこが?」
美織と自分で、似ているところが思いつきません。
「お茶とか、全然興味がない所とか」
言われて苦笑が浮かびました。でも、それは、本当に苦い笑みでした。
小さい頃から、親戚中で「悦子さんに似ている」と言われて来た朋美でした。それが自慢だった時期もありました。
でも、いつの頃からか、それが煩わしくも思えて来ていたのでした。
「うちは、別に悦子お姉さんみたになりたい訳やない。ただ、悦子お姉さんみたいにやりたい事が見つからんくて、陸上やってるだけや」
美織は、何も答えませんでした。
でも、しばらくして言いました。
「それで、ええのやと思いますえ」
「え?」
「今、やるべき事を、一生懸命やればええのやないでしょうか?」
朋美は、しばらく考えていました。というより、しばらくじっとしていました。
「あんたも、今、一生懸命やってる?」
「はい」
「狩野さんが、おばあさまの注文は難しい言うてたえ。おばあさまの仕事は大変?」
「さあ‥‥」
美織は、また、首を傾げました。
「よそを知らしまへんから、分かりまへん。でも、よそと比べるのでなく、自分の与えられた役目を果たせば良いのやて思うとります」
「ふうん‥‥」
朋美はつぶやきました。そうして、ふとまた、気づきました。
「そう言えば、あんた、おばあさまの家に帰れるの? バッテリー、持つんか?」
「大丈夫です」
美織は、着物の襟元から、例のスマホ大のタブレットを取り出してちらっと見て答えました。
「おばあさまには、明るくなったら帰るよう言われました。美織のバッテリーは、あと3時間15分もちます。今の季節やと、あと3時間もしたら明るくなります。そうしたら、帰ります」
「ふーん」
と、平静にタブレットを胸元にしまう美織を見ながら、でも、朋美は、ふと違和感を覚えました。と言うより、熱が多少下がって、頭の働きが戻って来たのかも知れません。
「って、あんた、移動時間を勘定してへんやろ!?」
「へ?」
美織が顔を起こしました。
「あんたの足では、ここから30分はかかるで。途中でバッテリーが切れてまうやろ?」
美織は、しばらく無言でした。が、突然、両手で口元を覆ってしまいました。
「どどど、どうしましょう!!」
また、キューン、キューンと小さな音を立てます。きっと、レンズが前に後ろに動いているのでしょう。
朋美は、呆れてしまいました。
「あんたって、よう出来とるみたいで、案外抜けとるな? 電源を、完全に切ることはできんの?」
「でも、そうしたら、自分で再起動できまへん」
先ほどまでと打って変わって、おろおろした声で答えます。
「うちがおるやろ?」
「え?」
「うちが朝になったら、再起動してはるよってに、やり方を教えぇ」
そう言って、朋美は、布団から手を伸ばしました。
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