第1話 美織(みおり)誕生(2)
[2]
それでも、朋美は、それからしばらく後の納品日、芳翠先生のお屋敷に飛んで行きました。
学校は春休みでした。朝から行きたかったのですが、おむすび作りをママに手伝わされて、それを持って一緒に家を出たのは昼前でした。
朋美の家から、鴨川沿いに南へ下って五条の橋を渡ると、おばあさまのお屋敷は遠くはありません。通学路の近くです。
すでに、お屋敷の駐車場には、近江工業のバンが止まっています。
「こんにちはー!!」
と、玄関からあいさつすると、芳翠先生の一番弟子で師範役の桜子さんが奥から出て来て案内してくれました。
おむすびの入ったお重を台所に届けるのももどかしく奥へ行くと、お弟子さんも何人か、お稽古部屋に集まって、興味深げに眺めています。
ロボット美織は、その隣の支度部屋で、充電ボックスに座っていました。
「わ! カワイッ!」
案内されて部屋に入った朋美は、思わず声を上げてしまいました。
そこに『巨人』はいませんでした。
代わりにいたのは、乳白色のちりめんで面を覆い、黒い艶やかな髪で頭部を飾った、橙色の着物姿のロボットでした。
「かわいいやろう?」
と、悦子お姉さんは、名前どおりに悦に入っています。
ロボットは、ちりめんのまぶたを閉じたままです。
「待ってたんよ。よし! 狩野君、始めよ。準備はよろしい?」
「はい!」
狩野さんは、手に、小型のタブレット、いや、むしろスマホ大のパットを持っています。
悦子お姉さんは、ヘッドセットを頭につけて、腕時計を確認しました。
「おう! 時間も丁度やない。ログ取りええね? ほな、行くよ! ただ今の時刻は午後0時0分。美織、システム・ウェイクアップ!」
狩野さんが、タブレットを操作しました。
ポンッと音がしました。ただし、それは、背後の充電ボックスからの様でした。
狩野さんが、タブレットを見ながら読み上げます。
「ウォーミングモード、スタート‥‥。10秒経過。ウェイクアップモードに移行、成功!」
キュィィン!
美織の胸元から小さな音がしました。
狩野さんの読み上げが続きます。
「イニシャルチェック! ステップ・ワン、オーケー。ステップ・ツー‥‥、オーケー。ステップ・スリー‥‥、ボディ・バランサー‥‥調整中」
「調整中」が、少々長い様です。
「この子、起動時はいつもこうなんよ」
悦子お姉さんが、芳翠先生に苦笑を向けて説明します。
「ボディ・バランサー、調整終了! ステップ・スリー、オーケー!」
充電ボックスから、再び電子音が鳴りました。
「ホームサポート・ミオリ、システム起動シマス」
美織の、睫毛に縁取られたまぶたがぱちっと開き、黒いカメラアイが現れました。
キューン、キューンと小さな音がして、目の中でレンズが前後に動きます。やがて、それが止まりました。
「午前5時30分、おはようございます」
美織の口元から、澄んだ声が発せられました。
朋美も、稽古場から見ていたお弟子さん達も、一斉にガクッと崩れそうになりました。午前5時30分?
「あーんっ、そうやった! 狩野君、時刻設定修正!」
悦子お姉さんが手で顔をおおって言うのに、狩野さんが珍しく反論しました。
「それ、主任がやれば良いじゃないですか」
「あ、そうか!」
悦子お姉さんは、芳翠先生に顔を向けて説明しました。
「この子、午前5時半に起動して午後10時半に終了するように設定してあるの。それで良かったやろ?」
「よろしえ。うちが6時に起きて10時には就寝しますよって」
芳翠先生が答えて、そして尋ねました。
「それで、その子、今が5時半思ったのですか?」
「まあ、それと、わたしの設定不足」
悦子お姉さんは、畳にひざをついて、美織の顔を覗く様にして言いました。
「美織、おはよう」
「悦子さん、おはようさん」
美織が、やはり澄んだ声で答えました。
「ところで、美織、今日が納品日やて分かっとるやろ?」
「はい、悦子さん」
「今日は、おばさまのお屋敷で、あんたを初めて起動したの。だから、今は、自動起動時刻の5時30分やないの。今の時刻は、午後0時3分。時間を調整して」
「はい。今の時刻は午後0時3分、時間を調整しました」
そうして、首を左右に動かして周囲の、自分を見ている人たちを見回し、やはり澄んだ声でいいました。
「ただ今の時刻は午後0時3分。皆様、こんにちは。美織と申します」
ほぉ、と、ギャラリーから声がもれました。
それから、悦子お姉さんは、芳翠先生を示して、紹介しました。
「美織。こちらが中村芳翠先生。あなたのオーナーよ」
「はい。芳翠先生、よろしゅうお頼み申します」
美織は頭を下げます。
「はい。よろしゅう。でも、まあ、茶道の弟子やないさかい『おばあさま』でよろしやろ」
芳翠先生が言うと、
「はい、おばあさま」
と美織が答えます。なかなか聞き分けがよろしい。
「こちらが、朋美ちゃん。こちらが、師範役の桜子さんよ」
「はい。朋美さん、桜子さん、よろしゅうお願い致します」
ロボットにあいさつされると、なんだか照れてしまいます。
「まあ、あいさつも人の紹介も、ぼちぼちでよろしい。肝心の事は、出来るんやろな?」
芳翠先生が悦子お姉さんに言いました。
「もちろんよ。そのためにこの半年苦労したんやから」
悦子お姉さんは、狩野さんと目配せしてうなづきました。
「ほんなら、美織、行ってみよか。ホームサポート美織スペシャルプログラム『正座』、アクション!」
キューンと小さな音がしました。美織の目の中でレンズが動き、周囲の状況を確認しているようでした。
美織は、首を振って左右を見渡すと、やがて、充電ボックスから腰を上げて、2本の足で立ち上がりました。
先日、近江工業の工場で見たほかのロボットと比べて、美織の足は、明らかにかなり小さくなっています。
そのためか、美織は、立ち上がると、すぐには動き出さず、しばらく体のバランスを取るように立ちつくしていました。
でも、その目が、ふっと朋美を捉えた様でした。美織の目が、きゅっと細められました。
美織は、再び前を見て、そうして視線を落とすと、右足をそっと前に出しました。次いで左足を出し、一歩前に進みました。
「ちょっと、道を開けてあげて」
悦子お姉さんに言われて、朋美とお弟子さん達が脇にのけると、美織は、更に、慎重な様子で足を進めて、敷居を踏まないようにその手前で歩幅を変えて、稽古部屋に入りました。
そうして、畳2枚を歩いて渡ると、体の向きを変えて、控えの間にいる朋美たちの方に体を向けました。そうして、ゆっくりと体を沈めて行きました。
ひざを曲げて、着物のすそを手で払い、つま先とひざで体を支えながら、その上に腰を落とし、最後に、つま先を伸ばして、腿の上に両手を置いて、きれいに正座をして、こちらに顔を向けてみせました。
その背後、障子を開け放った稽古場のガラス戸の外で風が吹き、庭一面に、薄ピンクの桜の花弁が舞ったのでした。
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