第39話 閑話:拠点の思い出③
「ロニオスには感謝しているし、おかげでエレンに出会えた。子供の世話ぐらいどうってことはない。いくらでも協力しよう」
「ありがたいけど、貴方って本当にエレンにベタ惚れね……」
アードゥルは珍しく唇の端をあげ、肯定した。
ロニオス・ブラッドフォードが
ロニオスは不在中に赤子が起こす超常現象が、パニックを引き起こし、無知な地上人の迫害犠牲になることを恐れ、ジェニ達に託したのだ。
「…………それって、すでに子供に情を
「気づかないふりをしてあげるのも温情よ?」
ジェニは、片目をつぶってみせた。
アードゥルが
赤子はアードゥルと共に過ごせばいつでも上機嫌だった。
「普通は女性の方に
ジェニとエレンは、その様子を見て笑った。
「それは男性がこういう触れ合いをしないからだろう」
「違いないわ」
アードゥルはジェニに許可をもらい、ロニオスの赤ん坊に地下拠点への入場権限を与えた。さすがにアードゥル自身の日常の業務を放置するわけにはいかなかったのだ。
普段、無愛想で人付き合いの悪いどこか排他的なアードゥルが、見慣れぬ赤ん坊を片腕に抱いて地下拠点の廊下を
未だかつて、これほどおかしな組み合わせがあっただろうか。
「アードゥル、どこから誘拐してきたんだ?!」
失礼極まりない
「本当に、どこから
アードゥルの研究区画までわざわざ訪問しにきたエド・アシュルは、事実を確認して面白そうに言った。
「エディ、それを言いにわざわざ拠点に戻ってきたのか?」
「各拠点に衝撃が走る噂が駆け巡ったんだ。確かめたくなるのは当たり前だろう?『アードゥルが
「あっているのは2番目だけだな」
「え?本当にこのぬいぐるみを抱いて拠点の廊下を歩いたのかい?」
柵のある簡易寝台の中で赤子より大きなぬいぐるみと、問題の赤ん坊は
「歩いたが、何か?」
遭遇した連中にとって、さぞホラーな光景だっただろう、とエド・アシュルは思った。
「で、女性達は?」
「今は仮眠時間で、休んでいる。エディ、拠点に舞い戻るくらい暇なら、育児を手伝って欲しいものだな」
「噂のロニオスの三番目の子供を見に来ただけだ。それほど暇でもないんだ」
「手伝うとジェニ・ロウの覚えがめでたくなると思うが……」
「なんでも手伝うから言ってくれ」
ロニオスの副官を口説き落としている最中のエド・アシュルの豹変ぶりに、アードゥルは笑いを噛み殺した。
そんな育児事業はロニオス・ブラッドフォードの帰還により終わりを告げた。
すでにルーチンと化していた日常を失い、アードゥルは心に空虚なモノが生まれたことを自覚したが、それが何かわからなかった。
ロニオスからの育児協力の礼は、地上植物の大量サンプルやアードゥルが欲しがっていた論文や資料と潤沢な予算だった。
「受け取っていいと思うわよ。私達はそれぐらいの貢献はしたんだから」
臨時補給品の個人リストを渡しながら、ジェニは言った。
「ジェニは何を貰ったんだ?」
「最新の量子コンピュータよ」
にっ、と勝利の笑みをジェニ・ロウは浮かべた。
「これまたロニオスの財産を
「ロニオスに説教しようと思ったけど、やめてあげたわ」
それはロニオスの
「ところで最近元気がないとエレンが心配していたけど?」
アードゥルは突然の問いかけに苦笑を漏らした。
エレンは何でもお見通しなので、ジェニをよこしたのだろう。
こういう時、能力者はやっかいだ。
「自分でも、よくわかっていない」
アードゥルは正直な感想をジェニに
「多分、君達と赤子の世話をすることが、興味深く、
「そこは端的に『楽しかった』でいいわよ?」
「楽しかった――いや、少し違うな」
アードゥルは考え込み、言葉を探した。未経験の心理状態を語ることは、アードゥルにとって難しいことだった。
「こんな穏やかな時間で過ごす生活があるのか、と。エレンとの生活に似ているようで似ていない。エレンもいて、さらに穏やかなそのまま続けばいいという願望をひそかに抱かされるような……」
「それは幸福感というものではないかしら?」
「幸福感……?」
「心が満ち足りている状態だったのよ」
満ち足りている――そうかもしれない。
赤子の思念は、邪気がなく、純粋で無防備にアードゥルを無条件で信頼をしていた。そんな
「貴方達が子供を作るって道もあるわよ」
「規格外の能力者が二人――遺伝子調整するしかないし、育児は専門機関に託され、引き離される。実験体の可能性もある。それに――」
「それに?」
「エレンは自分が嫌いなんだ。よく、口癖のようにジェニ・ロウのようになりたいと言っていた。そんな彼女が子供をもうけるのは苦痛でしかないだろう。クローン申請さえ、拒否しているんだ」
「そんな話は初耳だし、なぜ私?」
「決断力と行動力があって、健康で、面倒見がよくて、優秀な女性だからだ。エレンは親友である君を尊敬し、憧れている。なんたって周囲に
「………………後半は解せないわね」
「確かに後半は私の私見がはいったな……」
アードゥルは失言を認めた。
「まあ、元気を出してちょうだい。ロニオスの息子なんだから、状況が落ち着けばいつでも会わせてくれるし、なんだったら今でもいいわよ?」
ジェニの提案にアードゥルはたじろいだ。
「いや、今は――」
自分のこの未知の体験と感情を
「そうだな、このロニオスにもらった植物が根付いて、花が咲く頃には気持ちの整理がついているだろう」
「地上の子供の成長は、早いらしいわよ?とっとと実験栽培に取り掛かることね」
去っていくジェニ・ロウを見送り、アードゥルは思案した。
どうせなら、ロニオス夫妻や子供達が静かに過ごせる庭園を作ってもいい。幼い子供がうっかり触れて怪我をしないように、毒や
天井は無機質な材質ではなくドーム状にして外の光景を投影すれば、地上人でも圧迫感を感じない。あとは休憩できるベンチや芝生を敷き詰めて……。
中世の庭園文化を再現とでも、研究案をでっち上げて、施設改造費の申請でもするか。ロニオスなら酒原料の穀物栽培を組み込めば、すぐに予算もつけてくれるだろう。
「そういえば、子供の名前も聞いてなかったな」
アードゥルは再会時の確認事項の一つにその点を加えた。
「アードゥル」
花が咲き乱れる実験区画のベンチにアードゥルは腰を下ろしていた。美しい庭園光景はとても植物栽培実験エリアと思えない。
エレンは何を目的として、アードゥルが整備したのか知っていたので、いたたまれない気持ちになった。
エレンは隣に腰を下ろした。
「…………本当に地上人は混血でもあっさり死ぬのだな」
「アードゥル」
流行性感冒であの子供は死んだという。
実の父親が平然としているのに、なぜ自分はその事実に衝撃を受けているのだろう――アードゥルは不思議に思った。
アードゥル達は死という概念とは無縁で暮らしている。事故があっても蘇生処置があるし、クローン体も用意が可能だ。流行性感冒で死ぬのはありえない世界だった。おそらく治療担当者達が混血児の治療を拒否したのだろうと、アードゥルは推測した。
世界は冷たく、地上環境は無慈悲だった。
アードゥルは理不尽な別離というものが存在することを初めて知った。
「アードゥル」
「…………」
「アードゥル」
「…………」
「泣かないで」
「泣いてなんかいない」
「心が泣いている」
エレンは黙ってアードゥルを抱きしめた。それがアードゥルに必要だと彼女は知っていた。
二人はそのまま抱き合い、お互いの温もりを確かめあった。
「エレン、君は、いなくならないでくれ。君までいなくなったら、どうすればいいかわからない……。こんな喪失感は二度と味わいたくない」
エレンは微笑んだ。
「どこにも行かない。私はずっとあなたの側にいるわ。約束する」
「エレン」
「愛しているわ、アードゥル」
二人は造られた花園の中でキスを交わした。
この約束が果たされず、エレン・アストライアーに不幸な死が訪れ、残されたアードゥルはエルネストともに地上を長く
――それは別の物語である。
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