第38話 閑話:拠点の思い出②

 ああ、よく寝た――ジェニ・ロウは起き抜けの寝ぼけた頭でそんな感想を抱いた。


 1週間ほどロニオスの子供の世話で眠れていなかったのだ。研究馬鹿共は夢中になると連続で徹夜てつやをして体内チップを消費するが、そういうレベルより酷かった。


 今までこの赤ん坊が大人しくしていたのは、父親であるロニオスが始終しじゅう遮蔽しゃへいをしていて、世の中のざわめきから隔離かくりしていたのだ、と気づいた時には遅かった。

 責任者は「手に負えなくなったらアードゥルを呼び出すように」と忠告は残していたが、「どう手に負えなくなるのか」の説明を省いたところが凶悪な確信犯である。

 

 あの古狐ふるぎつねめ――ジェニは怒り心頭しんとうに発する状態である。


 制御せいぎょを知らない赤子の共振きょうしん思念波テレパシーはすさまじく、世話をするジェニとエレンの精神を疲弊ひへいさせた。他の研究者は、もともと汚い地上部には、よりつかなかったし、無関心か強い偏見へんけんしかなかった。


 ジェニとエレンが孤軍奮闘こぐんふんとうした理由は、友情を育んだ地上人であるロニオスの伴侶のために他ならない。彼女は三回目の出産で身体をいちじるしく損ない、愛してやまない子供達の世話ができない。


 だがプロジェクトの医療担当者は、ガンとして彼女の治療を拒んでいた。理由は彼女が地上人であることか、もしくはロニオスのスキャンダルに等しい行為に立腹しているかと推察すいさつするが、多分両方だろう。

 医療担当責任者であるアスク・レピオスなどその傾向が顕著けんちょで「無駄」の一言で切り捨てた。

 

 時間を確認したジェニ・ロウは、ぎょっとした。1時間などとっくにすぎている。すぎているどころか6時間だ。

 蒼白になって状況を思い出し、周囲を見渡した。ソファーにアードゥルの姿はなく、別のソファーにはエレン・アストライアーが爆睡ばくすいをしていた。


「アードゥル?!」

「ジェニ、こっちだ」


 アードゥルは部屋の片隅の床にいた。胡坐あぐらをかいた彼の足の上には、不安定であろうはずなのに熟睡じゅくすいしている問題の赤ん坊がいた。

 ほっとすると同時に、ジェニは駆け寄り乳児を引き取った。愚図ぐずって起きる気配はなかった。

 思わず、詰問きつもんするかのような口調になってしまった。


「どうして私達を起こさなかったの?!」

「よく寝ていたし、ジェニを起こしたらエレンも起きるじゃないか」


 愛妻家あいさいかを代表するような発言だった。


「でも――」

「それより、この子は腹をかせているようだ。どうしたらいいのかわからないから、とりあえず眠らせている」


 ジェニは、ハッとした。山羊やぎのミルクを与える時間は、とっくに過ぎている。


「もう貴方に救世主の称号をあげたい気分よ。待っててちょうだい」

「エレンは起こさないでくれ」

「それが条件というなら、いくらでも」


 ジェニはもう一度アードゥルに赤子を託すと、地上拠点のどこかに姿を消した。

 数分で戻ってきた彼女の手には、謎の容器が握られていた。


「それは?」

哺乳瓶ほにゅうびん

「ほにゅうびん?」

「中世遺物の検索は大変だったんだから。赤ん坊にミルクをやるためだけに特化した古代遺物アーティファクトを再現したの」

「なぜガラス瓶?」

「地上で消毒できるのは熱湯による煮沸にふつ手法しかないから」

「これは?」

「吸い口でゴム製よ」

「なぜゴム?」

「赤子の吸いやすいように。中心に穴があいているの。本来なら女性の乳房ちぶさから直接与えるの」


 アードゥルは衝撃を受けたようだった。


「……は?」

「母親の母乳の方が、山羊の乳より赤子に必要な成分が含まれているの。生命の神秘ね。だから赤子は直接、母親の乳房から経口補給けいこうほきゅうするの」

不衛生ふえいせいだろう?!」

「もっと不衛生ふえいせいなことは、山のように存在するわよ?」


 ジェニはアードゥルに不吉なことを告げた。


「地上の女性は命をかけて、子供を産むのよ。地上の母子の出産時の死亡率を調査したら、卒倒そっとうしかねない状況なの。未成熟な文明で、医療環境も整っていない。非衛生な環境で――ロニオスが上水道と下水道を整備したから地上拠点の周辺はマシになったけど、衛生知識はゼロに等しいわ」


 アードゥルには理解できない内容だった。


「身の危険をおかしてまで、なぜ出産を選ぶんだ?」

「私も彼女に同じことを問いかけたわ。地上の女性の本能に等しい行為なんですって。愛する人の子供を産みたいと思うことは。もちろん平和な時の話は――ってことだけどね?他民族との戦争時は女性は略奪され、戦利品として好きでもない男の子供をはらむことになり、一生奴隷どれいのように過ごすこともあるそうよ。野蛮やばんきわまりない低俗ていぞくな文明の極みだわ。それでも――」


 怒り狂いまくしたてたジェニは言葉を詰まらせた。


「……それでも?」

「彼女はロニオスのために家族を作ることができて幸せだと言うのよ」


 いつも冷静なジェニ・ロウは瞳に涙をためていた。


「こんな些細ささいなことで、彼女は幸せだといい、命をかけるのよ」

「だが、その説から行くと、彼女は強者ロニオスに略奪された立場ではないのか?同じ民族の男の子供をはらんだわけではないだろう?」

「私もその点を確認したわ。ロニオスは相手に強制するタイプじゃないとは言え……そしたら自分が望んで、ロニオスが願いごとを叶えてくれたそうよ。地上で妊娠した場合のリスクと、仲間が医療行為を一切拒否している事実と、たとえ命をかけて子供を産んでも、その子供を愛することができるとは限らない、と」

「……馬鹿正直すぎる」


 不器用か――アードゥルは呆れた。

 いつも人をたぶらかし、魅了し、絶対的なカリスマ性で従わせている中央セントラルの将来の指導者が、完全に地上人の女性に籠絡ろうらくされている。それは興味深く、また同時に見たくない姿でもあった。

 ロニオス・ブラッドフォードを盲目的に崇拝すうはいしている研究員など特にそうだろう。


「本当に馬鹿よね」


 同じような感想をジェニ・ロウは呟くように言った。


「その馬鹿という修辞句は、彼女か?ロニオスか?」

「両方に決まっているでしょう?」


 アードゥルの突っ込みに、ジェニは腰に手を当てて、きっぱりと言った。


「あろうことか、二人は賭けまでしたのよ?『ロニオスが子供に情を抱くことができるか』ってね」

「――」


 アードゥルは軽く口を開けた。

 アードゥルだけが知っている。あの夫婦は以前も賭けをして、ロニオスが完敗しているのだ。あの計算高く、古狐ふるぎつねのロニオスが賭で負けるとは前代未聞ぜんだいみもんだった。


 二人の論争に終止符をうったのは、アードゥルの元で寝ていた赤子だった。話に夢中になったアードゥルが施す遮蔽しゃへいが薄くなり、赤子は愚図ぐずりだす。


「ジェニ」


 ジェニは赤子を引き取り、慣れた手つきで哺乳瓶ほにゅうびん山羊乳ミルクを与える。


「……慣れているな」

「エレンの方が上手いわよ」

「そうなのか?」


 アードゥルの顔がほころんだ。


「エルネストも上手くなったけど」


 アードゥルは顔をしかめた。その反応にジェニはころころと笑った。


「本当に貴方とエルネストって、面白いわね」

「どういう意味で」

「そのままの意味よ」

「彼ほど腹立たしい人物はいない」

「ロニオス・ブラッドフォードよりも?」

「比較して腹立たしいのは――」


 ジェニの質問にアードゥルは腕を組んで、本格的に悩みだしたのでジェニは思わず詫びた。


「ごめん、選択しにくい質問だったわ。同程度ってことで、理解しておく」

「そうしてくれ」


 山羊乳を飲み終えた赤子は、アードゥルの元に戻りたがり、アードゥルは拒否することなく、受け取った。


「腰から背中を優しくさすってあげて」

「なぜ?」

「ミルクと一緒に空気を吸っているから、胃の中に溜まった空気を食堂から出す必要があるの。放置すると、吐き戻したミルクで窒息死する事故もあるのよ」

「なんて恐ろしいんだっ!」


 驚愕の表情をアードゥルは浮かべ、その反応にジェニは微笑んだ。


「貴方が、この子に無関心じゃなくて、嬉しいわ」

「ロニオスには散々世話になったからな。これぐらいしないと」

「義理堅いわね」

「ロニオスがいなければ、とっくの昔に能力を暴走させて、自滅していた」


 自嘲気味じちょうぎみにアードゥルは答えた。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る