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 南の島は、北の島と比較すると自然をそのまま残しているという印象を受けた。人が生活するために自然を切りひらくのではなく、人が自然の中で暮らしているのだ。木々と一体化した家屋や、空がほとんど見えない程に鬱蒼うっそうと繁る樹林にはクラリッサも目をみはった。


「お前、ネツァ・フィアストラ神については知っていますか」


 これまで無言で前を歩いていたチャムペカフだが、上陸しだいぶ密林を進んだところで唐突に口を開いた。

 振り返ることなく発せられた問いに、クラリッサは面食らう。しかし、もたもたしていたらまたどやされそうだったため、簡単には、と答えた。


「そう。ならば問題はありません。どこまで知っているかはお前次第ですが……概略がわかれば差し支えはないでしょう」

「この用事って、太陽神様と何か関係あるんですか?」


 クラリッサが問いかけると、チャムペカフはじろりと横目で睥睨へいげいした。射抜かれるかのごとき感覚さえ抱かされる、強烈な一瞥であった。


「お前は愚かであるようには見えませんが──ネツァ・フィアストラ神を僅かでもおとしめ、愚弄したならば、我々は決してその行為を許しません。命はないと思いなさい」

「はあい。肝に銘じます」

「……わかっているかわかっていないか、よくわからない返答ですね」


 チャムペカフはすぐに背中を向けて、先程と同じように歩き出した。しかし、その背中からは不機嫌さがにじみ出ている。クラリッサの対応が気に食わなかったのだろうか。

 高位の者に対して、若干物腰が軽いかな、という自覚はある。これでも歌姫をやっていたのだ、礼儀作法は嫌という程叩き込まれた。

 だが、これはクラリッサなりの密かな抵抗なのだ。

 有無を言わせず、半ば恫喝どうかつじみた手段を以てクラリッサを南の島にいざなったチャムペカフ。彼女のやり方を前にして、はいそうですかと素直にうなずける程クラリッサの物分かりは良くない。しかし逆らえば自分の命だけではなく、モーワンや世話になっている北の島の民──もしかしたらツィカにまで迷惑がかかる可能性もある。

 であれば、しおらしさを見せないに限る。従順ではあるが、どことなくチャムペカフを尊敬していない風を装い、クラリッサは彼女にあらがうことにした。詰まるところの悪足掻きである。


(しかしこの島、人の気配が感じられないな)


 周辺に住まいは見られるが、その近くに人がいる訳でもなく、しんと静まり返っている。時折どこかで鳥の声が聞こえる程度だ。

 チャムペカフとその付き人以外、住んでいないのではなかろうか。そう思いたかったが、モーワンによればツィカがこの島の出身だという。人が住んでいないと断定することは出来ない。

 何にせよ、首長がこの調子なのである。島民はさぞ生きづらいか、もしくは思想を同じくするが故に従順であろう。

 そうこうしているうちに、チャムペカフがふと足を止めた。彼女の背中にぶつかりそうになったのを、クラリッサはすんでのところで堪える。


「……ここは、ネツァ・フィアストラ神をおまつりするほこら。伝承にいわく、ネツァ・フィアストラ神はカペトラ族をフィアスティアリに導いた後、この場所から天へ飛び立ったといいます」


 相変わらず抑揚を感じさせない口調で、チャムペカフは淡々と語る。昔語りというよりは、業務連絡でも聞いているような気分だった。


「それ以来、ネツァ・フィアストラ神が地上に降りることはない。かの神そのものは太陽神、天に在ることこそが本来の在り方なのでしょう」

「……?」


 チャムペカフの発言に、クラリッサは違和感を覚えた。これでは、ネツァ・フィアストラの本体以外ならば地上に降りられるかのような言い方だ。

 南の島の首長は、つ、とクラリッサに温度のない視線を寄越した。そして、何も言わずに祠──正確にはそれを取り囲む石造りの遺跡らしき建造物へと足を踏み入れる。付いてこいということなのだろう。

 少しでも口にしてくれたなら、幾分か付き合いやすいのに。そう思うクラリッサだが、生憎チャムペカフに抗議出来る立場ではないため、黙って彼女の後ろを付いていく。

 祠の中は薄暗く、日中だというのにひんやりとうすら寒かった。ツィカから借りた薄手の簡頭衣では、鳥肌が立つのを抑えることは出来ない。祠の中だけ気候の異なる土地のようだった。


「これが見えますか」


 クラリッサがしきりに二の腕を擦っていると、顔色ひとつ変えないチャムペカフがある方向を指した。

 顔を上げて視線を移ろわせてみれば、そこには相当の年月が経ったのであろう壁画が描かれていた。

 もともと彩色してあったのだろうが、風化によりそのほとんどが剥がれ落ちている。クラリッサの故郷やその周辺地域のものとは全く異なる、異国情緒にあふれた独特の絵柄は、彼女の目を引き付けた。

 特に──チャムペカフが指す人物の絵。


「……あれこそが、ネツァ・フィアストラ神のお姿とされています。カペトラ族を導き、そしてお守りくださる天翔る神──そう呼ばれることとなった者は、周囲の人々とは一線を画するお姿をなさっていたという」


 それこそがあの絵姿です、とチャムペカフは説明した。

 風化の進行が著しい壁画だが、そこだけは鮮やかな色が残されている。南の島の民がこまめに修復しているのか、はたまた幸運にも風化を免れているのか、それ以外の理由があるのか──クラリッサにはわからない。

 だが、今はそういったことなど気にしてはいられなかった。クラリッサは目を見開いて、食い入るようにネツァ・フィアストラとされる者の絵を見つめた。


「──白い」


 その人物は、あまりにも白かった。

 髪の毛、肌。その全てが白く、暗がりの中に浮かび上がって見える。目の部分には絵ではなく宝石が埋め込まれているのだろうか、紅く煌めく石らしきものがまっていた。

 ネツァ・フィアストラ。その姿は、白子アルビノの特徴を色濃く体現している。


「ネツァ・フィアストラ神のお姿はあまりにも白く、透き通っていたそうです。それこそ、太陽の光を浴びれば容易くただれてしまう程に」

「……太陽神様は、鳥の姿だと聞いていたけれど」

「それは、ネツァ・フィアストラ神の本来のお姿。かつてネツァ・フィアストラ神はカペトラ族を導くため、敢えて人のお姿を選ばれたのです。それこそが、あの絵姿」


 クラリッサの問いに対して、チャムペカフは食い気味に答えた。彼女にとっては当たり前の情報なのだろう。

 ごくり、とクラリッサは唾を飲み込む。表情の変わらないチャムペカフの横顔を見遣り、恐る恐る切り出す。


「……それじゃあ、どうしてツィカは──エツィカシュイムは離島で暮らすことになっているんですか? あの子は、太陽神様によく似た姿をしているけど……」


 瞬間、チャムペカフの視線はこれまで以上に冷厳な鋭さを帯びた。クラリッサだけではなく、側に控えている付き人でさえも思わず身を竦めずにはいられない、言葉で表せぬ程の迫力と凄味があった。


「あの者は、ネツァ・フィアストラ神の化身。エツィカシュイムなどという、人間の名前で呼ばないで」

「す──みません……」


 睨まれただけで、命の危険を感じる羽目になろうとは。

 クラリッサは咄嗟とっさに謝罪した。ほぼ条件反射であった。

 チャムペカフも、感情をたかぶらせた自覚があったのだろう。僅かに目を見開いた後、ふぅぅぅ、と細く息を吐き出した。そして、何事もなかったかのような無表情で続ける。


「かの者は、ネツァ・フィアストラ神がカペトラ族を導くために降臨なさられた存在です。それが善き方向でも悪しき方向でも……我々は受け入れなければならない。万物は、ネツァ・フィアストラ神のご意志の下にあるのですから」

「……人ではない、と?」

「当然でしょう。姿かたちこそ人に似せられていますが、あのような色の人が生まれるはずがない。かの者に自覚がなくとも、ネツァ・フィアストラ神であることに違いはないのです。それゆえに、我々はかの者をネツァ・フィアストラ神として存在させなければなりません。人ではなく、神の化身であるという自覚を持たせ、あるべき姿になっていただかなければ……そうしなければ、ネツァ・フィアストラ神への裏切りと見なされてしまう」


 それなのに、とチャムペカフは眉根を寄せた。


「かの者を生んだ一族は、ものの道理がわからぬ異常者でした。ネツァ・フィアストラ神に近付けるためのあらゆる儀式から遠ざけようとしたばかりか、この島から逃げ出そうとしたのです。しかもあろうことか、ネツァ・フィアストラ神への背徳者が治める北の島を頼った。到底許されるべき行いではありません」

「儀式……って、まさか」


 ツィカが去勢されたのは、彼を神に近付けるための儀式が所以ゆえんか。

 顔を強張らせたクラリッサを見て、チャムペカフは「おや、聞いていたのですか」と平坦な声で言った。


「ネツァ・フィアストラ神に性はありません。かの者は男児として生まれましたが、それは化身を人たらしめんとする鎖となる。故に、切除すべきでした」

「……死ぬ可能性もあったのに?」

「何を言うのですか。神の化身は、生死の循環から解き放たれた存在。人は欲を捨て去らなければその循環より抜けることが叶いませんが、神とはそれらに一線を画するもの。とりわけ、ネツァ・フィアストラ神を取り戻すための儀式なのですから、死ぬるはずがありません」


 チャムペカフの口ぶりからして、彼女は己が思想を全く疑っていないようだった。ツィカが神の化身であると確信しているが故に、クラリッサには彼女が盲目的な信者のように見えた。

 否定しようとは思わなかった。これも文化のひとつだ。人々が生きてきた証であり、悪と断ずるのは身勝手が過ぎる。気に食わないからという理由で思想や信仰を否定しては、過去の破壊者と変わらない。

 ただ、わかり合えないのだとクラリッサは思った。ツィカという人間を知ってしまった今、チャムペカフの言葉はツィカを否定し、消し去ろうとするものでしかない。それに賛同しようとは思えなかった。


「……あたしをここに連れてきたのは、何故」


 淡々としていながら熱っぽく語るチャムペカフを、クラリッサは見聞きしていられなかった。無理矢理にも話題を逸らさなければ、ツィカを否定する彼女に極めて個人的な怒りをぶつけてしまいそうだった。

 この問いに対して、チャムペカフはす、と目を細める。見定めるような視線を浴びて、クラリッサの首筋に冷たいものが流れた。


「罪を許されざる者だというのに、お前はさといのですね。──いいえ、聡いからこそ、白き肌の者たちは我々を弾圧したのか……」


 誰にでもなく呟いてから、南の島の首長はクラリッサに向き直る。


「お前は、ネツァ・フィアストラ神の化身と生活を共にしているそうですね。あの忌々しい北の島の首長はお前に住み処を与えようとしたそうですが、それすらも断ったとか。そうして今も尚、烏滸おこがましいことに化身のもとに留まり続けている──と。そう、聞きました」


 チャムペカフの眼差しには非難の色がある。憎悪こそなかれど、彼女がクラリッサに嫌悪感を抱いていることは間違いなかった。

 たしかに、彼女たちからしてみればクラリッサの振る舞いは不敬以外の何物でもなかろう。化身と崇める存在に馴れ馴れしく接し、あたかも人間と付き合うように寝食を共にしているのだから。

 クラリッサは目を逸らさなかった。逸らしたが最後、チャムペカフに殺されるとさえ思った。


「……あなた方に不快な思いをさせたなら、その点は謝罪しましょう。決して、あなた方の信仰を貶めるつもりはないのです。どうかご理解いただきたい」

「前置きは結構。白き肌を持つというだけで、お前は我々と共存出来ない。早急に本題へと入りなさい」


 端から突き放すような言い方に、クラリッサは少なからず反発心を覚える。……が、ここで争ってもクラリッサに利はないどころか、最悪命を奪われる可能性もある。

 せり上がる負の感情をぐっと飲み込み、クラリッサは改めて告げる。


「あたしがあの子の側にいては、何か差し支えがありますか。あなた方にとってあの子が大切な神の化身であるように、あたしにとってあの子は命の恩人なんです。助けられた恩に報いようとしてはいけませんか」


 毅然とした面持ちで問うと、チャムペカフはさらに眼光を鋭くした。


「そもそも、あの者に人の──してや白き肌の者たちの道理を説くこと自体が傲慢なのです。あのお方は、人の側にあってはならない。神とはもとより人ならざるもの。たとえ人のお姿をとられていたとしても、神として扱わなくては」

「あたしは大陸で生まれ、大陸で育ちました。それゆえ、あちらの価値観しか知らなかったんです。こちらでの礼の尽くし方は存じ上げませんでしたが……でも、少なくともあの子自身はあたしの行動に不満を言うこともなく、今も受け入れてくれています。あの子が神の化身だと言うのなら、その御心みこころを尊重したいとあたしは思います」

「……そうやって、己が行為を正当化するのですね。ネツァ・フィアストラ神がどういった神かも知らなかった癖に」


 凪いだ水面のようだったチャムペカフの口ぶりは、今や一種の呪詛に近い響きを持っていた。

 彼女も必死なのだろうとクラリッサは思う。チャムペカフにはチャムペカフなりの、島の守り方、そして信仰がある。それが、アロヒュリカをはじめとする北の島の民やメクティワたちツィカの親族、そしてクラリッサと相容れなかったというだけのことだ。

 誰も悪くはないのだと、クラリッサは自覚している。誰もが最善を考えた結果、亀裂と対立が生まれてしまった。

 だが、それを理解しても尚──チャムペカフとはわかり合えないという事実は、クラリッサの胸中にて生々しくこごった。


「……今日のところは、北の島へ帰してあげましょう。無知な猿同然のお前をどうこうするつもりはありません」


 時間を置いて、幾分か気分を落ち着けたらしいチャムペカフの声は何かが圧し殺されている。それが彼女の身に渦巻く激情だと、今のクラリッサにはわかる。


「身の振る舞い方には気を付けなさい。お前がフィアスティアリに流れ着いたのもネツァ・フィアストラ神の導きですが、いつまでも慈悲が与えられるとは限らない。身の程を知らぬ振る舞いをしたその時には、お前に裁きが下ることでしょう。ゆめ忘れぬよう」


 チャムペカフの声は決して大きくなかったが、祠の中ではよく反響した。クラリッサは一度唾を飲み込んでから、はい、とだけ短く答えた。

 不思議な程涼しい空間だというのに、クラリッサの背中はじっとりと汗ばみ、お世辞にも快いとは言い難かった。

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