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 イェレミアスは妹に対して遠慮というものがなく、幼い頃にはよく喧嘩をしては言い争いだけにとどまらず殴る蹴るといった暴力によってクラリッサを泣かせた。クラリッサもまた、イェレミアスを言葉の刃で泣かせたことがあるが──クラリッサとしては、物理的な攻撃に比べれば全然まし、とのこと。正直どっちもどっちである。

 そういった訳で、妹だろうが容赦なく打ち負かそうとする兄だが、先程は珍しくクラリッサを気遣う素振りを見せた。

 これにはクラリッサも酷く驚いて、ふざけ半分で天変地異が起こってもおかしくない──などと宣ったものだが。


「まさか本当に起こるとは思わないじゃん!」


──たった今、彼女は天変地異に襲われていた。

 兄の知らせによれば今回の経路に時化の気配もないとのことだったが、どういったことかこの日の夜半、海は荒れに荒れた。暴風雨が叩き付けるように吹き荒び、船は荒れ狂う海にもまれ、ついに座礁した。

 乗船してから一日が過ぎ、その日の夕食を食べてすっかり眠りこけていたクラリッサも、突如として襲い掛かった揺れに意識を覚醒させた。ついでに寝台から転げ落ちて体を床に打ち付けた。大きな怪我はしなかったものの、地味に背中が痛い。そして、起き上がったら船が傾いていた。


「くっそぉおお、どういうことだよまったく! 兄さんってば、帰ったらただじゃおかないからな! 帰れるかわかんないけど!」


 自分を鼓舞する気持ちも込めて兄に恨み言を吐きつつ、クラリッサは雨に打たれながら何とか非常用の小舟に滑り込んだ。

 ここがどこかすら正確にはわかっていないが、今は緊急事態である。船が沈没する前に小舟に乗れただけでも幸運と思わなければ。

 しかし、荒れ狂う天候は一向に収まることはなく、むしろ強さを増していくばかり。最早小舟の縁に掴まっていなければ、そのまま吹き飛ばされそうな勢いだ。

 内陸部で育ったクラリッサからしてみれば、海に落ちたら一巻の終わり、死への道を一直線。兄ならば泳いで何とか出来るかもしれないが、クラリッサは溺れて海の藻屑もくずと消えるしかない。

 風の音がうるさくて途切れ途切れだが、そう遠くないところから人の悲鳴も聞こえてくる。誰かが海に落ちたのだろうか。ここからでは、全容を知ることは出来ない。


(本格的にまずくなってきたな、これは)


 クラリッサの乗る小舟も、先程見た時よりも人数が減っている。先導するはずの船乗りの姿もない。どうやら海に落ちたのだろう。小舟に人が乗り込み次第乗客を陸地に案内するとのことだったが、まともな案内をされる間もなく小舟は素人だけになった。

 ぴしゃん、と雷のちる音が響く。クラリッサは思わず身震いして、一層強く小舟の縁にしがみついた。


「かみさま──」


 嵐の激しさの間隙を縫って聞こえてきたのは、小舟に同乗する子供の、震える祈りの声だった。

 かみさま。神。

 それは、この大陸の民のほとんどが信仰している唯一神──『大いなる神』のことに違いなかろう。

 『大いなる神』は、人々に試練を与える神である。

 優れたものであれ、清らかであれ、善くあれ。

 『大いなる神』は人々にそう指し示すことはあっても、手を差し伸べることはない。『大いなる神』は人里に降りてくることなどなく、いつも天より人の住まう現世──いわゆる下界を見下ろしているのだという。同じ場所に立つには、『大いなる神』の望んだ通りに生きて、清らかな魂のまま死ななければならない。

 だから、祈ったところできっと『大いなる神』は人々を助けてはくれないのだとクラリッサは思う。死に際する人々を生かすことよりも、神はその魂の在り方のみを見定める。


(だというのに、自ら死ぬことは許してくれないんだもんな)


 『大いなる神』は、自殺を許さない。墓に入らずに死ぬことも許さない。『大いなる神』の求める死に方をしなかった人は、地獄に落ちて永劫えいごうに責め苦を受けねばならない。

 勝手だ。神は、自分勝手だ。人と同じくらい──いや、人を超える程に自分勝手で、信徒に安らぎを与えはしない。

 今ここで手を離し、海の藻屑と消えたのならば、クラリッサは社会的に批難されることになるのだろう。『大いなる神』の望む死を遂げなかったというだけで。


(馬鹿げてる)


 きつく船縁にしがみつきながら、クラリッサは内心で形なき神に毒づく。

 『大いなる神』は偶像として崇拝されることだけではなく、個としての名前を持つことさえないのだ。それは、唯一の神だから。

 風が、一等強く吹き付ける。クラリッサの手が、船縁から離れた。


(まずい──!)


 雨に濡れているので最早気にしてなどいられなかったが、クラリッサの体は海へと落ちた。塩分を含んだ水が、つむることを忘れた眼球にしみる。

 クラリッサは無我夢中でもがいた。偶然流れてきた木材──恐らくは船の部品か何かだろう──にしがみついて、何とか顔を出して呼吸を繰り返す。

 ここで死ねば、兄に迷惑がかかる。ならば、まだ死ねない。

 どこに向かっているのかはわからなかったが、クラリッサはただひたすらに押し流された。何度も何度も体が沈みかけたが、気力で流木にすがり付き、死に物狂いで息をした。

 せめてどこか、陸地に流れ着いてくれれば良い。我儘わがままを言っても良いのなら、兄と連絡の取れる場所へ。


(兄さん)


 クラリッサのまなうらに、イェレミアスの顔が浮かぶ。

 大雑把でものぐさで面倒くさがりで、そして優しい兄。よく喧嘩もしたが、それ以上にクラリッサの味方でいてくれた兄。自分とよく似た顔立ちをしていながらも、内面はまったく似ていなかった兄。

 彼には世話になった。一生かけても返せない程の恩がある。イェレミアスに無理を言って、南の島に行きたいといった自分を、クラリッサは殴り飛ばしたくて仕方がない。


(兄さん、ごめん)


 唇を噛んで、クラリッサははなを鳴らした。兄に迷惑をかけることだけが、一番の気掛かりだった。

 気が付けば、けたたましく轟いていた雷鳴は遠ざかり、潮の流れも穏やかになっていた。暗く立ち込めていたはずの暗雲は晴れて、辺り一面には美しい星空が広がっている。

 嵐は過ぎた。そして、自分はまだ生きている。

 クラリッサは塩水のしみる目を擦りたいのを我慢して、生理的な涙を流しながら足をばたつかせた。何としてでも陸地に辿り着かなければという使命感が、彼女の生命力を強めていた。

 自分が向かっていたのは、大陸南方にある群島。経路を外れていなければ、大陸沿いにいるはずだ。運が良ければ、どこかの国の港町に漂着出来るかもしれない。

 しばらくの間流木を支えにして進んでいると、やがて爪先が砂に触れた。靴は両足とも脱げてしまったようだが、この際そのようなことは気にしていられない。そう遠くないところに陸地があるのだと、クラリッサは希望に瞳を輝かせた。

 少し進むと、完全に立つことが出来るようになった。クラリッサは立ち歩きで進み──やっとの思いで、砂浜へと到着した。


(陸地だ。砂浜だ)


 海水を吸ったドレスが重い。その重さと、そして多大なる疲労感に背中を押されて、クラリッサは砂の中に倒れ込む。


(助けを、呼ばなきゃ)


 人気はない。ここが有人の場所かどうかもわからない。第一、喉がからからに渇いてまともな声すら出ない。それに、眠くて仕方がない。

 クラリッサには、その場から動く努力をする余裕もなかった。けほ、と小さく咳き込んでから、彼女は意識を失った。

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