Ⅰ Prestissimo

1


 胸が苦しい。


 それは物理的な苦痛だった。胸の内が焼けるかのように熱く、痛く、そして苦しく、二十歳を少し過ぎた娘は声にならない叫びを上げた。

 死んでしまうかと思った。しかし、娘の意識は朦朧としながらも痛覚を敏感に受け取り、呼吸を止めさせてはくれない。


 死にたい。早く楽になりたい。


 視界の内に、産毛を整えるためにと置かれた剃刀かみそりが見えた。

──あれで喉を掻き切れば死ねるだろうか。

 だが、それを掴んではいけないと、未だしぶとく残り続けている理性が止める。自殺をすればお前はお前でいられなくなると、理性は叫ぶ。

 何故死ねない。何故、死ぬことが許されない。こんなにも苦しいのに、辛いのに、何故楽になってはならない。何故待たされなくてはならない。

──何故。


「──っ」


 急激に浮上した意識に、クラリッサは一瞬何が起こったのか理解出来なかった。

 薄暗い場所に寝かされている。だが、完全な暗闇という訳ではない。

 クラリッサは鈍く痛む頭を起こす。眉間を揉んでみたが、頭痛は余程この頭が気に入ったのか、居残ったままだった。


(どこだ、ここ)


 きょろきょろと辺りを見回す。意識がはっきりとしてきたためか、先程よりも視界は鮮明になった。

 どうやら、ここは岩窟がんくつの奥らしい。直線上には、白く丸い穴がある。恐らく、あの穴が出入口なのだろう。

 その岩窟は、女性にしては背の高いクラリッサが立ち上がっても余裕がある程度には広々としていた。縦にも横にも広い。自分が寝かされていた場所の隣に、空の寝具が置かれていた。他にも住人がいるのだろうか。


(ヒュリアの音楽堂にあった練習場とどっちが広いかな)


 暗さに慣れてきたところで目を瞬かせていると、ざり、と地面を踏む音がした。

 反射的に顔を上げる。そこには、一人──年若い、まだ二十歳にも満たないであろう少年が立っていた。


「起きたか」


 少年は頭から布を被っていた。そのため、顔立ちはよくわからない。両手でおけを持ち、抑揚のない声で一言声をかけた。

 ヒュリアの言葉ではない。大陸の南方の訛りによく似た言葉である。

 出張で赴くこともあったため、クラリッサもある程度は話せる言語である。しかし、まったく同じという訳ではなく、何となくそう言っているのがわかる、という程度だった。

 クラリッサはぱちぱち、と何度か瞬きをしてから、少年に尋ねる。


「……君が、あたしを助けてくれたのかい?」


 少年は答えなかった。桶を地面に置くと、岩肌をくり貫いて造ったらしい棚から杯を取り出すと、それを桶の中に突っ込んだ。

 クラリッサは、おもむろに桶の中を覗き込む。そこには、透明な水が溜められていた。


「飲め」


 鏡みたいだな、とぼんやり思っていると、少年が杯を差し出していた。ここでクラリッサは、自分の喉が酷く渇いていることに気付いた。

 クラリッサは差し出された杯を受け取ると、ごくごくと中身を一気飲みした。水はぬるかったが、かえってそれがちょうど良く感じた。じり気のない水はクラリッサの喉を潤し、言い様もない爽快感を与えた。

 一杯では足りず、クラリッサは許可も取らずにおかわりをした。三杯目まで飲んでから、彼女はやっと少年に向き直る。


「美味しいね。ありがとう、汲んでくるのは大変だっただろうに」

「苦になる程のことではない。気にするな」


 少年はそういった風のことを言って、豪快に布を脱ぎ捨てた。鬱陶しかったのだろうか。

 あらわになった少年の素顔に──クラリッサは思わず目をみはった。


(──白い)


 大陸の人々は、大体が色素の薄い肌をしているが、この少年程ではない。少年の肌はほとんど白に近く、血管が透けていることもあって角度によっては桃色がかって見えた。髪の毛も色を抜いたかのように真っ白で、若々しくありながら老人のようでもあった。

 クラリッサは、少年をじっと観察する。

 痩せてはいるが、余分な肉がないというだけで、しなやかかつ滑らかな体つきをしている。背丈はクラリッサよりも頭ひとつ分程大きいと見て良さそうだ。顔立ちは整っていたが、色彩の少なさによって無機質な、作り物めいたものにも見える。何もかもが白かったが、瞳だけは血をこごらせたかのように赤かった。

 こういった容姿をした人間のことを、クラリッサは聞いたことがある。


「君、もしかして白子アルビノかい」


 突然このようなことを問うのは失礼とわかってはいたが、問いかけずにはいられなかった。

 少年は焦点の定まらぬ目を何度か瞬かせて、最終的にはクラリッサの隣に座った。そして、ずい、と顔を近付けてくる。


「お前の言葉には、少し間違いがある」


 彼は、大体そのようなことを言った。実際にはもっと多用な表現を使用しているのかもしれないが、クラリッサにはその辺りしかわからなかった。


「ごめん、いつも遣っている言葉じゃないんだ。だから、上手く話せない」

「謝らなくて良い。怒っていない」


 意志疎通が出来ない訳ではないことに、クラリッサはひとまず安堵する。ついでに言えば、この少年にも話す気はあるようだ。無表情かつ声の抑揚も希薄なので、その思考を詳細に読み取ることは難しかったが。


「話は、飯を食べながらにしよう。腹は減っているか?」


 少年の問いに、クラリッサは何度かうなずくことで答える。喉の渇きは幾分かましになったが、よく考えれば空腹でもある。先程から腹の虫が元気で仕方がない。

 少年は少し待っていろ、と告げてから、立ち上がって何かを取りに行った。岩窟の外にまでは行かないようだが、寝所となっているこの場所からは少し離れたところに置いているのだろう。


(あの少年は何者なのだろう)


 小さくなった後ろ姿を眺めつつ、クラリッサは思案する。

 極端に白い肌と毛髪に、赤い瞳。彼はたしかに白子の特徴と一致する容姿を有している。

 クラリッサが実際に白子を見たのはこれが初めてだが、大陸でもその存在は確認されている。人間でなくとも、兎や蛇といった動物にもその特徴を有したものはいるし、最近では高名な学者が論文を発表することもある。


(確か、この前読んだ文献にもそれらしいことが書かれていたな。つまらなかったから途中で投げちゃったけど……。こんなことになるなら、最後まで読んでおけば良かったかな)


 内容を思い出しているうちに、少年が戻ってきた。彼の腕にはざるのようなものが抱えられており、その中には大量の干した果実らしきものが入っていた。


「右側が椰子やし、左側が亀の実だ。好きに食え」

「……亀の実?」

「まずは食ってみると良い。甘くて美味い」


 この地独特のなまりなのか、それとも単にそういう名前なのかはわからなかったが、空腹に抗うことは出来なかったため、クラリッサは亀の実と呼ばれた方を摘まんで口の中に放り込んだ。

 噛むと柔らかく、そして甘酸っぱい香りが鼻腔をくすぐる。クラリッサは「あっ」と声を上げて、少年に向き直った。


「わかった、これって鳳梨パイナップルだね?」

「ぱ……?」

「ああいや、あたしたちの住んでいるところではそういう風に呼んでいるんだ。ここでは亀の実と呼ばれているんだね」

「ああ。皆、そのように呼んでいるらしい」


 曖昧に答えてから、少年も鳳梨を摘まむ。それなりに量はあるため、二人で食べても事足りそうだ。

 椰子の実の方も口にしつつ、クラリッサは少年を見る。彼も腹が減っていたのか、無言ながら次々と干した果実に手を伸ばしていた。


「ねえ、君。色々聞きたいことがあるんだけど、今話しても良いかな?」


 栗鼠りすのように頬を膨らませて果実を咀嚼そしゃくしている少年を見つめながら、クラリッサはお伺いを立てる。無言で食事をするのはさすがに居心地が悪いし、何よりも今自分が置かれている状況の確認もしておきたい。

 少年はしばらく咀嚼を繰り返していたが、やがて飲み込んだらしくああ、と短く答えた。口にものを入れたまま話すのは、無作法と考えられているのだろうか。もしそうなら文化の合致に感謝である。クラリッサは咀嚼音が苦手なのだ。


「それじゃあ、まずは君の名前を教えてくれるかな? あたしはクラリッサ・ナイトハルト。気軽に名前で呼んでくれて構わないよ」

「……く、くら、くらる…………くらり…………」

「知り合いには、あたしのことをクラリスって呼ぶ人もいるよ」

「……では、クラリスと呼ぶ」


 クラリッサとは呼びにくかったのか、少年は彼女のあだ名のひとつであるクラリスという呼び方を選んだ。この地域では難しい発音のようだ。


「俺はツィカ。好きに呼べ」

「へえ、ツィカか。君があたしをここまで連れてきてくれたの? もしそうなら、君はあたしの恩人だ」


 少年──ツィカは恩人、と小さく呟いてから、そうなるのかもしれない、と自信なさげに答えた。


「お前は、ここから少し行ったところにある砂浜に倒れていた。お前のような人が流れ着くことなどほとんどないから、驚いたが……。見殺しにするのは気が引けたから、ここまで運んだ。汚いところですまない」

「いやいや、謝ることないって。むしろ助けてもらって万々歳、感謝感激雨霰だよ! まさか乗ってた船が座礁して沈没、海に投げ出されるとは思ってなかったからねえ。命あっての物種とはよく言うけれど、いざ死にかけるとありがたみが違う」

「……すまない、よくわからない」

「ごめんごめん。まあ要するに君は私の、命の恩人ってことさ。超感謝してるって訳」


 矢継ぎ早に話すクラリッサに、ツィカは首をかしげた。

 言葉がある程度通じるのはありがたいが、やはり全て理解されている訳ではないらしい。──ツィカの口数が少ないだけかもしれないが。

 話を変えよう。いつまでも戸惑わせているのはさすがに申し訳ない。


「そういえば、ツィカはここで暮らしてるの? 岩窟だけど、すごい生活感あるよね」

「ああ。俺はネツァ・フィアストラの視線に弱いから、昼間はたいていここにいる。外に出るのは、夜になってからだ」

「ね、ネツァ……何て?」

「ネツァ・フィアストラ。この島々に住まう人々が何よりも信仰する太陽神だ。日の光は、ネツァ・フィアストラの視線と言われている」


 そう言って、ツィカは指で地面に鳥のようなものを描いた。下手──ではないが、妙に気の抜ける絵柄である。


「ここに住まう人々は、皆このネツァ・フィアストラを信仰している。唯一の神という訳ではなく他に精霊のようなものもいると信じられているが、何よりも尊く気高い存在として祀られている」

「精霊もいるの?」

「いる。どれも自然に人の性格を付随させたようなものだ。そして、そのいずれも──ネツァ・フィアストラによって創造された」

「ふうん、要するに主神のようなものかな」


 うんうん、とうなずきつつ、でも、とクラリッサはツィカを見る。


「ツィカ、君はその神のことを呼び捨てにしているね。君は別の神を信仰しているの?」


 ツィカは赤い瞳を、所在なさげにさ迷わせた。不安げな表情をすると、一気に儚げな雰囲気が漂う。


「……俺は、この通り肌が白い。だから、ネツァ・フィアストラに焼かれる存在なんだ。この地において、白い肌の人間は罪を犯した者と考えられているから」

「罪……?」

「伝承だ。この島に住まう人々──カペトラ族と呼ばれているんだが、彼らはネツァ・フィアストラの導きによってここに定住し始めた。カペトラ族は皆一様に黒く美しい、ネツァ・フィアストラの視線を浴びても焼け爛れることのない肌を持っていて、それこそが一族の誇りとされている。……俺やお前のような、白い肌の者は、ネツァ・フィアストラに焼かれ──罪を裁かれる存在なのだそうだ」

「ツィカは、肌の色でここの人たちにいじめられているのかい?」

「いじめられている訳ではない。だが、皆忌避する。話す言葉も、食べるものも、住まう土地も、何もかも同じなのに……別の生き物でも見るような目をする。俺のことを、化け物か何かだと思っているんだろう」


 だからネツァ・フィアストラを手放しに尊いとは思えない、とツィカはうつむきながら語った。

 まだツィカ以外の人間を見てはいないが、たしかにそのような伝承が信じられる中で何もかも真っ白な彼が現れたら忌避するだろうな──とクラリッサは推測した。大陸では肌の白い者がほとんどだが、それでも白子は物珍しいものとして扱われる。真反対の、肌の黒い人々ならば尚更だろう。

 ツィカにこれ以上ネツァ・フィアストラの話をさせるのは申し訳ない。クラリッサは話題を変えることにした。


「それよりも、さ。君はここを島々だと言ったよね? 大陸からどれくらい離れているかとか、わかる? あたしは大陸から来たんだ」

「大陸……」


 少し考え込む素振りを見せてから、ツィカは再び地面に指を走らせた。


「フィアスティアリ──ああ、この地域のことなんだが、大小合わせて二十近い島々から成り立っている。俺たちカペトラ族はこの島々に住んでいて、東西南北に首長を設けている。俺たちがいるのは、フィアスティアリでも北端にあたる小さな島だ。だから、恐らく大陸というのはここから北にいったところにあるのだと思う」

「大陸のこと、あまり知らない?」

「……申し訳ないが、よくわからない。北方に白い肌の者がたくさんいると聞かされたことはあるが……フィアスティアリの周りは海に囲まれているし、北を見たところで島のようなものは見えない。確かなことは言えないが……それなりの距離があると見て良いと思う」


 そのままどんどん顔をうつむけるツィカの肩を、クラリッサは「待った待った!」と押さえた。目の前で落ち込まれるのは心臓に悪い。


「あたしだって地理にものすごく詳しい訳じゃないし、教えてもらえただけでもありがたいよ。それに、ここが無人島じゃないってだけで幸運だしさ。ここには他に人も住んでるんだろう? だったら、偉い人たちに遭難したことを伝えて、情報をもらえば良いんだよ! こっちは身一つの異国から来た女だから多少怪しまれることは覚悟しなきゃだけど、ある程度言葉は通じる。遭難の時点でかなり不運だけど、これは比較的幸運な遭難だ。君が落ち込む必要なんてどこにもないよ。さすがのあたしも、恩人にいちゃもんつける程腐ってないって」

「ええと……俺のこと、励ましてくれているのか?」

「まあ、そんなところ。だからそんな辛気くさい顔しないでさ、まずはご飯でも食べようぜ? 君もお腹空いてるんだろ? だったらまずは腹ごしらえしないと!」


 なっ、と肩を抱くと、ツィカは目を見開いた。クラリッサとしては朝飯前の触れ合いだが、彼はこうして密着することに慣れていないようだ。


「──クラリス、お前は変な奴だな」

「よく言われる。褒め言葉みたいなものだよ。こんな変な奴を拾えて、ツィカは幸せ者さ。誇って良いんだぜ?」

「……そうだな。俺は、幸運かもしれない」


 笑顔とまではいかなかったが、ツィカの表情は幾分か柔らかくなった。──うん、やはりこの方が良い。

 にやりと微笑み、クラリッサは二、三個の干した椰子の実を口に放り込んだ。その食べっぷりにツィカは瞠目し、「やはり変な奴だ」としみじみとした様子で繰り返した。

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