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この世界は、広大な大陸と、大陸の国家が所有する島々によって構成されている。
東西に長い大陸は、今から一千年程前に
『大いなる神』は、信ずる人々の
彼らにとっての正義は『大いなる神』ただ一柱であり、それ以外の信仰は邪教に過ぎない。抵抗する者もしなかった者も、『大いなる神』への信仰によって潰された。
現在も大陸に残る精霊信仰は、『大いなる神』の軍勢に対して勝利した、数少ない文明の印である。しかしそういった原始的な精霊信仰も、現代となっては人口の都市部流入によってほとんど残っていないとされる。
宗教によって栄え滅びる時代は終わった。人々や国家は、今より百年程前に勃発し、つい十五年前に終結した貿易摩擦による世界的な戦争を契機に国家の協調を重視するようになり、今では貿易や観光によって多くの人々が世界各地を行き来している。大陸に流されたおびただしい血は、過去の忌まわしい歴史として二度と同じことを起こしてはならぬと、人から人へ伝えられた。
華やかなりし文化を中心とした、戦争の起こらない穏やかな時代が到来した。未来ある子供たちを教え育てる教師たちは、皆口々に過去の反省を語ると共に、今の幸福を噛んでふくめるように認識させた。
──アルツィリオ共和国南部、リヴァ。
古来より港町として栄えるこの町に、彼女は堂々と仁王立ちする。
「照り付ける太陽! からっとした潮風!
眼前に広がる海と大型船に、女──クラリッサ・ナイトハルトはわざとらしいアルツィリオ語で称賛の言葉を送った。
クラリッサはアルツィリオの出身ではなく、内陸部に位置するヒュリア連邦の生まれである。しかし数年前まで仕事の関係で数多の国々を股にかけていたこともあり、話者の多い言語は日常会話程度であれば使いこなすことが出来た。
生真面目な人柄で知られるヒュリア人ではあるものの、クラリッサはそんなお国柄とは対照的にやたらお喋りで人懐っこい。
良く言えば気さく、悪く言えばうるさい気質が幸いしてか、彼女は現地人ともすぐに馴染んだ。要するに、多少言語の壁があったとしても意思疏通はお手のものであり、ちゃっかり語学の学習にまで役立てていたが故に、クラリッサは自国以外の土地でも場違いな程に朗らかなのであった。
「お前本当にうるせえな」
カンラン石を思わせる瞳を
「良いじゃないか兄さん。だってこれから南の島に行くんだぜ? 気分が高揚するのは当然だと思うがね。少なくとも、兄さんみたいに辛気くさい顔をしているよりかは、ずっとましだと思うのだけれど」
「相変わらず、口だけは達者だな。歌声はこの俺が馬鹿になるくらい綺麗だっつーのに」
「兄さんはもともとちょっと抜けてるだろ、あたしの歌以前の問題だよ」
「何だと、こいつめっ」
「いでででで、やめてくれよ、あたしはこう見えて一世を
クラリッサの両こめかみを拳で圧迫しているこの青年は、イェレミアス・ナイトハルトという。姓からもわかることではあるが、クラリッサの実の兄である。
クラリッサが南の島に行きたい、と唐突にも程がある提案を持ち掛けた時、不承不承といった様子で船の手配や港までの同行を引き受けたのが彼だった。
それもそのはず、イェレミアスの本業は航海士である。その他の部分はともかくとして、船舶に関しての知識と経験においてクラリッサは何よりも兄を信頼していた。
自称可愛い妹のお願いを引き受けたイェレミアスは、彼女のこめかみから手を離してから、まったく、と溜め息を吐く。
「お前なあ、無理して能天気なふりしなくても良いんだからな。たしかにお前は稀代の歌姫とか呼ばれてたが、今となっては遠い過去の話、その姿を忘れたって誰も咎めやしない。だからさ」
「嫌だなあ、兄さんってばあたしに気を遣ってるのかい? こりゃあ、天変地異が起こったっておかしくはないな! さっきまでこのクラリッサ様に乱暴を働いてた癖に、一体どういう心変わりだよ?」
「……ああはいはい、お前はそういう奴だよ。心配した俺が馬鹿だったわ」
けらけら笑うクラリッサに、イェレミアスは先程までの神妙な表情を引っ込めた。其処には、何とも言えぬ諦めにも似た色が込められている。
この兄はやや──いや結構な面倒臭がりでものぐさな男だが、クラリッサの数少ない理解者でもある。彼女がしばらくの間郷里を離れたいと真っ先に相談したのも、他ならぬイェレミアスだった。彼ならば渋々といった様子で、自分のために労力を割いてくれるとわかっていたから。
「……本当にありがとう、兄さん。色々心配かけて」
やれやれとでも言いたげに肩を竦めるイェレミアスを、クラリッサは目を細めつつ見つめた。よく似た兄妹とは言われるが、イェレミアスの方が柔らかくて人好きのする顔立ちをしている──と思った。
兄は驚いたように目を見開く。いつもなら軽口を叩いてはじゃれ合う、やんちゃな妹のしおらしい表情に意表をつかれたようだった。
「何だよ、今更。今だって十分心配をかけてるよ、お前は」
「うん、知ってる。でも、次に会えるのはいつになるかわからないからさ。ちょうどいい機会だし、改めて言っておこうかと」
「おいおいやめろよ、今生の別れでもあるまいしよ。ある程度落ち着いたら、帰ってくるつもりなんだろ? 何かあったら手紙でも書けよ、時間が空いたら迎えに来てやるから」
そう言って、イェレミアスは乱暴に妹の頭を撫でた。太陽光を受けて輝く金髪は、兄妹共通の色だ。
クラリッサはわかってるよ、と笑いながら答える。きっと連絡を寄越せば、兄は仕事があろうとなかろうと時間を作ってすぐに迎えに来てくれるのだろうと思いながら。
「じゃあ、しばらく南の島でゆっくりしてくるよ。何ならあっちの料理でも覚えて、帰ってきたらとびきりのご馳走でも作ってあげるからさ」
「遠慮しとく。お前、家事はからきしだからな。腹を壊したら仕事に障る」
「はいはい、っと。どーせあたしのご飯はまずいですよーだ」
大袈裟に頬を膨らませてから、クラリッサは兄から離れる。見れば、船には次々と人が乗り込んでいる。
「じゃーね、兄さん。お土産楽しみにしてて」
「おう。達者で──っつっても、お前は何処でも元気か」
「それは勿論。言われなくとも、元気でやるよ」
にっ、と歯を見せて笑ってから、クラリッサは船へと乗り込んだ。客室には向かわずに、荷物を持ったまま甲板へと出る。
見送りの人々の中に兄の姿が混じっていた。クラリッサはその姿をいち早く見付けると、ぶんぶんと大きく手を振った。イェレミアスは苦笑しつつ、小さく手を挙げてそれに答えた。
船出の合図が鳴り響く。離れゆく陸地が地平線の向こうに消えるまで、クラリッサは兄に向けて手を振り続けていた。
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