ミミちゃんはおれの犬

古池ねじ

第1話

 お隣の熊沢さんちには犬が四匹いる。ネネちゃんというのが最年長のメス、マルちゃんがそれよりちょっと若いオス。この二匹の間に生まれたイチちゃんとニーちゃん。それで四匹。もともと四匹きょうだいだったのが生まれてすぐ一匹死んで、もう一匹はうちに引き取られた。それがミミちゃん。

 制服に着替えて一階に降りる。ミミちゃんにドッグフードをあげて、冷蔵庫から出した人参を一口ずつ食べさせてやる。根菜が好きなのだ。何日かに一回、ばあちゃんに野菜をもらって角切りにしてチンしておく。ミミちゃんドッグフードは自分で食べるけど、野菜はおれからじゃないと一口も食べない。でもあげないとごはんのところから動かない。おれはあくびをしながら指先に人参を乗っける。湿った鼻と細い乾いた毛、薄くてあったかい舌の感触。可愛い。毎日会ってるけど毎日可愛い。親父がつけてるテレビのニュースを聞くともなく聞く。緊急避妊薬の承認の話のところで、親父は電源を切った。気まずいのかな。おれは小さく笑って、きょとんとしたミミちゃんを撫でてやる。

 ミミちゃんはチワワとマルチーズとヨークシャーテリアと……なんだか忘れた。ばあちゃんは覚えてると思うけど。とにかくいろんな血が入ってるメス。もう三歳の成犬だけど三キロぐらいしかない。長い毛は薄い茶色と金色と灰色がグラデーションになってて、耳の根本はふわふわっと逆立ってる。ちょっとたれ目で、いつも泣いてるみたいな顔。可憐なお姫様。結構図々しくて、そこも可愛い。

 親父が引き取るのを決めたんだけど面倒はほぼおれが見ている。おれが一番仲いい女の子、というか、男子校に通うおれが唯一仲良くしてる女の子で、この世で唯一、愛着を持ってもいい女の子だった。

 じいちゃんとばあちゃんと親父とおれの四人家族に犬一匹。それが佐藤家。じいちゃんの三十年前建てた家に暮らしてる。じいちゃんはもう出勤していて、ばあちゃんはもう飯食い終わって寝室のテレビでネットフリックスを見てる。多分アメリカの犯罪ドラマ。ばあちゃんそういうの好きなんだ。

 親父はおれが座るのを待っていた。ミミちゃんくさい手を洗って親父の正面の席に座る。今日はトーストとカップのヨーグルトとインスタントのポタージュ。いつもそういう感じだ。さっさと食っといてくれって思うんだけど親父は食事は一緒にとる方針だった。育児に関して自分で作った決まりを死守しようとする。飯ぐらい別々に食ってもいいだろと思うけど、わざわざ言うのも面倒くさい。

「いただきます」

「いただきます」

 挨拶をちゃんとするのも親父が決めていることだ。保育園ぐらいのとき言い忘れたら、すげー声で怒鳴りだして大惨事になった。しばらく耳が痛くてでかい音聞くの怖かった。そういういくつかの大惨事を乗り越えておれは元気な挨拶を欠かさない十六歳になった。

「綺羅」

 冷めかけたスープの上で固まってるところをスプーンで掬ってると親父が急に呼んできた。スーツの上着以外はきちんと着込んだ親父は、まだ飯に手を付けていない。背筋を伸ばして、眉間に皺を寄せている。

「何?」

 心当たりを考えるけど、何もない。学校から言われるような悪さもしてないし、スマホで勝手に金使ったりもしてない。変な交友関係もない。特に何もしてないのに、そんなふうに呼ばれるたびになんかしたっけと考える。いつもなんとなーく後ろめたい。おれがなんも考えずにしたことで、誰かがひどい目にあってる。そういう気がいつもする。

「やってほしいことがある」

「え、なに?」

「忙しいか?」

「え、別に」

 親父は眉間に皺を寄せたまま黙り込む。水も飲み終わったミミちゃんが足元になついてきたから足をちょこちょこ動かして相手してやる。かわいい。スープのカップに口を付けて半分飲み終わったおれにようやく口を開いた親父が頼んできたのは、尾行だった。


 茉麻さんは熊沢さんちの娘さんだ。二十七歳で、県立図書館で司書をしている。司書になるのって大変らしい、と、じいちゃんばあちゃんが言ってるのを聞いた。熊沢さんのおばさんによると、相当苦労をしたらしい。偉いね。まじで偉い。でも本人には言ってない。一人で熊沢さんちのほう見て拝んだ。

 茉麻さんとおれ、隣の家と言っても滅多に会わない。普段は遠くから見かけるだけだけど、綺麗な人だ。つやつやの長い髪で、働いてる若い女の人の見本みたいな恰好をしている。そんな隣人である茉麻さんだが、どうもこの頃職場の男といい感じらしい。

 二十七歳の独身女性の恋愛とかほっとけよって話だけど、親父はほっとけないらしいので今日学校終わったら尾行である。尾行て。親父馬鹿じゃねーの。でも断らなかったので必要経費に一万もらった。なんなんだ。ひと月の小遣いより多い。

 高校までは自転車で駅行ってそこから二十分ぐらい電車に乗る。駅では女の子たちがおれを見てこそこそ話してたりする。いつものことだ。おれは女の子にもてる。小さいころからお菓子とかいっぱいもらったもん。もらったあと親父にばれたらくそ怒られたけどおれも子供で向こうも懲りないから公園行くたびに顔に菓子の滓つけてた。

 小さいころから、というか小さいころには特にあの子に関わっちゃいけないとか優しくしてあげなさいとか言われてたので、目立ってたし余計な関心を引いていた。あとは単に顔がいいから。自分のことだからよくわからんし鏡見るのもあんま好きじゃないけど人からまず褒められるのは顔だ。顔のよさがおれの生い立ちのあれさをなんかいい感じに可哀想にしてくれる。同時にいつまでたっても特別に可哀想な何かのままでいさせられる。可哀想な佐藤綺羅くん。可哀想なものって、触りたくなるのかも。触らないでほしいんだけど。視線を避けるように俯いて、電車を待つ。女の子たち。あの制服おれの高校と一駅違いの女子高だ。顔は、見てないからわかんない。マスクもしてるし。女の子の顔って、まともに見ないようにしてる。怖い。だからこっちのことも見ないでほしい。マスクを引っ張って鼻筋まで隠すようにする。この頃電車は空いていて、乗っていても視線を感じる。英単語帳を出す。

 電車では勉強をする。小学校のとき成績悪いと親父が切れてもともと少ないおもちゃとか捨てようとしてきたから勉強は頑張ってる。親父は勉強ができた。というか、めちゃくちゃ勉強してたらしいから、おれも同じぐらいやることを期待してる。

「なんで勉強しなくちゃいけないの」

 と小学校高学年ぐらいでまだ反抗心が息してたころのおれが聞くと、親父はすげーいやそうな顔で

「妻子を養うためだ」

 と言った。ギャグなのか? 小学生のおれでもそう思ったけど、親父の「これ以上議論をするつもりはないしいざとなったら腕力にものを言わせる」という勢いに押されて納得したふりをした。外ではいたって穏やからしいけど、おれにはむちゃくちゃしてくるのだ。

 あのときの親父の切羽詰まった顔のせいで、おれはずっと勉強をしている。妻子。おれは養うつもりはない。共働き希望ということじゃなく、妻子を持つつもりはないということだった。おれは絶対に誰とも結婚しない。誰かに申告することでもないけど、そう決めていた。おれが養うのはミミちゃんだけだ。バイト禁止されてるからまだ養えないけど。でもミミちゃんに野菜をあげたり面倒をみるのは苦じゃない。今日はばあちゃんに散歩を任せたけど、帰って機嫌が悪かったらもう一回抱っこでそのへん一周してあげてもいい。手間だけど、苦ではない。愛しているから。ミミちゃん。愛してる。おれの犬。

 単語をやっていると、女の子たちの視線が気にならなくなる。勉強って、やらされてるのもあるけど嫌いじゃない。英語とか、いつか遠くに行くための役に立つ気がするから。遠く。遠くに行けたらいいな。いつかはわかんないけど。どこか遠く。どこかってどこだ。電車が揺れて、駅に止まる。女の子たちが降りていく。少し背筋を伸ばしたおれを乗せて、電車はいつもの駅に向かっていく。窓ガラスに不機嫌そうなマスクのおれが一瞬映って、うわ、となってまた俯いた。


 高校はこのへんでは偏差値トップの私立だ。親父も珍しく褒めてくれてじいちゃんばあちゃんと一緒に焼肉つれていってくれた。それにしても自分は公立の共学行ったくせに人には男子校強要ってなんなんだよとは思う。別にいいけど。男子校ってほっとする。何しろ女の子がいない。医者の息子とか社長の息子とかがいっぱいいるのに最初はびびったけど、公務員の息子であることが異質ってほどでもないしすぐに慣れた。学費は高いほうだけどうちはまあまあ裕福だしおれは財源が複数あるから肩身は狭くない。

 グレイのブレザーにチェックのズボンの制服は、カタログではいかにもお坊ちゃんっていうか子供服っぽく見えてなんだかなーだったけど、着ているうちに慣れてきた。最初は制服の型におさまっていたいいとこの坊ちゃんたちも、だんだん生き物としての野蛮さを見せてくる。昼に一リットルの紙パックのジュース飲むとか。おやつにローズネットクッキー食べるとか。おれはそこまで燃費が悪くないので、たかはし君に大袋の個包装のドーナツを一個もらって二時間目の終わりに食べていた。たかはし君は本当は橋本って言うんだけど、一年のクラスに橋本と橋元がいて背が高いほうだからたかはし君って呼ばれるようになった。このクラスには高橋もいるんだけど、そっちは直哉って呼ばれてる。

「きらちゃんドーナツおいしい?」

 そんでおれはきらちゃん。ほぼ全校生徒にきらちゃんって呼ばれている。一年生には「きらちゃん先輩」だ。別にいいけど。おれって「別にいいけど」が多すぎるかもしれない。別にいいけど。

「おいしい」

「一口ちっちゃいよね赤ちゃんみたい」

「かわいこぶってっから」

「や、かわいこぶんなくてもかわいいよ」

「ほんと?」

 ドーナツに小さくかじりついたまま上目遣いをすると、「かわいい!」とスマホを向けられた。そのままポーズを維持してシャッター音を待つ。見せてくれた画面には、めちゃくちゃかわい子ぶったおれが映っていた。うわ。なんだこれ。たかはし君は自分で撮った画像に見入っている。

「めーっちゃかわいい。きらちゃんって写真写りいいよね。インスタにあげようかな」

「たかはし君インスタやってんの?」

「やってない」

「おれもやってない」

 インスタに限らずSNSのアカウントを作ることは親父に禁じられていた。LINEの友達も定期的にチェックされている。親父、必死である。

「インスタやったらタピオカ飲みいこーよ」

「いいけどタピオカってまだ流行ってんの?」

 おれはようやくドーナツを食べ終わってティッシュで手を拭いた。

「駅前のパンダのとこはやってんじゃん。今度行こうよ」

「たかはし君タピオカ好きなの?」

「そんなでもないけどきらちゃんとタピオカ飲みたい」

「デートじゃんそれ」

「ドーナツあげたしデートしてよ」

「や、いーけどさ」

「やった」

 ドーナツ大袋ごとよこそうとするのを断ってたら、隣の席の斎藤に写真撮られた。

「BLするなよそこー」

 おれとたかはし君は去年の文化祭の罰ゲームでちゅーしてしまった動画をTiktokにあげられてしまってから、BLカップルみたいな扱いを受けている。別にいいけど。

「してねーよ」

「俺はきらちゃん愛してるよ」

「いやおれも愛してはいるけど」

「じゃあちゅーしろよ」

「ちゅーはしない」

「ちゅーはデートの後しよ」

「しねーよ」

 そうこう言ってるうちに休み時間は終わり、席に戻る。たかはし君はでかい体を窮屈そうに椅子と机の間に収めて、おれに向かって笑ってくれる。おれも笑い返した。たかはし君は嬉しそうで、なんか申し訳なくなる。

 たかはし君はゲイだ。去年キス動画を撮ったあと、二人きりのときに告白された。おれは女の子に告白されたのと同じように、反射的に断った。ごめんね。断ってからびっくりした。そんなこともあるのかって。いや、あるだろ。びっくりするようなことでもない。でもびっくりした。ゲイ。なるほど。そういうこともあるのか。普段自分が思っている以上におれの世界は思い込みと偏見でできてる。たかはし君はいつもみたいにへらへら笑ってて、でも涙目になってた。おれは仲のいい相手に告白されるって経験がなかったから、その涙目にはちょっと心を打たれた。ゲイ。ゲイか。男同士。なるほど。なるほど?

 これからも今まで通りにしてもいい?

 聞かれていーよ。って言ったけど、それ頼みたいのおれの方だなって思った。たかはし君は本当に今まで通りにしてくれて、ときどきまだ好きだよって教えてくれる。たかはし君の好きだよ、は、おれを見上げて言う女の子たちのそれと違って、おれのことをなんていうか小さく見てて、おれはちょっと嬉しいっていうか、安心してる。女の子は、可愛い。否定する気はない。可愛いけど、怖い。可愛いことが怖い。たかはし君は違う怖さがあって、怖いから、怖くない。一緒にいられる。

 じゃあ付き合えばいいじゃん。

 誰かに相談したらそう言われそう。おれだって、ちょっとそう思う。本当にタピオカ屋に行って一番でっかいやつ買ってわけあったり。家行ってSwitch貸してもらったり。たかはし君はいい人だし、家ちょっと遠いからおれの素性とかよく知らないし、いや今は知ってるのかもだけど知らないふりをちゃんとしてくれるし、よくお菓子くれるし、全然問題ないと思う。特別好きじゃなくたって、付き合うぐらいはしてみたらいい。そう思う。キスとかセックスとか、そういうはよくわかんないけど。いや、わかんないっていうのはやり方がわかんないってことじゃなくて、おれらの小学校の校区は性教育盛んだったから図書室に性教育の本いっぱいあっておれはほぼ全部読んでて男同士のやり方も知ってるけど、でもそれをおれ自身ができるかが、わからない。でも付き合うことにセックスが絶対必要ってわけでもない。セックスに付き合うことが必要なわけじゃないのと同じ。たかはし君がおれとセックスしたくても、おれの意見も聞いてくれる、気がする。絶対なんてものはないけど、たかはし君のことはその程度には信用している。たかはし君のこと、おれは好きだ。たかはし君と同じ気持ちではないだろうけど、同じ気持ち同士じゃなくても一緒にいることはできる。じゃあ付き合えばいいじゃん。ほとんど毎日同じことを思ってる。

 でも、できない。

 そしておんなじところにたどり着く。でも、できない。なんでできないのかはわからない。それでもなんでか、できないんだった。


 県立図書館は普段行かないけど高校からそんなに遠くない。バスで一本。隣のスタバに入って勉強しながら待つ。スタバには子供を連れた若いお母さんや、老夫婦、パソコン開いて仕事してるサラリーマンとかがいる。制服着てるやつはおれしかいない。勉強するなら図書館行くよな。おれだって図書館行きたい。ここの図書館は勉強スペースも広いし漫画とかも充実してて、家から自転車でぎりぎり行けなくもない距離なので小学生のころはよく来て漫画読んだけど、最近は全然だ。おれはブラックのコーヒーを啜り、やろうと思って後回しにしていた世界史のノートのまとめを作る。イスラーム世界の王朝。手書きで地図も描く。マーカーで色も塗る。コーヒー代は親父にもらった一万円で出した。バターミルクビスケットにホイップもつけて、はちみつかけて食べてる。甘いもの好きだから。金持ち気分。中学までは親父に一銭も現金もらったことなかったけど、最近は親父がいいと思ったことにはどんどん金くれるようになった。金を使う理由におれを利用しているというか。いや、ありがたいけど。親父はスーツとか眼鏡とか自分の仕事に必要だと思ったものにもがっつり金をかけたがる。親父は実は、金を使うのが好きなんじゃないか、と、最近おれは思いついた。

 妻子を養うため。

 嘘じゃないと思う。そのために、金も使わず頑張って勉強して働いて。ちゃんと成果を出してる。でも、それ以外に親父のしたいことってなんなんだろう。ビスケットのかけらまで全部フォークの背で集めて綺麗に食べ終わったので、コーヒーのカップにミルクとはちみつを入れて混ぜた。親父はスタバでぼーっとしたこととか、あるんだろうか。親父は飲み会にも出ずに絶対まっすぐ帰る。ばあちゃんの作った飯を四人で食べる。じいちゃんは週末に飲みに行くし、ばあちゃんは最近水彩画の教室に通うようになった。親父。親父はなんなんだろう。おれがいなくなったら、親父はどうするんだろう。親父。当たり前だけど、おれは親父の父親の顔しか知らない。おれが生まれてからずっと、親父は親父だった。めちゃくちゃしてくる親父。昔はやだなあって思ってじいちゃんばあちゃんにばっかりくっついてたけど、いつからか素直に言うこと聞くようになった。多分、十一歳ぐらいから。

 甘くしたコーヒーを飲み終わる。茉麻さんの定時まで一時間あった。そういう情報は、親父が熊沢さんちから仕入れてくる。仕入れてくるなよ。そして教えるなよ。熊沢さんちは、親父に甘い。おれにも甘くて、小学生ぐらいのときは道で会うとこっそりお小遣いをくれたりした。ちゃんと内緒にしたけど、使い道に困って机の奥に入れてある。今も「綺羅くんにどうぞ」ってばあちゃんにお菓子をくれる。クリスマスにはホテルで予約したブッシュドノエル、正月には高いチョコレート屋の一万円の福袋くれた。ちょっとやりすぎじゃないか? 内訳はチョコレートのマカロンが五個に、二種類のクッキーとパンに塗るチョコと箱に入ったいろんな種類のチョコと丸くておいしいさくさくが入ったチョコ。パンに塗るチョコはスーパーのフランスパンをばあちゃんが買ってきて、最初の朝だけみんなで食べたけど濃厚すぎて我が家の口に全然合わず、最終的におれだけ毎日塗って、夜には牛乳に溶かして飲んだ。甘くて、濃厚すぎる。鼻血出そう。ありがたくいただいた。おれは眠くなりながら数学の問題を解き、ホットチョコレートを飲んで、ああ、こんないいものを飲んでしまって、と思った。こんないいものを飲んでしまったから、おれはもっと、勉強しないとな。もっと勉強して、世の中をよくするような人間になりたい。たとえば、チョコレートのカカオを収穫してる子供が、今よりいい生活ができるように頑張りたい。

 そうでもしないと、生まれてきた意味がない。

 ホットチョコレートと眠気のせいじゃない。いつも思ってる。物心がついて、自分が何者なのか知ってから、ずっとそう思ってる。いい人間になりたい。でも、なれないかもしれない。なれないような気がする。最初から間違ってるから。だったら、遠くに行きたい。誰も自分のこと知らないぐらい遠く。可哀想な綺羅くんじゃなくなるぐらい遠く。誰のことも可哀想にしない場所。誰のことも傷つけずにいられる場所。したいことができる場所。人を素直に好きになれる場所。自分が間違っていると思わないでいられる場所。

 おれはもう十六歳なので、そんな場所がないことはわかってる。おれはおれからは自由になれない。どこに行ったっておれは佐藤綺羅だ。可哀想な男の子。それだって、本当はたいした問題じゃない。頭も顔もいい、はずだし、そこそこ裕福だし。じいちゃんにもばあちゃんにも親父にも、多分大切にされてる。間違ったことをしないように。誰かを傷つけたりしないように。問題はない。ただ、可哀想な気分になりたいときには、いくらでも可哀想になれるってだけだ。そんな人いくらでもいるよって気持ちにもなれなかった。実際あんまいないから。おれはおれの悩みを、誰とも分け合えない。おれみたいなことが起こらないようにしてる人はいくらでも見つかるけど、おれはもう起こっちゃったあとなんだ。あとのことはみんな見ない。失敗。おしまい。なかったこと。でもおれは生きてる。そしてみんなが、おれのために必死だったのもわかってる。感謝してる。だから問題があるなんて、おれだって、言いたくはないんだ。ちゃんと、感謝してる。だから大丈夫。

 マーカーで塗ったノートの地図を見る。サマルカンド。ブハラ。ニハーヴァンド。小さな字で書きこむ。ここにも人が住んでるんだよなと思う。昔も住んでていろいろあって、今も住んでて、一生をここで過ごす人もいて。そういう遠いことと自分のことが変なふうに重なって、気分が悪くなった。世界は広いのに、自分は一人しかいないって、変じゃない? コーヒーを甘くしすぎたのかもしれない。もったいないから無理やり全部飲む。ノートを閉じる。図書館に行きたいな。ブラックジャックをもう一回読みたい。めちゃくちゃ読みたくなってきた。図書館の誰も見てない床に座り込んで延々漫画を読みたい。小学生のときインターネット使わせてもらえなかったから図書館で漫画ばっか読んでた。友達の家に遊びに行くのも禁止だった。何するかわかんないから。Wi-fiを繋いでスマホでブラックジャックのネタバレを読んで、絵を思い出してもう一回気持ち悪くなった。帰りたい。今帰っても文句は言われない気がした。昔は親父が何に怒るのか意味わからんくてびくびくしてたけど、この年になるとなんとなくわかる。親父には親父なりにいろいろな理屈があって、そのうちの一つにちゃんと「綺羅のため」があるのは、もうわかってる。おれにとっての利益と必ずしも重なってるわけじゃないけど、親父の言うことは聞いてやりたい。怖いからじゃなくって、可哀想だから。

 そろそろ時間だ。結局勉強もあんまり進まなかった。店を出ると一気に暗くて寒かった。そろそろ手袋とコートが必要だ。肩をすくめて、図書館の出口が見える位置の壁際に立っておく。ここなら見落とすことはないし、誰かに見られたってなんかの待ち合わせだとでも思ってもらえるだろう。おれはそんなに茉麻さんが男とデートするところが見たいのか? 自分の下世話なところに触れてみる。見たくない。でも、そういうことをしているなら知りたい。知ってどうする? 今更。何にも知りたくないし、全部知りたいような気がした。だから知ってどうするんだ? おれも。親父も。知ったらなんでも取り返しつかないのに。知識は選択肢を増やしてしまう。増えたらもう消えない。アダムとイヴか? でもそういうもんだ。聖書は正しい。知ってしまったら入れなくなる場所がある。

 四年前、熊沢さんちでは犬を引き取った。それがネネちゃん。可愛い小型犬の女の子。白っぽい茶色いふわふわの毛と垂れた耳。元気な甘えん坊だ。熊沢さんちは全員仕事してるから、小さなネネちゃんが昼間独りぼっちなのが可哀想になって、もう一匹犬を飼うことにした。マルちゃんというマルチーズの血が入った白いふわふわの毛の男の子。のんびりやさん。ネネちゃんとマルちゃんはすぐに仲良くなっていつでも一緒。ときどき隣の家からきゃんきゃん吠える声が聞こえたし、並んで出窓から外を窺ってるところも見えた。なーんて可愛いんだとおれはこっそりうっとり犬たちを眺めていた。仲のいいちっちゃな女の子と男の子。ネネちゃんのほうがマルちゃんより体も大きくておねえさんぶってた。マルちゃんがおれに吠えようとするとネネちゃんが小さいお口であうって威嚇して止めてくれるわけ。でマルちゃんはしょんぼりする。かわいい。かわいいとかわいいの上に犬同士の関係みたいなものがあってさらにかわいい。犬ってなんであんなにかわいいんだろ。

 でもある日曜のお昼、熊沢さんちのおじさんがソファで寝てるとき、マルちゃんがネネちゃんに乗っかって腰を振っちゃった。おじさんが慌てて引き離すと、マルちゃんは真っ赤なでっかいチンコを丸出しにして途方に暮れていたらしい。「まだそんな時期じゃないと思ってたのに」とおれに話してくれたおじさんは泣きそうな顔をしていた。おれは今よりもっとちっちゃいミミちゃんを抱っこしていた。そのあともしばらく注意してみてないところで二匹が一緒にいることがないようにしていたのに、ネネちゃんのお腹は大きくなってしまった。

「また間に合わなくて」

 とおじさんは言い、まずいなって顔を、そこにいたおばさんと一緒にしたけど、親父もおれもなかったことにした。失敗しちゃったんだね。わかる。いやわかんないけどさ。ネネちゃんはイチちゃんとニーちゃんにまとわりつかれて、ぼんやり犬用の毛布に座っていた。子供を産んでからのネネちゃんはぼんやりしてる。そのうち前みたいに元気になるのかなって期待してたけど、まだぼーっとしてる。マルちゃんは来客に怯えて隅っこからこっちを見ていた。ネネちゃんとマルちゃん、子供が生まれてから、あんまり一緒に遊ばなくなっちゃった。

「ミミちゃんのこと、大事にします」

 ミミちゃんのちっちゃなちっちゃな頭蓋骨を指先で撫でて、おれは言った。ミミちゃんは兄弟同士でくっついて犬まんじゅうみたいになってるイチちゃんとニーちゃんと違って最初っからおれにだっこを許してくれた。犬を飼う。親父にろくな説明もなく連れてこられて一匹選べって言われた。犬は好きだけど突然で戸惑うおれを、ミミちゃんから選んでくれた。ミミちゃんは抱っこしているとほとんど体重を感じない。羽みたいに軽い。天使だからかな。耳のところのふわふわが天使の羽。体重の半分は天国にあるのかもしれない。でもあったかくて柔らかくって、もつれぎみの毛と乾いた肌の向こうに心臓がとくとくしてるのが指に伝わってきた。なんて可愛いんだろう。耳が少しくさい。犬のにおい。天使じゃなくて、おれの犬のにおい。この子はおれの犬なんだ。絶対に大事にして、いっぱいいっぱい愛してあげるんだ。

 その気持ちが通じたのか、ミミちゃんはおれのシャツにおしっこをしてくれた。ミミちゃん本体よりおしっこのほうが重いんじゃ? ってぐらいの量で、くさくてあったかかった。ミミちゃんを抱っこしたまま自分の家に走って帰ってシャワーを浴びて、洗濯物を手洗いした。おしっこをされても、おれはミミちゃんが大好きだった。おしっこされたから余計に好きになったのかもしれない。おしっこが好きなわけじゃないけど。ミミちゃんはわがままだが賢く、トイレもすぐに覚えた。最近は親父がミミちゃんのしっぽを踏みそうになったりして漏らすときもちょこっとだけでえらい。親父はいい加減ミミちゃんのいる床に慣れろ。不器用な親父。ミミちゃんに吠えられるたびに途方に暮れている。

 あ。

 エントランスの自動ドアが開いて、何人かが出てくる。そのうちの一人に目が留まる。

 茉麻さんだ。

 もうずっとずっと遠くから見かけるだけなのに、すぐにわかる。なんでだろう。茶色いコートと長いふわっとしたスカート。すらっとしてて、綺麗な若い女の人だ。隣に背の高い男の人がいて、なにか話している。楽しそうに笑いあっている。あーあれが。実際見かけたらどんな気分になるのかなと思ったけど、いざそのときになってもまだよくわからなかった。どういう気分になるべきなんだ? 見失わないように距離を取りながら見る。さすがにどこに行くかまでの話は聞いてなかった。酒とか飲みに行ったらどうしよう。どこ入ったかだけ見て引き返せばいいか? 補導されること考えたら制服まずかったかもな。今更頭が回ってくる。

 いつでも動き出せるように姿勢を整えていると、茉麻さんは会釈した。あれ、と思っていると、隣に立っていた男の人も、周りにいた人たちも軽く手を上げたり会釈をしたりして、そのまま去っていった。あれ。日を間違えた? それか、一回別れてから合流するのか? 気負っていたので想像してない事態になると戸惑う。ぱかぱかになってるローファーの踵を浮かせて落ち着く。茉麻さんはみんなを見送って、立っている。これからどうするんだろう。

 茉麻さんはふいに、ぐるりとあたりを見回した。まずい。なんにも隠せないけど、とりあえず背中を壁につける。そうしながら、気付かれないだろとも思っていた。茉麻さんがおれを見ることが想像できない。

 でも想像できないことだって、起こるときには起こる。

 茉麻さんははっきりとおれのところで視線を止めた。いや、でも、そう見えてるだけかも。と思っているうちに、おれのほうに向かってくる。おれはもう降参みたいな気分で、じっと待っていた。壁に同化できないかな。茉麻さんが、おれの一メートルぐらい先で止まる。

 近くで見る茉麻さんはヒールを履いてても、おれより小さかった。ばあちゃんとそんなに変わらない。

「大きくなったね」

 あ、そうか。おれが大きくなったんだ。茉麻さんのコートの前は開いていて、セーターに包まれた腹はぺたんこだった。気づかれないようにさっと目をそらす。

「百七十二センチです」

 どういうテンションで話していいのか迷ったあと、結局敬語になった。いかにも反抗期みたいなぼそぼそっとした喋りが自分でも気恥ずかしい。

「ゆうくんよりはまだちいさい?」

 ゆうくんて。

「えっと、あと三センチですね」

 そっか、と茉麻さんが言い、おれたちの会話は途切れる。かいた汗が冷えていく。気まずい。でも、普通の気まずさだった。起きてはいけないことが起きても、こんなもんなのか。あ、くしゃみでそう。

 くしゅ、と、控えめなくしゃみをしたのは、おれじゃなくて茉麻さんだった。茉麻さんも緊張してるのかな、と、自分に都合のいいことを考える。ごめん、とマスク越しに鼻を抑える茉麻さんの額には汗が浮いていて、おれのきまずさは少し緩んだ。

「えっと、スタバ入りません?」

 聞くと茉麻さんはおかしそうに笑って、いいよ、と言った。


 おれたちどんなふうに見えるんだろう。ホットのチャイラテを頼んだ茉麻さんと、二杯目のドリップコーヒーを頼んだおれはテーブルで向き合っている。茉麻さんはソファ側。二杯目だと安いんだと並んでる間に教えてくれた。近くで見ても綺麗な若い女の人だ。マグカップに添えられた爪は深い赤色に塗られている。おれとかたちがそっくりだ。小鼻とか、耳たぶとか、ちょっとしたところに見慣れた線を見つけてしまって、すごい変な感じがする。おれたちはカップルには見えない、と思うけど、姉弟にしてはよそよそしい。得体のしれない二人の男女。でもその辺の二人組や三人組だって、ぱっと見て関係がわかるとも限らないし、ぱっと見て判断してるのが正解とは限らないだろう。そうは言っても、おれと茉麻さんが、親子に見える人はきっといない。いたとしたらそいつがおかしい。

 でも、それが正解だ。おかしいのが、正解。茉麻さんは十一歳でおれを産んで、おれを佐藤家に渡す前に、綺羅っていう名前をくれた。誰も止めなかったんだろうか。小学生のやることだしな。小学生にやらせるな。でもそもそも、小学生が妊娠すべきじゃない。そういうことになる。最初が間違ってる。おれの人生は間違いから始まった。

 茉麻さんはおれにいろんなことを聞いてきた。何か困っていることはないか。体調はどうか。学校は楽しいか。勉強は。進路は。おれはぼそぼそ応える。ないです。元気です。まあまあですね。それなりに。まだ詳しく決めてないけど進学希望です。ぼそぼそしゃべると親父に声が似ていて、茉麻さんも同じことを思っているのがなぜかわかった。茉麻さんと親父が仲よかったころ、親父は声変わりもしてなかったはずなんだよな。

「彼女はいる?」

 これまでと同じテンションとそっけなさで、どうでもいいことみたいに聞こうとして、でも失敗していた。おれもこういう失敗をよくする気がする。それだって親子だからなのか? わからない。親子がわからない。おれはずっと自分より十一歳年上なだけの、中学生だったり高校生だったりする不安定で未熟な男の子を父親扱いしてきたから。

「いませんよ」

 おれの答えに茉麻さんはほっとしていて、ほっとしたことに気まずくなっていた。だから、なんでこんな細かいことがわかっちゃうんだろう。

「女の子とは全然接点ないし、連絡先知ってる子も一人もいません。ついでに言うと彼氏もいません」

 安心させようと付け加えたのに、責めてるような声になった。

「彼女、ほしい?」

 ほしくない、と、言おうとした。

「わかりません」

 でもそう言っていた。そう言ったからには、もっと言わなくちゃいけないことがある気がした。

「ほしいと思ったことないですけど、ほしいと思わないようにしなくちゃってずっと思ってきたから、本当にほしくないのかわからないです」

 そっか、と、茉麻さんがうなずいた。おれも、自分のことに、そっか、と思った。そう思ってるんだ。女の子たち。見ないようにしてる。めちゃくちゃ見たいわけじゃない。でもちゃんと見たら、好きになっちゃうかもしれない。おれのことを好きになってくれるの、本当はうれしいし、うれしくなったら、それだけで好きになっちゃう気がする。お菓子もらったのも嬉しかった。怒られるのやだったけど、それでも断れなかった。おれ、だって、寂しかったから。いつも寂しかった。自分だけ他の子たちと違うルールで生きてて、でもおれだけそのルールのことも知らされてないみたいな。みんなと同じことしてても、おれだけそういう「振り」をしてるような気がしてた。だから、おれのこと好きな女の子を好きになれたら、安心できる気がしていた。女の子と付き合うなって言われたりはしてない。でもみんなが怯えているのは知っていた。そんなことに誰かを巻き込めない。そこまで好きなの? そこまでは好きじゃない。誰のこともよく知らないし。でも、軽い気持ちで誰かをいいなと思うの、だめか? 女の子たちはしてるじゃん。知らないおれをいいなと思ってる。おれも軽い気持ちで、知らない子と仲良くなりたい。おしゃべりをして、お菓子をもらって、おれからもあげたい。そういうの、おれだけ、なんでだめなんだろう。

「……茉麻さんはどうなんですか」

「私?」

「なんか職場にいい感じの男がいるから見てこいって親父に言われたんですけど」

「あー」

 口に出したら答えをもらわないことには納得できなくなる。もう元通りじゃない。元通りって、でもなんだろう。隣に住んでるのに会わないよう家出る時間を調整したり、女の子に全然興味ないふりしたり。無理だ。ミミちゃんの面倒みるのと同じように考えてきたけど、それとこれとは全然違う。誰かの面倒を見るのと、そこにあるものをないようにするのは、違うことだ。一度考えてしまったら目を背けるのが難しくなる。やってしまったら、戻れなくなる場所がある。

「職場に仲いい男の人がいるって親に言っただけで、別にどうこうなる予定はないんだけど。ただゆうくんに伝わって、ほかの男と結婚するなら一回綺羅に会えって」

「え」

「直接言えばいいんだけど、直接言っても綺羅は気を使って会いに行かないかもって。だから見に行けって言ったんじゃないかな」

 は? めんどくせえ親父だな、と、呆れたけど、確かに素直に茉麻さんに会う機会セッティングされても断ったかもしれない。向き合って座ることのイメージが全然できなかった。めんどくさい男の息子だから、おれも結構めんどくさい。

「親父と結構会ってんですか」

「全然。綺羅くんと同じぐらいしか会ってない。老けたね」

 親父は眼鏡とかスーツとか髪形とか、全体的に年よりじじくさい。不機嫌そうな表情も、歳よりずっと上に見える。

「上に見えるようにしてるんですよ。父親らしく見られたいみたいで」

 ちょっと嫌味っぽいなと思った。茉麻さんにも、同じように伝わったらしい。笑っている。少しだけ泣きそうな顔で。

「私は逆。ずっと普通に見られたかった。普通の小学生で、そのまま普通に中学高校大学行って、就職してってしたかった」

 茉麻さんは中学校と高校には行ってない。家で勉強して、確か大検を取って、近所の大学に進学した。だから図書館に就職できたって話を聞いたとき、おれはすごい嬉しかった。十一歳のでかい失敗でコースアウトした進路を、もとに戻せたんだ。讃えるのと同時に、ちょっと負い目が減ったとも思った。おれはずっと可哀想な子だったけど、そういうコースはちゃんと歩けてきたから。

「なんでずっと実家にいるんですか?」

 ついでに気になってたことを聞いてみる。ここじゃない場所でなら、普通になれたはずだ。普通の綺麗な未婚の若い女の人。茉麻さんは答えを探すように首を傾げた。

「大学と就職決めるとき、遠くに行こうかなとも思ったんだよね。でもなんか、できなかった。引きこもってばっかだったから怖かったのもあるし、綺羅くんがいたから」

 おれは、ちょっと腹が立った。腹を立てて、腹が立つんだな、と自分のことを確認した。

「おれのせいにされても困ります」

「あー。そうじゃなくって。うん。たまに見かけると、嬉しかったから」

「え?」

「見かけるたびに大きくなってて、嬉しかったんだよね」

 わからない。茉麻さんがおれを見ていた記憶なんかない。就職してからずっと、お金を振り込んでくれたのは知っている。

「なんか、本当に、どうしてこんなことになっちゃったんだろうって思ってて。本当に、ちょっとふざけてたっていうかね。私とゆうくんって、昔から二人でいるとろくなことしないって言われてたの。保育園脱走したり、美容師ごっこで二人とも髪の毛切っちゃったりとか、使ってない納屋見つけて秘密基地にしたりとか、小学生のときは二人で家のパソコンでエッチな動画見たり」

 生々しいな。昔はこのへんの性教育もゆるかったんだなと思ってから、そもそもこの二人のせいで性教育に力入れるはめになったんだなと、今更なことに気づいた。

「悪ガキだったんですね」

「知らなかったの? すっごい問題児で有名だったんだよ。しょっちゅう親学校に呼び出されてたし小学校ではなるべく遠いクラスにするように配慮されてた」

 相当だ。

「おれはあんまり昔の話してもらえないんで」

「聞いて楽しい話じゃないでしょ」

「楽しいですよ。おれは悪いことしなかったし、そういうことするほど仲いい相手もいなかったんで」

 何を言ってもちょっと責めてるように聞こえる。責めてる気持ちがあるからなのかな。茉麻さんはじっとおれを見て、

「綺羅くんって、いい子だね」

 と言った。てっきりもっと別のこと、正直に言えば謝ってくると思ったので、おれはぼけっと口を開けた。

「いい子」

「いい子だよ。前から思ってたけど、話すと本当にいい子だね」

「いい子」

 繰り返すおれに、茉麻さんはうなずいた。

「いい子を一人育てるのって、大変なことだからね」

 いい子じゃないですよ。

 そう思った。いい子じゃないから。悪い子だから。そういうふうに生まれたから。あなたのことも親父のことも、全部おれのせいだから。ちゃんとわかってるから。でも、そう言うことができなかった。いい子。

 馬鹿みたいだけれど、おれはずっと、茉麻さんにそう言ってほしかった。


 家に帰ったら、ミミちゃんは親父に抱っこされていた。夕飯の肉じゃがみたいな匂いがする。じいちゃんとばあちゃんはもう寝室に引っ込んでいた。まだ九時なので普通に起きているけれど、寝室で読書とかネットフリックスとか、それぞれ好きなことをしている。じいちゃんは時代小説が好きだ。親父は先に風呂に入ったのかスウェットだ。ミミちゃんはおれを見るなりまとわりついて抱っこをせがむ。かわいい。軽い体を抱きしめて、濡れた鼻にキスをした。ドッグフードのにおいがする。おれは制服のまま冷蔵庫から人参を取り出して、ソファに座ってミミちゃんにあげる。ドッグフードは親父がやってくれたみたいだけど、野菜はおれからしか食べない。ミミちゃんはおれの犬だから。

「話せたか?」

「うん。てか茉麻さんから聞いてないの」

 スタバでしばらく話して、二人で電車に乗って帰った。女の子たちがおれを見ていた。見つめ返すと急に黙り込んで、笑いかけるとみんな目をそらした。茉麻さんは笑っていた。

 ごめんね。

 と、別れ際に茉麻さんが言った。何に対してだろう。産んだこと? 育てなかったこと? 佐藤って目立たない苗字のアドバンテージを吹き飛ばす派手な名前つけたこと?

 いいですよ。

 とおれは言った。何に対しての許しなのかもわからない。そもそも許せるのか? でも、いいですよ、って、言いたかった。許したというより、おれは茉麻さんと話して、茉麻さんに対して安心できるようになった。だからそういうことが言えた。安心できない相手には、許しなんて渡せない。でも一旦渡せば、少し楽になった。それはもう、おれの持ち物じゃない。荷物が減る。

「LINEはもらったけど、あの人がそう思っても、お前が納得できなきゃ意味ないだろ」

 あの人って呼ぶんだ。

「親父は納得したの? 茉麻さんが彼氏つくることとか」

 本人は否定してたけど、どうなったっておかしくない。嘘とかじゃなく、今その気がなくても明日には違うかも。おれも多分、明日はちょっと違う気持ちでたかはし君に会う。逃げ道としてじゃなくて、おれのこと好きな人として見ることができる。

「俺のことは関係ないだろ」

「そうだけど。おれが聞きたいだけ」

 人参を食べ終わって、ミミちゃんはおれのお膝に乗ってくれる。ミミちゃんはここが一番好きなんだ。制服が毛だらけ。ブラシをかけなきゃな。愛ってめんどくさい。

「あの人に俺を納得させなきゃいけない理由なんかないだろ」

 親父はこれを言えるようになるまでに、どんだけめんどくさい思いをしたんだろう。おれはそうっとミミちゃんを抱きしめる。あったかくて柔らかくて心臓が動いていて少しくさい。おれのミミちゃん。おれの愛。ミミちゃんがいると、世界が少し安心になる。

「茉麻さんが妊娠したとき、親父どう思った?」

 親父にずっと聞きたかったことを、ようやく聞けた。聞いてどうするとかじゃなくて、ただ聞いてみたかった。

 親父はちらっとまだじいちゃんばあちゃんが起きてる気配のする寝室を見て、それからおれのほうに体を寄せた。

「ここだけの話」

 親父はほとんど頭が触るぐらいの近さに寄って、小さな声で言う。

「うれしかった」

 親父は笑った。親父の笑う顔を、初めて見た気がした。そんなわけはないんだけど。でも笑う親父は、年相応、どころか、子供みたいで、おれよりもずっと、そう、たとえば、十一歳ぐらいの男の子に見えた。ゆうくん。それはずっと親父の中にいて、でも、今、ここだけでしか出てくるのを許されない男の子だ。小さな声で続けた。

「これで茉麻とずっと一緒にいられると思ったし、子供ができるのもうれしかった」

 そして、ここだけの話な、と、もう一度念を押した。

「茉麻さんのこと好きだった?」

 おれもひそひそ話すと、親父もひそひそと答えた。

「一緒にいるとなんでもできる気になったし、何しても楽しかった」

「セックスも?」

「まあ、そうだな」

「ませてるな。おれだってしたことないのに」

「お前はするな」

「ひでえ」

 親父は首を振った。

「俺だって多分、世間一般で言われるようなそのたぐいの楽しみなんか知らないぞ。ただ機械的にやってみたらできたんだ」

「でも楽しかったんだ」

 親父がうん、と頷いたので、こっちが気まずくなった。ミミちゃんを撫でる。

「十歳のころにした悪いことなんて、この年ならみんな忘れてるんだろうな。罪悪感も、そのときどんなに楽しかったのかも。でも、俺にはお前がいるから、いつでもすぐに思い出せる」

 親父は本当にうれしそうに、にっこり笑って見せた。そして、寄せていた体を離すと、ソファから立ち上がった。

「飯、お前の分もあっためるからさっさと着替えてこい」

 はい。おれはミミちゃんを膝から降ろす。キッチンから換気扇の回る音がする。おれが用事で遅くなる日、親父はいつも待っててくれる。めんどくさいだろうに。多分、じゃなくて、絶対、これが、愛なんだ。それが、なんだかわかんないけどわかった。階段を上る。階段の窓から、熊沢さんちが見える。あそこには茉麻さんと、四匹の犬もいる。その上に、ガラスに映ったおれが重なる。いい子の綺羅くん。自分の顔なのに、見ると一瞬びくっとする。自分に笑いかけてみる。笑い方は茉麻さんに、顔立ちは親父に似ている。これが、おれの顔だ。二階に上がる。

 おれはきっと、遠くに行ける。どこにでも行ける。初めてそう思った。もう、どこにでも行ける。誰のことも好きになれる。なんでもできる。制服にブラシをかけて、ミミちゃんの毛を落とす。細くてふわふわした毛。おれのミミちゃん。おれの愛。おれのめんどくささ。おれはどこにでも行ける。でも、ここにはおれの愛がある。

 だからもうしばらくおれは、ここにいることに決めた。

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ミミちゃんはおれの犬 古池ねじ @satouneji

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