夜伽話(よとぎばなし)

水野 精

第1話

 私の郷里は山のふもとにある。言うならば、幼い頃から山は、我が家の庭の延長のようなものだった。家のすぐ裏手にある小さな里山は、尾根伝いに進むと九州山脈へと続いている。行こうと思えば、どこまでも果てしなく続く山道なのである。


 幼い頃の思い出といえば、ほとんどがこの山の中か、近くを流れる川で遊んだ思い出である。そして、その記憶のアルバムに収められた膨大な数の映像の中には、今考えると、たくさんの不思議な、そして何か切なくなるほど甘美なものが、暗い闇の中で宝石のようなきらめきを放っているのだった。



  1 りね



 私が幼い頃から一人で山歩きをするようになったのは、一つには近所に遊ぶ友達が少なかったせいだ。近くに住んでいたのはほとんど上級生で、時々は遊びに入れてもらえたが、あまり歓迎はされなかった。というのも、私は生来人に合わせるのが苦手な性質で、周囲から見ると、わがままな厄介者だったろうと思う。自分でも何となく、のけものにされていることに気づいていた。それで、しかたなく(幼心に疎外感や孤独を感じながら)誰もいない山や川に足を向けるようになったのである。


 それは、私が八歳頃の秋のことだったと思う。

その日学校から帰ると、家の者は誰もいなかった。皆仕事に出ていたのだ。いつものことで、ランドセルを机の上に放り投げると、おやつ代わりの黒砂糖を炊事場のつりかごの中からひとつまみ取ってポケットに入れ、遊びに出ていった。もし、近くに子供たちの声が聞こえたら、そこへ行って遊びに入れてもらうつもりだった。しかし、どこからも声は聞こえなかった。


 ふと辺りを見回した私の目に、秋の終わりの澄んだ青空と赤い柿の実の鮮やかなコントラストが飛び込んできた。こんな自然の美しさを見ると、すぐに山に行きたくなる。もっと秋の空気の中にどっぷりと浸りたい、そんな思いがあったように思う。朽ち葉のすえた匂いやひんやりとした森の空気が好きだった。


 慣れた山道をどんどん登っていき、裏山の頂上をめざした。そこには小さな松林があり、松のいい香りと、運が良ければ珍しいキノコに出会える楽しみもあった。


 朽ち葉の匂いに混じって、ふんわりと柔らかい松の香りがただよい始めた時、私は、山道を上の方から下ってくる人の気配に立ち止まった。

 見ると、作業着で腰に小さな鉈をさしたおじいさんが、用心しながら下ってくる。そして、その後ろから小さな女の子がついてきていた。そのおじいさんは、何回か見かけたことのある人だったが、女の子の方はまったく見たことがなかった。


「こんにちは」

 私は道の脇によけながら、おじいさんに小さな声であいさつをした。

「はい、こんにちは」

 おじいさんはにこにこしながら、あいさつを返して通り過ぎていった。

 ところが、後ろから歩いていた女の子は、にこにこしながら私のそばに立ち止まったのである。


 私はとまどって、じっとその子を見つめたまま立っていた。その子はひどく親しげに、さらに近づいてきて、これまたじっと私を下から見上げていた。

 記憶に残るその子は、やや赤茶けたくせ毛で、おでこが広く、びっくりするほど大きな二重の目と長いまつげだった。


「行かんでええと?」

 私はとうとう口を開いて、もうずっと下の方に遠ざかったおじいさんの方を指さしながら尋ねた。

「よかもん…ふふ…ねえ、行こ」

 女の子はそう言って笑いながら、私の手を握って引っ張った。驚いたことに、その子は今下りてきた道をまた引き返して登ろうと誘っているのだった。


 その時、私はまだ幼いながら、何か甘い官能と興奮にとらえられていたように思う。夕暮れの山道を、女の子と一緒に歩く。しかも、初めて会った相手である。疑問も心配も、幼い少年にとっては、さほど重要なことではなかった。


 不思議なことに、そこから先の記憶は非常にあいまいで、何か霧がかかったようにぼやけているのだ。ただ、女の子の名前ははっきりと覚えている。「りね」、その子は、自分の名前をそう言った。


 私はもう日が沈んで辺りが薄暗くなる頃、我が家に帰り着いた。

「ねえ、お母さん…りねっていう子、知っとるね?}

 夕食が終わって、他の家族は茶の間でテレビを見ていた。母は洗い物が終わると、座敷で洗濯物の仕分けをしていた。私は母の所へ行って、その女の子のことを聞こうと思った。

「りね? そぎゃん子はこのへんにゃおらんよ。どこん子ね?」

「いや、おるよ。○○のじいちゃんとこ。さっき、遊んどったもん」

 母は何かキツネにつままれたような顔で、もう一度否定すると、ふっと笑い声をもらした。私の顔があまりにも真剣だったので、つい笑ってしまったのだろう。

「じゃあ、あした、○○さんに聞いとこたい…早う宿題ばせんね」  

 私は母の約束を信じて、自分の部屋に入っていった。

 

 次の日、私は学校が終わると、走って家に帰った。早く「りね」のことが知りたかったのだ。家に帰り着いた時、母は家の裏手にある畑で草取りをしていた。

「ただいま…どぎゃんだったね?」

 母は疲れた腰を伸ばしながら立ち上がった。顔には微かに笑みが浮かんでいた。

「○○のじいちゃんは、あんたと山で会うたことは覚えとるばってん、女の子のことはぜんぜん知らんてたい。『りね』ちゅう名の孫娘もおらんてよ…あんた、夢ば見とったんじゃろ。もう、このことは忘れなっせ」  

 

 なんとも納得のいかない結末だったが、それ以上はどうすることもできなかった。

 確かに夢だと言われれば、それを否定する自信はなかった。なにしろ、途中で記憶がない空白の時間があったからだ。しかし、夢があれほど現実的であることには、どうしても納得がいかない。

 

 あれから四十年余りが過ぎた今、改めて考えてみると、あれは老人に憑いた背後霊だったのか、あるいはいたずら心を起こした山の精霊だったのか、いずれにしても夢ではなかったとはっきり断言できる。いまだにその子の手のひんやりとした冷たさと柔らかい感触は、はっきり覚えているし、その子が着ていたピンクのセーターとコーデュロイのカーキ色のズボンも、しわの一つ一つまで記憶に残っているのだ。


 「りね」…もしかすると、その子は「りんね」と言ったのかもしれない。もし、そうだとしたら、私はもう一度彼女と巡り会えるのではないか。友達か、恋人か、それとも娘か…。私はその再会を楽しみに、「りね」の記憶をこっそり胸にしまって、にこにこしながら死の時を迎えたいと思う。



 2 球雷



 一年中山歩きをしていると、突然の雨に襲われてずぶ濡れになることも珍しくない。その日も朝から蒸し暑く、夕立が来るにはうってつけの夏の日であった。


 夏休みに入って、私は毎日のように山に登っていた。クワガタやカブトムシを捕るのが楽しかったのだが、それ以外にもある目的があった。それは、今まで行ったことのない山奥まで行ってみようという思いだった。毎日少しずつ距離を伸ばして、道を覚える。家に帰って、画用紙の地図に道と目印を描き込んでいく。

 

 その時、小学校の五年生になっていた私は、裏山から尾根伝いに行くと、九州山脈に続いていることを知っていた。そこにはどんな風景が待ち受けているか、どんな出会いがあるか、わくわくする気持ちでいっぱいだった。

 いよいよ計画実行の朝、宿題を終えた私は、母に握り飯を二つ作ってもらい、意気揚々と出かけた。


 山道は夏草に覆われて歩きにくかったが、森に入ると草はなくなり、ひんやりとした空気が心地よかった。時々、スズメバチやムカデの出現に逃げ出しながら、昼少し前には、家の近辺では一番高い山の尾根の頂上にたどり着いていた。

そこは「竜越し」という名で呼ばれている峠で、そこから眺める郷里の風景は、疲れを忘れさせてくれるほどすばらしかった。 


 風景に心を奪われながら、木陰に座って握り飯をほおばっているとき、私はようやく空の不穏な気配に気づいた。見ると、自分の頭の上が真っ黒い雲に覆われ、かすかに太陽がのぞくその周囲の空に、もくもくとせり上がっていく入道雲の白い塔があった。

 

 私はとっさに危険を予知して、下山を決心した。しかし、残念ながら、その決断は少しばかり遅きに失していたのである。

 小さな雷鳴が聞こえ始めてからものの数分も経たないうちに、目もくらむような稲妻が目の前を走り、耳をつんざくばかりの雷鳴が山全体を揺り動かした。そして、辺りの木の葉をバラバラと打ち鳴らす大粒の雨が降り始めた。私は走るのをやめて、近くのカシの大木の根元に身を寄せた。


 何度目かの激しい雷鳴に耳をふさいで、辺りをこわごわと見回した時だった。私のいる山の斜面のずっと下の方、谷川が流れる渓谷の少し上を、バレーボールほどの大きさの青白い光の玉が、ふわふわと浮かんで下流の方へ飛んでいくのが見えたのである。私はとっさに、それを人魂だと思った。雨に濡れた全身が、さらに冷たくなったようにぞっとした。その光の玉は、二十メートルほど移動した所ですっと消えた。


 私は雷や雨のことも忘れ、今目の前で起こった怪現象に心を奪われていた。それまで、年上の子たちから、人魂のことはよく聞かされていた。それを自分もついに見たのだと思うと、怖さとともに興奮も感じた。ただ、よくわからなかったのは、なぜ、こんな山奥に人魂が出るのかということだった。


 私は雨が小降りになったところで、急いで山を下り、家に帰った。帰ってから、もちろん家族全員に自分が見た人魂のことを話した。私の興奮に比べて、家族の反応はさほどでもなく、少しがっかりしたのを覚えている。


 帰ってきた父にその話をすると、父は理科の教師らしく、その光の玉について科学的に説明してくれた。

「それは球雷といってな、時々見られる現象なんだ。どうしてできるのかは、詳しくはわかっとらんが…たぶん、雷の高い電圧で、空気中の気体がプラズマ化するんだと言われている。プラズマっていうのはな…」

 父はとくとくと説明を続けたが、私には半分も理解できなかった。ただ、大人になった今でも、その光の玉は鮮やかに脳裏によみがえり、山と森が持つ深い神秘性を感じるのである。  


  

 3 隠れ里



 私の郷里の近くに、「鹿里」という名の、今は誰も住む人のいない廃村がある。村といっても、山中の奥深くにある小さな集落である。


 十歳頃、母に連れられて栗ひろいに行った山で、その集落から下ってきたというおばあさんに会った。そのおばあさんは、買い物に行く途中だと母に話をしていた。栗ひろいをしていた場所はかなりの山奥で、店といえば、そこからまだ何キロも行かねばならなかった。私は「鹿里」という集落におおいに興味を引かれ、母に質問を重ねて、その集落についての情報を引き出した。


 それから二年ほど過ぎた春のある日、私は一人でその集落を訪ねてみようと思い立ち、出かけていった。

 母と栗ひろいをした山までも遠く感じたが、そこからさらに山や谷を幾つか越えて、私はようやく目指す集落の入り口にたどり着いた。西に傾いた日差しを受けて、その秘境の入り口に立てられた「鹿里」という立て札が輝いていた。


 私は恐る恐るその入り口から中に足を踏み入れた。竹林が続く細い道の向こうに、谷をはさむようなかっこうで、数件ずつの家々が寄り添うように建っていた。そのほとんどは無人の廃墟と化し、崩れた壁や屋根、錆びた農具類などが散らばっている。寒々とした暗がりには、かつて住んでいた人の魂がただよっているような不気味さがあった。


 その集落の奧に、用水池らしいものがあった。周囲を深い森に囲まれ、葦のやぶが岸辺を覆っていたが、水草の浮かぶ水面は鏡のように、青空を映して静まり返っていた。私はゆっくりと岸を回りながら、帰路に就いた。


 と、その時、集落のある方から人のざわめきのようなものが聞こえてきたのである。初めは竹林を吹き抜ける風の音かと思ったが、どうも違う。もっと密やかで低い音なのだ。

 数年前、山の中で不思議な女の子に出会っていた私は、山の中ではどんな不思議なことでも起こり得るのだという確信を持っていた。だから、恐怖心はほとんどなかった。かつてここに住んでいた人たちの霊が、久しぶりに現れた人間を珍しがって集まってくるのもあり得る話だと思った。しかし、集落に戻ってみたが、幽霊の姿はなく、数羽のカラスが杉の梢でうるさく鳴くぐらいだった。 


 帰り道、その幽霊の声の正体だと思われる音を再び聞いた。それは、遠い川の方から響いてくる砕石場の機械の音だった。たぶん、その音が森の中を抜けて、ざわざわという人の声に聞こえたのだろう。


 今も、あの山中の隠れ里は、ひっそりと時の流れの中で風化を続けているのだろう。森の動物たちが集まり、にぎやかな宴会を開いているかもしれない。あるいは、この世には行くあてのない寂しい魂たちが、そこにただよい、寄り添い合いながら暮らしているのかもしれない。



 4 小鬼たち



 それは、私が五歳になった頃だった。その頃、私たちの一家は父の転勤にともなって、高原の中の小さな村に住んでいた。そこの自然と人情のすばらしさは、今でも心の中に温かいものとして残っている。とにかく、子供にとっては最高の環境だった。

 ゆるやかな起伏を見せてどこまでも続く高原は、四季折々に姿を変え、自然の恵み、生命のすばらしさを教えてくれた。子供たちは、ここで春は親たちと一緒にゼンマイ、ワラビ採りに始まり、スズタケ(アカヤマタケ)というキノコ採り、センブリ採り、夏は草スキー、秋はススキのジャングルでの秘密基地作り、冬はそり遊びやかまくら作りを楽しんだ。


 春のある日のことだった。私は、二人の姉や近所の子供たちと一緒に草スキーに興じていた。年上の子供たちは竹で作ったそりを交代で使い、まだ小さな子供たちは肥料用のビニール袋や紙袋をお尻の下に敷いて、前端を手でつかみ、両足で時々草原を蹴りながらゆっくりと下っていった。私はその中の一人だった。どうしても竹ぞりに乗りたくて仕方なかったが、危ないからという理由で姉たちが許可してくれなかった。


 やがて、夕方の五時を告げるサイレンが鳴り、子供たちはいっせいに帰り支度を始めた。

 竹ぞりは、草のつるでクヌギの木にくくりつけられ、その上に肥料袋が積み重ねられていった。私はその日、一つの計画を実行に移した。つまり、他の子供たちと一緒に帰るふりをしてこっそり草原に戻り、竹ぞりに一回だけ乗ってみようというのである。

 

 計画はうまくいった。姉たちは友達と一緒にさっさと先に帰り、他の子供たちもさよならの挨拶をして散っていった。私は一人、道の途中にとり残された。心の中の興奮を抑えながら、急いで草原に駆け戻った。


 今や、竹ぞりは私だけのものだった。その喜びに、夕日がいっそう輝きを増したように感じた。肥料袋を横に置き、竹ぞりのつるを解いて、いよいよ斜面の方へ持っていく。この時私は喜びと興奮以外、何も感じてはいなかった。しかし、この興奮と喜びはその直後、恐怖と後悔に変わるのである。


 私は意気揚々と足で地面を蹴り、斜面を滑り出した。だが、予想外にそりのスピードは速かった。まるで、地面から空中へ飛び出すのではないかと思えるほどだった。私はあわてて手に握ったつるを引っ張り、後ろへのけぞった。しかし、スキーをした経験がある人はわかると思うが、体重を後ろにかけると、滑るスピードは増すのである。

 五歳の私にはそんな理屈がわかるはずもない。もうほとんど空を飛ぶような感覚で、文字通り、私は斜面を落ちていった。そして、最後に、そりは大きくバウンドして空中に舞い上がり、草原の果ての崖を越えて、二メートルほど下の畑に墜落した。

 私はその衝撃で、瞬時気を失っていたらしい。不思議な現象が起こったのは、その後目を覚ましたときだった。


 もうろうとした意識の中で、私は周囲を取り囲んだいくつかの顔を見た。そのうち二人は姉たちで、あとの二人は姉の友達の女の子だった。

 ただ、おかしなことに、四人ともひどく楽しげに笑っていて、何よりその目が異様だった。まるで狐のようにつり上がり、黒まなこがなく、白く細い糸のようであった。まだもうろうとしていて、それを見とがめ、質問する力もなかった。ただ、その四つの笑い顔と笑い声だけは記憶にはっきりと残っている。


 その後、どうやって家に帰ったのか、はっきりした記憶がない。後日、姉たちにその時のことを聞いたが、まったく知らないという。では、私を囲んで笑っていたのは、いったい誰だったのか。姉たちも他の家族も、私が気を失っている間に夢を見たのだと言った。

 私もその当時は、そうだろうと納得した。しかし、ずっと割り切れない思いは残っていた。

 姉たちやその友達の顔が、普通の顔だったら、夢だと納得もできただろう。なぜ、あんな不気味な顔だったのか。それがどうにもわからなかった。


 ところが、この二年後、私たち一家が再び郷里に戻った直後、私は再び見たのである。あの顔を…。

 季節は覚えていないが、朝だった。私は誰かに起こされて、眠たい目を開いた。祖母がふすまを開いて、そこに立っていた。私の寝ていた部屋は暗く、ふすまの外は明るかったので、祖母の姿は黒いシルエットになっていた。確かに祖母の姿に間違いなかった。しかし、その目だけは、黒いシルエットの中で赤い光を放ち、狐のようにつり上がっていた。口は見えなかったはずだが、確かに笑っているとわかった。

 

 その後私はまた眠ったらしく、次に目を覚ましたのは母の声によってであった。私は顔を洗って、他の家族より遅い朝食を食べ始めたが、かたわらで新聞を見ていた祖母に、私を起こしに来たかどうかを訪ねた。

「んね、行っとらんよ。また寝ぼけたね。あはは…」

 祖母はいかにも楽しげに笑った。


 今となっては、どうにも証明のしようがないが、両方のでき事とも、何者かが私のそばにいたのは間違いない。幽霊とは違う。もっと陽気で、いたずらっぽい存在だ。「もののけ」、それが一番ぴったりする表現だと思う。いろんな人に化けることが出来て、でも、それを見ることができるのは、ごくわずかな人間だけなのかもしれない。



 5 霧の夜



 幼い頃から、なぜか霧が大好きだった。すべてをぼんやりかすませ、夢の世界に入ったような、そんな感じにさせた。何もかもが新鮮に見え、人々も魅力的に見えた。

 私が四歳から七歳まで過ごした高原の村は、特に霧の日が多かった。朝霧も多かったが、平地ではあまり見ない夕霧、夜霧もしばしば見られた。


 確か五歳の時の秋の日のことだった。その日は夕方から、辺り一帯は深い霧に包まれ始めた。

 小学校から姉たちが帰ってきた直後、母が、

「卵がきれたから、○○さんとこに買いに行こう」

と私に言った。なぜ、わざわざ私を誘ったのか、すぐにはわからなかったが、出かけるときになってようやくわかった。その日、我が家には姉たちの友人たちが、数人遊びに来ることになっていたのだ。つまり、私はじゃまな存在だったのだ。


 私と母が外に出ると、すでに三人ほどの女の子たちが家の前に来ていた。その時私は、外が深い霧に包まれていることを初めて知り、そちらに心を奪われて、三人の女の子たちをほとんど見ていなかった。母は二言三言、女の子たちに声をかけて家に入らせると、私の手を引いて霧の中へ出ていった。 

 秋の日暮れは早く、私たちが養鶏を営む農家に着く頃には、もう辺りは暗くなり始め、家々からもれる灯りをたよりに、細い道を歩かねばならなかった。そして、家に帰り着く頃にはすっかり夜になっていた。


 ちょうど、姉の友人たちが家から出てきて、姉たちに別れを告げていた。我が家の近くにあった街灯の白い光に照らされて、彼女たちはなごやかな笑い声を上げて何か話をしていた。その時、私は初めてその友人たちをしげしげと眺めたのであった。


 それは、霧が作り出した不思議な幻だったに違いない。一人の、割と背の高い女の子の髪が銀色に輝き、青みを帯びた大きな目が私に優しく微笑みかけていた。私は幼いながらも、何かときめきのようなものを感じ、体の中が熱くなっていくように思えた。

 彼女たちが、さよならを言って霧の中に消えた後も、私はしばらくの間、その霧の彼方を見つめて立っていた。何か大声を上げて、走り出したい衝動に駆られたのを覚えている。


 あれはやはり、私の目の錯覚だったのだろうか。不思議だったのは、その数日後、私が何気なく上の姉に、

「ねえ、この前来らした四人の中で、一番背の高かった人は誰ね?」

と尋ねたときの姉の返事だった。

「四人じゃなかよ。ミエちゃんとイスズちゃんとユウコちゃんの三人ばい」


 私は、あれっと思って、もう一度先日の夜のことをいっしょうけんめい思い出そうとした。そう言われると、三人だったようにも思えた。はっきりとした記憶が無かったのだ。ただ、背の高い女の子の名前がユウコだったことはわかった。だが、私の語るイメージと姉の語る友人像とは、微妙に食い違っていた。

「霧だったけん、よう見えんだったんだろう」

 確かに姉の言うとおりだったのかもしれない。私にはこの上もなく美しく、魅力的な女の子に見えたのだが、姉に言わせると、それほどの美人ではないらしかった。


 その後、二度と彼女には会うこともなく、私たち一家はその高原の村から郷里に戻った。

 数年後、何気なくアルバムをめくっていたとき、私は偶然に、そのアルバムの中の彼女と再会した。確かにあの夜、私に微笑みかけていたのは彼女だった。長い髪と細面のりんかくはあの夜見たものだった。ただ、目だけが、思い出の中の彼女とは違っていた。


 恐らく、霧が私の心におよぼした不思議な力だったのだろう。今でも、霧の日は何となく心がしっとりとして心地よく感じる。車の運転をするようになって、その恐ろしさも十分に知ったのだが…。それでも、やはり霧は好きだ。できればもう一度、あの夜のような、霧の作り出した幻の世界に出会いたいと思う。



 6 記憶 



 よく姉たちや死んだ母を不思議がらせていたのは、私の記憶力だった。私が、まだ背中におんぶされる赤ん坊の頃から、断片的な記憶が残っていると聞いて、とうてい信じがたい話だと、よく笑われたものだ。しかし、確かに赤ん坊の頃の幾つかの記憶が残っているのだからしかたがない。


 まず、一歳半の頃のこと。私は母に抱っこされてあるコンテストに出かけていった。その頃は、二歳までの赤ちゃんを対象とした「健康優良児」の表彰が行われていたのである。そのコンテストの会場に行く途中の幾つかの記憶が、私の中に残っているのだ。

 列車の中の映像、車窓から見えた綿屋の二つの看板、そして、母が話をしていた相手の女性。


 後年、母にそのことを話したが、まさかと言って一笑に付されてしまった。まだ立つこともできない赤ん坊に、そんなことが記憶できるはずはないと言うのだ。しかし、私の記憶は、これにとどまらなかった。


 アルバムで、赤ん坊の頃の写真を見ていると、幾つかの写真は、その撮影されたときの様子や見ていたもの、その時の思いまで語ることができる。二歳ぐらいからははっきりとその時の天気や匂いまで覚えているのだ。姉たちは、まったくその年齢頃の記憶はないと言うが、私には信じられない。きっと、あるにはあるのだが、あいまいなので確信が持てないだけだと思う。


 私は二歳になったくらいの頃、縁側から落ちて頭を打ち、気を失ったことがある。その時、子守をしていた祖母は青くなってずいぶん心配したらしい。祖母には申し訳ないことをしてしまった。

 実はその時、私はテレビで見た盲目の人の真似をして、縁側に干してある布団の上を歩いていたのだ。まだ足取りもおぼつかない上に、目をつぶって布団の上を歩いていたのだから、落ちるのも当然といえば当然である。頭を打って記憶喪失にならなかったことが、不幸中の幸いだった。


 もう一つ、家族を不思議がらせ、困惑させたのが、サーカスの記憶である。私がまだ二歳にならない頃だったらしいが、町にサーカス団が来て、町の中を行列をつくって行進し宣伝したことがあった。私の家族もそれを見に行った。私の記憶に残っているのは、ゾウが用水路ぞいの道をゆっくりと歩いていく姿と、そのゾウに何か自分の手で食べ物を与えたという記憶だった。


 高校生になった頃、ふと何かの話をきっかけに、その思い出がよみがえってきた。私がその記憶の断片を語ると、母はあっけにとられたような顔で、しばらく口がきけなかった。

「まあ…確かにそぎゃんことはあったばってん、あんた、まだ乳飲み子だったとよ。なして、そぎゃん記憶のあっとね?」

「さあ、わからん…ばってん、覚えとるんだけん、しょうがなかろ」

 私にとってもけげんな思いだった。


 実は、もっと言うなら、その用水路ぞいの道には串団子(私の故郷ではあずま団子と言った)を売る店があって、私は誰かとその店に入った記憶がある。あずきあんと白いそら豆あんの二種類の串団子は、とてもおいしそうだったが、私は食べさせてもらえなかった。当然である。まだ離乳食をやっと食べられるぐらいの赤ん坊だったのだ。


 こうした記憶が、後から聞いた人の話をもとに作られた記憶だ、と言う人もいる。しかし、サーカスの話は、私が言い出すまで、誰も話したことはなかったのだ。串団子屋のこともそうである。たまには、こんな赤ちゃんがいてもいいではないか。他人より少しばかり、記憶力が早く発達していたにすぎないのだから。

 ただ、これほど記憶力が優れているにもかかわらず、後年の私は、さほど学校の成績が優秀だったわけではない。勉強ができる、できないとはまったく関係がないようである。


  

 7 この世に存在しなかった犬



 死んだ祖父母は犬好きで、私が生まれたときもエスという大きな犬が飼われていた。私は確かに三歳頃まで、このエスという犬と遊んでいたようだ。そうした写真が残っているのだ。だが、不思議なことに、はっきりした記憶は残っていない。実は、二歳から三歳頃の記憶には、もう一匹、別の犬がいるのである。

 それは「ハチ公」という名の、小さなイングリッシュ・プードルである。毛の色は黒だったと思う。ところが、家族は誰も、この犬のことを知らない。


「そりゃ、『ハチ』のことだろう? エスが毒草を食って死んでから、シェパードの子犬をもらってきたんだ。その記憶が残っているんだろう」

 父も祖父母も同じことを言った。ともあれ、我が家にはイングリッシュ・プードルが飼われたことはないらしい。


 「ハチ」はよく知っている。とにかくよく吠えて、食い意地の張った犬だった。しかし、私の記憶にある「ハチ公」は、決して「ハチ」ではないのだ。いくら小さくても、プードルとシェパードの違いぐらいはわかる。「ハチ公」はちょろちょろと良く動き、あのもじゃもじゃした独特の毛並みが可愛かった。

 

 今考えると、もしかしたら我が家には、どこかよその家からプードルが遊びに来ていたのかもしれない。私は、そのよその犬と仲良く遊んでいたのかもしれない。でも、そうだとしたら、家族の一人ぐらいは、その犬のことを知っているはずではないか。私が一人でいる時を見はからって、その犬が庭に遊びに入ってきたなどとは考えにくい。


 こうして、私の記憶の中のプードル、「ハチ公」は、結局謎の存在として現在に至っている。今でも「ハチ公」の姿を絵に描くことはできる。あれは間違いなくプードルだった。家族の誰かが、その犬の名を「ハチ公」と呼んでいたはずなのだ。だから、幼い私の記憶に、その名前が残っているのだ。


 記憶と現実の不思議な狭間……。

 

 いつも思うことだが、なぜ、自分にはこんな不思議な記憶がたくさん残っているのだろう。後年、雑誌で「ピーターパン症候群」というものがあると知った。想像力が豊かすぎて、現実との区別がつけられない精神障害の一つだという。


 私は「ピーターパン症候群」を患った子供だったのだろうか。確かに、今でもそんな傾向はあるかもしれない。それなら、それでもいい。なぜなら、そのおかげで、ずいぶんと心が豊かに育まれたと思うからである。自然を見る目は、誰よりも鋭いという自負がある。そして、誰に教わるでもなく、幼い頃から、この世で一番大切なものは「自然」と「愛」だということを何の抵抗もなく自覚している自分がいることをうれしく思うのである。                                       

 


 8 福助人形



 私の生家は、私が就職してまもなく解体され、新しい家に建て替えられた。その古い家には、たくさんの思い出があり、なくなったときは寂しかった。


 幼い頃はトイレに行くのが怖かった。茶の間から、暗い二つの部屋を通り抜け、外部にむき出しの廊下を渡って、外付けの建物の中に入っていくのである。廊下から見えるところに墓があり、とにかく子供にとっては暗く怖い場所だった。


 そのトイレに行く途中の部屋の柱に「福助人形」の焼き物が、板の扇に留められて飾ってあった。私はトイレに行くとき、まず、その人形と目を合わせるのが嫌だった。人形はにこやかに笑っているが、その笑い顔がよけいに不気味に思えた。その人形の飾りは、家が解体される直前まで柱に掛かっていた。


 私は家が解体される数日前に、片づけの手伝いのために家に帰った。その頃は、実家からかなり遠い所で働いていたので、土日を利用して帰るぐらいしかできなかった。

 片づけは大変だったが、何となく切ない気持ちでいっぱいだった。小さながらくた類を段ボール箱に入れていた私は、ふと思いついて、あの福助人形のところへ行った。それは確かに、まだ柱に掛かっていた。私は椅子を持ってきて、その人形を柱から外そうとした。


 そのとき、実に不思議なことが起こったのである。


 福助人形は、私が手を伸ばして触れようとした瞬間、ひとりでにポロリと扇の額から外れて、下に落ちたのだ。下の畳の上に落ちて転がった人形を、私は確かに見た。しかし、それが、その人形を見た最後だった。

 私は扇の板を柱から外して、椅子から下りた。そして、転がっているはずの人形を探した。しかし、どこにもその姿はなかった。いくら転がっても、部屋の外に出るはずはない。もちろん、部屋の外も一応見回した。部屋の隅々までくまなく探した。しかし、忽然とそれはこの世から姿を消していた。


 あまりにもあり得ない事実だったので、私はなんとか自分のかん違いだと考えようとした。下に落ちたとき、バウンドして障子を突き破って外へ飛び出した、あるいは、もともとそこには人形は無かったのだと。しかし、どちらもあり得なかった。障子は破れていないし、外はもう調べた。それに扇に掛かった人形を確認して、取り外したのだ。


 母や姉たちに一応話してみたが、案の定、探し方が足りないとか、また幻を見たのだとか言われた。


 結局、福助人形はその後誰も見たものはなく、家は解体され、がれきの山となった。あの人形はどこへ消えてしまったのだろうか。もしかすると、あの人形には魂が入っていて、

 私が外そうとしたとき、自らの意志でそこから去ったのではないか。それが一番納得のいく答えである。だとしたら、幼い頃、私がその人形を不気味に感じていた理由も分かるような気がする。


 人形には魂が宿ると、よく言われる。あの人形には誰かの魂が入っていて、がらくた類と一緒に捨てられることを拒んだのだろうと思う。



 9 「こっくりさん」に嫌われて



 私が小学五年生頃、「こっくりさん」の大ブームがやって来た。放課後になると、校舎の内外のあちこちに人だかりがあり、その中でおどろおどろしい声が響いていた。

「こっくりさん、こっくりさん……ここは日本の熊本の○○小学校です。どうか、北の窓からお入り下さい……」

 何度かその声がくり返された後、子どもたちがざわめく瞬間がやって来る。逆さにして油をのせたさかずきが、ゆっくりと動き出したのである。


 その後は、次々と「こっくりさん」への質問が続く。たいていは○○の好きな女の子はとか、自分は社長になれるか、というたぐいの質問である。私も最初は興味をひかれて、そういった集まりに顔を出していたが、やがてあることに気づいて遠ざかるようになった。そのあることとは、私がそばにいると、どうも「こっくりさん」のご機嫌が悪いということである。


「おかしかねえ…誰か、この中に信じとらん奴がおるど?」

 上級生が校舎の裏でやっていた大集会を、こっそり近づいてのぞこうとしていた私は、その上級生の言葉にぎくりとして、そろりそろりと輪の中から抜け出していった。

「あっ、動き出した」

 私が遠くに離れたとたん、そんな声が聞こえてきた。どうやら自分が「こっくりさん」に嫌われていると確信した瞬間だった。


 その後、「こっくりさん」は下火になったが、大学生のとき、友人たちと雑談をする中で、ふとしたきっかけで「こっくりさん」の思い出を話す機会があった。その友人たちは九州内の他県から来ていたが、やはり私と同じ頃「こっくりさん」のブームを経験していた。

 私が「こっくりさん」に嫌われたという話をすると、ある友人が真面目な顔で言った。

「お前、戌年生まれやろ。こっくりさんは犬が怖いけんね、戌年生まれがいると近づかんとやけん」

 なるほど、と納得した。ただ、戌年生まれの他の子どもたちは、別に「こっくりさん」に嫌われなかったらしい。私は特別犬臭かったのだろうか。


 今でも、「こっくりさん」は形を変え、子どもたちの間で密かに行われている。その秘密めいた、ちょっと怖い遊びは、いつの時代でも子どもたちの心をくすぐるのだ。ただ、私は不思議な体験を数多くしながらも、そうした子どもたちの集団の中の楽しみや秘密めいた思い出とは無縁だった。私の体験は、百パーセントひとりぽっちの時の体験なのだ。そこにあるのは私と自然であり、私と自分の「心の中」だった。

 

 私は「こっくりさん」に嫌われた。それは、子ども同士の集団世界からはじき出され、入っていけなかった少年時代の私を象徴している。 



 10 原因不明の熱



 私は大学受験に二度失敗した。母は一大決心をして、私を福岡の和白という片田舎にある全寮制の予備校に入学させた。今でも、この時の母の英断には感謝し、その偉大さをしみじみと感じている。私にとっては必要な試練だったのだ。


 そこでの生活は確かにきつかったが、おかげで生ぬるい私の精神は初めて覚醒し、勉学に初めて本気で取り組むことができた。


 校舎の周囲は田園とわずかな人家、少し行くと、玄界灘の波が打ち寄せる砂浜があるだけで、遊ぶ場所もない、まことに勉学にうってつけの環境だった。毎朝六時半に起床、ラジオ体操をした後、全員でマラソンをする。七時半から朝食、八時五十分から授業と自習が始まる。それから昼食、夕食とわずかな休み時間をはさんで、夜十時までみっちり勉強が続く。日曜は休みで、近くの者たちは家に帰ったが、県外組は外でテニスをしたり、自習や読書、散歩などで時間をつぶしたりしていた。なまっていた私の頭は活気を取り戻し、学力は自分でも驚くほど上がっていった。


 それは、ちょうど入学して三ヶ月ほど過ぎた七月の初めであった。私は日曜の午後から急に発熱し、起き上がれなくなってしまった。咳は出ず、のども痛くなかった。ただ、頭痛と全身の脱力感があった。予備校の先生の配慮で、急きょ家に帰ることになった。福岡で働いていた上の姉が、迎えに来てくれた。


 急行列車に揺られて熊本に帰る間、私は三十八度前後の熱にうかされて、ぐったりと座席にもたれていた。

熊本駅に着いて、迎えに来ていた父の車に乗ったときも、まだ頭はぼんやりとしていた。ところが、不思議なことに、車が郷里に近づくにつれて私の熱はうそのように退いていったのである。家に帰り着いたときには、体にも力が戻り、元気になっていた。


 私の体に何が起こったのか、いまだにわからない。ただ、思い当たることがあるとすれば、父の車の中から見た故郷の風景のことだ。

雨上がりの夕日に照らされた木々の緑は、思わず涙が出そうになるほど美しかった。特に、鮮やかな新緑の柿の葉やクリームイエローの椎の葉のみずみずしい色は、目からしみこんで全身を潤してくれるような気がした。


 思えば、郷里を離れて三ヶ月間、ほとんど緑のない場所で暮らしていたのだ。私は恐らく緑に飢えていたに違いない。自分では自覚していなかったが、心は自然の潤いがないために、水分のない植物のようにひからびていたのだろう。このことがあってから、ますます自然の大切さを身にしみて感じるようになった。人間も植物も全く同じ、自然なしでは生きていけない。


 今、人々は、科学技術のおかげで生きているという思いこみをしてはいないだろうか。大変危険な思いこみであると思う。心の病に冒される人間がどんどん増加しているのは、私に言わせれば、心が自然から離れすぎたための当然の結果である。子どもたちにはぜひ、自然とふれ合っていく生き方を教えてほしい。その中で、優しさも強さも、知らず知らずのうちに身についていくはずである。 

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夜伽話(よとぎばなし) 水野 精 @mizunosei

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