第115話あんた、ちょっと私のポケットに入ってみないかい(そのためにわたしをどうするのかちょっとでいいから訊かせてください)

 時間は晩ごはんにはまだちょっと早いくらい。

 夕暮れどきの、どこにでもある住宅街の帰り道。

 普段ならひとの気配がたえることない、細いけれど陽の当たる表の路地。

 なのに、いまここにいるのはわたしたちだけ。

 

 ひとの気配どころか声さえも聞こえない。

 使、これは間違いなくこのひとの仕業だ。

 だからってわけじゃないだろうけど、本人は余裕綽々だ。

 両足は根っこが生えたように安定して動こかない。

 向けられた拳は髪の毛ひと筋もブレることがない。

 その眼差しは一瞬もわたしから外れることなく、興味津々の目の輝きがキラキラを通り越して爛々と輝いている。

 そして顔にはあのこわくて綺麗な笑みを浮かべたままだ。

 きっとこのひとはどんな状況でもそうやって笑えるんなんだろうなと、なぜか自然とそう思った。

 だけど、その目とお付き合いするのもここまでです。

 あなたはずっとこのままでもいいのかも知れませんが、生憎わたしはそうじゃありません。

 早く帰って晩ごはんの支度をしなくちゃいけないし、みたいテレビもあるんです。

 だからこの状況から足抜けするため、自分から動くために息を吸いこんだ丁度そのときだった。

「ふふ、やっぱりいいなあその目。色々な気持ちや想いや感情がころころ映り変わっていって、見ていて全然飽きないぜ。なのに本質的な色は変わらない。

 するりと滑りこませるように、そのひとが言葉を発したのは。

 わたしは完璧にタイミングを外されて、またしても動けない。

 それでもこのひとに褒められると、不思議と悪い気はしなかった。

 そこに続く言葉を聞くまでは。

「本当にいつまででも見ていられるなあ。いっそ持って帰って額に入れて飾っておこうかな。これだけ極上の肴なら、いつもの酌でも一味も二味も違って楽しめそうだしな。ああでも身体全部は流石に難儀だな。そもそもオレには。だったら贅沢は言わないからせめて首から上だけでもいいんだがね。それなら持ち運びも出来そうだしな」

 なんてことを言いながら、なにが面白いのか「あはは」と不気味に笑っている。

 いや、聞いてるこっちは全然笑えませんからね、それ。

 いまの言葉だけでいったいいくつの法律に触れているのか、こわいから知りたくない。

 このひとの気が触れているかどうかについては、もっとこわいからたしかめたくない。

 そういうことはこころのなかだけで言うだけにして、ずっとしまっておいてほしい。

 本人が目の前にいるんだからせめてそのくらいの配慮があってもいいんじゃないかと、わたしはこころのなかで強く思う。

 だいたい魚ってなに? まさかホントにわたし食べられちゃうの?

 あの子と違って食べるところなんてほとんどないのに。

 それにわたしはきっと、

 そのひとはひとりでひとしきり笑って喉がかわいたのか、ずっと左手に持っていたをくちに運ぶ。

 まさかこのひとから動いてくれるなんて。

 わたしはこのチャンスを見逃すまいと、穴があくほどそのひとの動きを注視する。

 ただ缶にくちをつける。なんてことない動きのはずなのに、なんだか優雅で洗練されててどことなく気品みたいなものまで感じられる気がする。

 こんな格好してるのに。

 だけどこういうところが、わたしに強く意識させる。

 だからって、わたしにとってはそれがどうしたという話でしかない。

 目の前にあるのがなんであっても、わたしのやることはかわらないんだから。

 そんな動きのどこをどれだけみてもどうみても、やっぱりどこにもスキがない。

 そのひとは缶の中身を飲もうとしたその寸前、「おっと」となにかに気づいたようにちいさく声をあげて缶をくちから離す。

 そのまま一滴も飲むことなくそのを、少し名残惜しそうにしながらもとの左手の位置に戻した。

 そして「アオ!」と短く発した言葉が、どうしてかわかった。

 最近同じような系統の名前をどこかでよく聞いてたからかもしれない。

「そろそろ呼ばれる頃合だろうとは思ってたけど、真逆まさかこんなことで呼ばれるとは思わなかったわ」

 それは落ち着いていて揺るぎないところだけがそっくりな、聞いたことのない青色の声。

 ふわり、と声と一緒にそのひとの背中から現れたのはは、ものすごくをしていた。

 蹴飛ばしたらよく飛んでいきそうなところまでそっくりだ。

 けど、決定的に違うところがふたつあった。

 ひとつは目の色が青いこと。

 もうひとつはそこに刻まれているのがハートマークだったこと。

 心臓を意味する、こころと生命をあらわす印だったこと。

「初めまして、まだ名前のわからないお嬢さん。ワタシはこの子のパートナー兼監督兼管理担当兼監視役。そしてこの子が何かやらかしそうになったその時には、ブレーキをかけるなんて面倒極まることをしないといけない係よ。名前はアナタの背中に同じように個体識別名はあるけれど、便宜上ワタシの名前はこの子が呼ぶようにアオでいいわ。それも不承不承でいまだに納得してないのだけれど。でもそれでお互いに円滑に意思疎通が図れるなら、もうそれで構わないことにしているわ。そういうわけで、この子にとっても不運で最悪なお嬢さん」

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