ガラスの世界の内と外

古博かん

ガラスの世界の内と外

 この世界では、丸い丸い、とても綺麗きれいなガラス玉が日々現れては、次々と消えていきます。

 どのガラス玉も、くもり一つなくピカピカに磨かれて透き通り、キラキラとかがやいています。

 それはそれは、光すら物怖ものおじしてしまうような、綺麗な綺麗なガラス玉です。


  誰がいつ、どこから持ってきて、なぜ、どうやって磨いているのかは、定かではありません。それでも、日々現れるガラス玉は、いつ誰が見ても、いつでも輝いて綺麗に透き通っているのです。


 いつでも、ピカピカに磨かれたガラス玉の一つには、可愛らしい様子の女の子が一人、ちょこんと座っています。

 素敵すてきなドレスに身を包み、ほこり一つないガラス玉の内側で、毎日毎日、微笑ほほえんでいます。

 キラキラと輝く透明な壁に守られて、傷一つ負うことなく、綺麗な綺麗な空間で、お行儀ぎょうぎよく、いつもいつでも、微笑みながら、ちょこんと座っています。


 女の子は、とても満足しています。

 何の疑問もいだかずに、とてもとても満足しています。


 ピカピカに磨かれた透明なガラス玉の内から見える世界は、とても薄汚うすよごれていて、とてもとても見えます。

 とてもくすんだ、とてもとても薄汚れた世界では、人々がせわしなく動き回り、走り回り、汗をかいて、涙を流して、へとへとになりながら、それでも決して歩みを止めることなく、くすんで薄汚れた世界を徘徊はいかいしています。


 女の子は、その様子をとてもとても不思議に思いながら眺めます。


「ねえ、ねえ。あなたたちは、なぜ、いつもいつも、そんなに落ち着きなく彷徨さまよっているの?」


 綺麗な綺麗なガラス玉の内側から、女の子はそう呼びかけてみます。

 しかし、くすんだ世界をい回る人々に、女の子の声は届いていません。


 誰も彼もがあおい顔をした、薄曇うすぐもりの広い広い世界。

 向こうの世界は、人々の心から、いったい何を奪い去ってしまったのでしょう。


 女の子は、呼びかけます。


「ねえ、ねえ。わたしの話を聞いてちょうだい。きっときっと、楽になるから。わたしのように、こんな風に落ち着いて座っていられるのよ」


 女の子の呼びかけは、相も変わらず届きません。

 誰も彼もが蒼い顔をしたまま、振り返りもしなければ、女の子と目を合わせることもありません。

 まるで見えていないとばかりに、みんながみんな、光り輝くばかりに透き通るガラス玉を、上手に避けて歩くのです。


「本当は、見えているんじゃないかしら。どうして、見えないをするのかしら。変ね、変ね」


 女の子は、そんな人々をあわれに思い、そして、じっとじーっと見つめます。綺麗な綺麗なガラス玉の内側から、くすんだ世界を見つめ続けます。

 それでも、向こうの世界は何も変わりません。


「変ね、変ね。どうしてかしら」


 女の子は、生まれて初めて、心に何か、小さな小さな空洞くうどうのようなものを感じました。

 それは心の中で、少しずつ少しずつふくらんで、いつの間にか、満ち足りていたはずの世界を、女の子から失わせていきます。


 綺麗な綺麗な小さな世界で、女の子は、何不自由なく暮らしてきたのです。それが、これから先も、ずっとずーっと続いていくだけのことなのです。


 何もうれう必要なんかないのです。

 なのに気がつくと、小さな小さな空洞は、いつしか心の半分ほどに満ちています。


 誰も彼も、綺麗な綺麗な小さな世界に生きている女の子には、目もくれません。

 こんなに綺麗な、透き通るようなガラス玉なのに、なぜ、誰も彼も気付かないのでしょう。

 女の子には、それが不思議でなりません。

 毎日毎日、心の中の小さな小さな空洞が、少しずつ、少しずつ大きくなっていきます。


「ねえ、ねえ。誰か、誰かわたしの話を聞いてちょうだい」


 毎日毎日、透明なガラス玉の内側から呼びかけます。その間も、小さな小さな心の空洞は、どんどん、どんどん膨らんでいきます。


「変ね、変ね。どうしてかしら」


 ピカピカに磨かれて、光り輝くガラス玉そのものが、女の子の世界をふさいでいるような気がしてなりません。

 でも、このガラス玉がなければ、とてもくすんだ薄汚い世界から、とてもとても女の子を守ってはくれないでしょう。そう思えば思うほど、女の子はどうしても、その場を動くことができません。


 女の子は段々、自分が世界で、ひとりぼっちの存在であると思うようになりました。


可哀相かわいそうな、可哀相なわたし。みんなみんな、わたしのことを分かってくれない。こんなにこんなに悲しいことって、世の中、他にあるかしら」


 女の子は、小さな両手で顔をおおって、綺麗な綺麗な小さな世界で、さめざめと泣きます。

 こんなに苦しいのに。こんなに、こんなにつらいのに。どうして誰も彼も、平気で見て見ぬ振りができるのでしょう。


 女の子には、益々ますます、分かりません。

 来る日も来る日も、女の子は泣き続けます。


 すると、くすんだ世界から、くすんだ薄汚いが一つ、くもり一つない綺麗な綺麗なガラス玉にゴツリと当たり、小さな小さな傷をつけました。

 女の子は、びっくりして顔を上げます。


「わたしは何もしていないのに、わたしを傷付けようとする人が、向こうの世界にいるのね。わたしはこんなに、こんなに傷ついて、とてもとても苦しんでいるのに、外の世界には、まだまだ、わたしを苦しめようとうする人がいるのね」


 女の子の小さな小さななげきは、綺麗な綺麗なガラスの世界の内側で、延々えんえんと繰り返されます。

 それでもやっぱり、誰も彼もがガラス玉の周りを忙しなく通り過ぎ、女の子には見向きもしません。


「変ね、変ね。どうしてかしら」


 来る日も来る日も泣いていた、ある日のことです。


 女の子は、今まで、くすんで薄汚いと思っていたガラス玉の外側の方が、とてもとても美しく素晴らしいものに思えてきました。


 女の子は、綺麗な綺麗なガラス玉の内側から、コツコツと、小さな傷の入った透明な壁を叩いてみます。今まで、ずっとずーっと女の子を守ってきたピカピカの透明なガラス玉は、女の子が思っていたより、ずっとずーっと分厚ぶあつくて、とてもとても頑丈がんじょうです。


「変ね、変ね。どうしてかしら」


 綺麗な綺麗なピカピカのガラス玉は、こんなに、こんなに固いものだったのでしょうか。

 それすら分からないまま、女の子は、必死になって、小さな傷の入った透き通るガラスの内側を、叩いて叩いて、叩き続けます。

 何度も何度も、休み休み、それでも叩き続けます。


 いったい、どれほどの時間が過ぎたのでしょう。

 くもり一つなく輝く、綺麗な綺麗なガラス玉が、ピシリピシリと音を立て始めます。


「もう少し、もう少しだわ」


 叩いて叩いて、叩き続けてようやく分厚いガラス玉が、パーンとはじけてれました。

 小さな小さなガラスの破片はへんが、そこら中に散らばります。

 すると、とてもくすんで薄汚い世界の塵芥じんかいが、途端に女の子の埃一つない素敵なドレスを汚し、とてもとてもよどんだ空気が、女の子の肺に流れ込みます。


 女の子は、ごほごほ咳き込みます。

 けれども、戻る場所はありません。自分で、粉々に砕いてしまったのですから。


「ねえ、ねえ。誰か、誰かわたしの話を聞いてちょうだい」


 女の子は、よどんだ空気を吸い込むたびにせながら、忙しない世界を彷徨う人々の間に、ふらふらと消えていきました。


 粉々に砕けてしまったガラス玉は、とてもとてもよどんだ世界で、いつまでも、いつまでも光り輝く破片となって散らばっています。


 しかしそれは、二度と元には戻りません。

 そして、振り返るものでもないのです。


 粉々になったガラスの破片は、やがて踏みつけられるごとに、細かい細かい粒になり、少しずつ、さらさらと流れていきます。


 「ねえ、ねえ。わたしの話を聞いてちょうだい」


 女の子は、ようやく、ようやく、ひとりではなくなりました。

 誰も彼もが蒼い顔をして、とどまることなく歩を進める世界では、呼びかけに反応があります。

 眉間にしわを寄せ、無視をされることもあります。しかしそれでも、反応はあります。


「ねえ、ねえ。わたしの話を聞いてちょうだい」


 女の子の埃一つない素敵なドレスは、ほどなく薄汚れて皺だらけになりました。

 何も知らずに、ニコニコと微笑んでいた頃の面影おもかげも消えました。


 女の子は、放っておくと大きくなるばかりの心の空洞を埋めるため、歩き回ります。他の人と同じように、歩みを止めることなく、くすんだ薄曇りの世界を彷徨います。


 心の空洞を埋めるには、まだまだ足りないのです。

 それでも、女の子は満ちています。


「ねえ、ねえ。わたしの話を聞いてちょうだい」

「おや、おや。どうしたんだい」

「うるさいな。あっち行ってくれ」

「ねえ、ねえ。わたしの話も聞いてちょうだい」


 ガラスの世界の外側は、心の空洞を埋めるための新しい出来事で満ちています。満ちているから、この世界は混沌こんとんとし、よどみ、薄汚く見えるのです。

 しかし、よくよく目をらすと、それはかつて、光り輝くばかりの透き通るガラス玉だった粒なのです。そんな粒々が無数と散らばり、さらさらと流れているのです。

 それが、ガラスの世界の外側でした。


 自分の力で出て来なければ、決して見ることの出来ない世界が、ガラスの外側に満ち満ちているのです。


 女の子が上手にけて歩いている足元には、透明なガラス玉が「ねえ、ねえ」と呼びかけています。

 そして時折、つま先がこつんと弾いたの一つが、今日もどこかで綺麗な綺麗なガラス玉に、小さな小さな傷を付けるのです。


 ここは、ガラスの世界の外側です。


 そして、女の子の世界の内側です。

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