蝸牛と徒然なる宇宙のエルーパ

@kenji2021

第1話 エルーパ

私の縁と宇宙の旅


(1)


カタツムリのエルーパ




少しばかりお話しします。


凄く不思議な未来の小さな少年のいる世界の事を。懐石と言う惑星にある料亭。そこには宇宙が存在する。懐かしい五月雨に打たれる石造りの日本庭園。世界から見れば、蝸牛の彼や彼女の愛を東アジアの平和に繋げるためには日本のことわざ言わぬが花であり、そして滅びの美徳である言わぬが仏なり。世界の神々は有事の祭に懐石料理にはうずらの卵があり、その言葉の運命を知らせるように日本料亭にひっそり棲まうカタツムリに老婆心からのメモを授けたりけり。過去には太平洋の東アジアにある大型台風のお導きで妖魔の蝸牛のグランドエルーパという爺さんに木枯らしを生み出させるために日本上空の空を旋回させた。その日本の空の下、海上数千キロかけ離れたところの二つの古島に小動物などの生命体がほとんど住んでいない岩の諸島あり。渓谷に吹く風の流因を移動させ日本の気風を神風に変えたグランドエルーパ。昔話から現れた妖怪のいる21世紀以前の時代にはグランドエルーパの先祖がいて、風に乗って空から見た大陸の景色にはいたく感動したそうだ。その大陸を浮遊させようと夢にまで見たその昔話のグランドエルーパには孫たちである妖精の王女と王子たち。その国に生まれたての蝸牛(小僧のカタツムリ)には、日本のお袋の味が伝わり、インド洋ではそれが別の形で発祥の地としてあるそうだ。日本にはクリームシチューという海がスープの具材として出来上がった食される蝸牛のレストランがどこかにあり、その南のインド洋の湾岸からかなりかけ離れた海上には、誰の仕掛けでもない水の栄えた小宇宙である日本庭園の中に日本料亭。『食卓で召し上がられるわたくし蝸牛のエスカルゴ料理』と時代を救った一時の自分へごちそうさま。でもおやすみなさい。海上に浮いた電車の発車時刻の街に貝ならではの蝸牛レストランの世界。




(2)


交通公園にてエルーパ




その各国には時差があるあいさつがあり、時計は昼の1時を廻ろうとしていた。そこには数多の歴史的あいさつの入った各国独自のおはようとおやすみなさい。諸島には天下の大陸に入りかねたありがとうの文化がある。何処かの国の明るい人々には太陽の日射しがいつも当たる。鉄の時計台には昼の世界が見えないくらい輝く照りつく南風の熱風吹き荒れる公園がある。夜の雲の上の世界に融ける山林に保管された姿見の水の鏡は天国へ人々を導く虹の七色の橋。大陸や島国にあるかがくが宇宙に期待されれば機械仕掛けの虹を惑星に掛け、夜の大空に大宇宙のひらめきあれば、虹のかけ橋などに暗雲立ち込めるカタツムリの宇宙の類があり。それは星空の雲が空に浮かんでいるのと似ている。暗いどんよりとした夜の地球の大きな水のような銀河の見える公園と火星の特大な保安庁公園の間には風の漂う宇宙空間があり、神様からのいかづちとして存在し得る暗闇に、星や星の通り道を散りばめた宇宙空間がある。その間を結ぶのは宇宙ステーションであり、火星から地球に戻ればカタツムリの類曰く、人間の世界は世界の列車のある交通公園の玩具に似ていると言わしめた。そのカタツムリは列車でも玩具でも1番先頭に乗ったことがあると自慢している。中々先頭に乗るまで遠慮も入っていたから列の最前線に並べなくてがっかりしていた。宇宙空間の人類の庭には張り巡らされたカタツムリの宇宙の類、そしてその惑星の利便性。だからかカタツムリはキラキラ光る虹の橋の島にレインボーの輝く世界をガラスの人見知りの瞳で映しながら泣く泣く心の見えぬ鏡で覗いていた。ババ様と蝸牛は星空の下、本を読みながら林檎をかじる。


【おかしいな? だから僕には分からない世界があるのかな?そうなんだろうと、蝸牛の子の小さな可愛い蝸牛は言っている】




(3)


森羅万象のエルーパ




その洗練されているような森羅万象の全貌自体、カタツムリの観測から展開していたのだ。そのポロポロ泣ける地球上の映像の話も歴代猛者の誰かしらが書いた諸説ある物語りにあった。森羅万象には無視されていたような現世が描かれていた。ことに星の夢見の朝に深い眠りは若さを封印されていた老いた朝のババ様であり、若返りのために深林の林檎の木から赤い林檎をもぎ蝸牛と食べた。さっき食べられたばかりだと言っていたのに。もう食べられまいと思った面白さがある。もしかしたらと思った林檎の妖精は円卓を飾る林檎の準備ができていなくて、いやいやながら手掛かりとして現代の宇宙からのささやきに聞こえる真っ赤な玉林檎を天からの手助けの声だと泣きわめいたから、雨宿りした蝸牛は露草世界の滞在者が何処からきたのか所在が分かってきたようだ。得てして蝸牛は含みを覚えた。地球人や火星人の優しさから損害を受けていた兄の心や体は芯や軸に成長を基調として表れていた。ヤドカリから選抜される林檎の木があればそれは優しさの惑星にも変えられる。インド洋にオレンジ伝説があれば、日本には林檎の紅玉のような梅の花の伝説があり、梅酒は美味く、冷たい梅酒は格別に美味くそれが美味く飲めるのは世紀の功労者達が造り出した冷凍食品の宝の倉庫、冷蔵庫のおかげであり森羅万象から受け継いだ倉庫である。




(4)


インドから来たエルーパ




正直者のインド洋の兄はミニ予言の能力に長けていたようだ。ミニでも予言である。その能力が収まった兄は、日本に帰郷してから、そのインドで聞いた森羅万象の語り草に託された意味をカタツムリ宇宙に重ね合わせ、生物への愛情で、女性と夫婦になり、己が蝸牛のJr.であることゆえ、宇宙の風の一つの生まれ変わりを生み出した小屋に棲むことに誇りを持っていた。風車で出来た水路に、ひょっこりたまに出てくるその蝸牛と暮らしている。それがし蝸牛の住まう瀬戸内海である島から食事の世界観を暗示したお知らせになりましたと兄は言う。それが結果的にズルさの輪廻応報を防ぐ歴史的事実に真実味を帯させました。雨の降る海上レストランに日常感を演出と本気で探し託し、日本らしさと諸外国に平和かつ和平が静かに世界観として物流として起こしました。アジアのある北半球の頭上の悪魔フロンの輪っかからオゾン層が破壊されていた時代背景は光で暖かさに太陽の向きを知り得たし、オーロラが今も時折見える。ライ麦畑の農作業のババ様ははかどる人類の古き良き前世紀の素朴な幸せを知り得た人。21世紀日本はヨーロッパに比べれば、さも代わり映えはするが、だいぶ前、中世の非日常の蝸牛様への優しさは蝸牛レストランにたらふく愛情をこめて食していた。少し前まではヨーロッパも世紀末に果敢に挑み、少し人より浮いてしまっていた強迫観念の切り裂きジャックは世界の終わりとヨーロッパの人々には思えていた。世紀末以降が見えないと自分の中で不安がり、その本人たちが怒りとわだかまりを感じていた蝸牛様の為に、試しにババ様の料理は良い味が漂う世界を、宇宙の中の一つの世界観として見た。その日本のクリームシチューの海に似たヨーロッパの海。碇のおろされた地中海の世界の食文化は神の雲を生み出す能力という呪縛にかかってしまっていた。過去の懐かしい料理人の心意気を汲んだ兄の食事からもこの時代の光景がヨーロッパからアジアに橋を架けての郷土で分かりました。そのカタツムリ世界は長期的に耳鳴りの落雷のない白い雲、青い空に埋没した宇宙観と世界思想で出来ていた特別な空間であり、その世界がマゼラン万華鏡として点在して誰もが宇宙の見えぬ不安を雑踏の静けさから安心の食卓に変えていました。




(5)


紀元前のルールは薬草




古代の蝸牛様と未来の妖精が、人間らしさとは何かと思い考え煩い、切るに切れず生かした現代の妖精と人間との人情話は物と者の縁を生み出した兄の心の疲弊に神の雲探しの未知の者達が寝床にしていた時空の狭間から来た大型客船を、地球の大海の生活に人類の方舟にと、そのクルーが大西洋から持ってきた切り裂きジャックの魂がさまよっていたこともあり、そこを仮の因果応報の棲みかにしていた。


悪名高き切り裂きジャックも魂を様変わりさせ、日本の清き武士の優しい心と温かい心を抱かせれば精魔の蝸牛様の親御さんと肉体の流れをその者に対してあえて斬りかねていた事が正しいと思えていたようだし、それを認めてその蝸牛様の本来の家系により、未来人に謝らせたかったのです。天候の別次元から来た亜種の未来人がその者を斬った理由は謝ることの意味が軽薄になるのではないかといった事情からでした。結果的には意識の把握の行き届かないところで切っていたのですが。そんな当たり前ですが複雑な理由であり、そもそも未来人が勧善懲悪に安心がいかなかったのがジャックのさまよう魂の部分的死を親戚の弟は受け止められなかったのかとも思えたからです。




ジャックの魂はオーストラリアに短い潜在能力を授かり、生まれ変わりの魂として滞在していたので世界が様変わりする前にそれを兄に渡し、魂の霊魂が勾玉として生命の生まれ変わりになり、その数多の魂を定着させ探査機で宝探しをしていたのが彼ら空の一味です。


その一味の頭領の叔父の兄はジャックの生まれ変りで、真に上手い悪党を調べる探査機使いは耳の音調払いの監視員として役割を仰せつかったが、それを断り自由に生きることを選んだ。弟の現代人のドットは、オーストラリアの酷い処刑を軽めにとらえられず、その市長でさえ自分の思いや考えが間違っていたのかと夢で蝸牛に通告されたようです。




(6)




精鎮の妖魔エルーパはそれを心に傷としていだきつつ、その蝸牛をそれほど能力は持たない庶民だとは知らずに三人の姉弟達は、その分かりやすくて見えない心を、謎多き老人へ託せた。幽体離脱した人間としての子供を治療するために時空を越え、年の功を元気にさせる魂の頂を獲得するハルの体質遺伝を与えられました。その者は22世紀を最期に姿をくらましました。過去に戻ったとされたり、諸説ある地球上の語り草です。


その父エルーパの息子は不思議な体質遺伝を持てず後に獲得の時代までは正体は謎でしたが、その兄上は不思議な体質遺伝を持っていました。弟は考えます。兄は肉体とは別の世界の心と繋がっているのか?と。


父が自分に日本人の体質遺伝を埋め込んだのは、兄上が幽体離脱の病を幽体離脱超能力治療協会の有限会社に魂作りを委託するためなのか?と、考えながら。


だから蘇りや終わり方に障壁を残すことが病院の挟み込むような多国籍企業に幻聴の治療医療に費やす経費の滞らない明暗の分かれ目として、その兄弟の素質や体質を病院は見抜いてはいなかったようです。


いかなる形にせよ若き兄の中年期とその孫の讃美歌をゲームのように風の音にした天才の二人目の弟は、その差別を無くせないかと模索しましたが使命それ自体が蝸牛様の伝言だった事に兄達の20世紀半ばの第二次戦争の記憶が薄れた頃に気付きました。


超能力治療協会の担当者は相当数の300の絵を寝ないで描いたことがあると沢山の人に話していた。




(7)




兄のエルーパJr.はその作品を見た伴侶の女性が笑っていることに安心していた。宇宙空間に紫や黒の区間の蝸牛宇宙の神秘性のあることに信憑性を感じてもいたし、漠然とした発想方法で夢の中にも現実のカタルシスはいらないと思えていたようだ。その信憑性には危険性が付き物なのが宇宙論であったし、ブラックホールに吸い付くような歪んだ宇宙への発想は2000年の歴史の宇宙論、宗教の出家観には参拝の干支飾りの封印蝸牛神社が小宇宙の日本庭園とお似合いだと思えていたようだ。それ程、純粋な宇宙性に乏しくも純度のある宇宙観を持っていた兄だったから、そういった発想で精なる蝸牛エルーパの病が良くなりはじめた記憶に気持ち、然程ですが淀みのある兄のエルーパJr.の病状も軽くなりはじめていたようだった。と、ハルこと弟の保田司は思っていました。兄上のエルーパJr.は洞窟の賢者かもしれないけれど己が街を散歩しながらも檻の中に引きこもるのは自分だと気付いているのだろうと弟のハルは感じていました。




(8)




下界に降りてきて記憶を無くし改めて人間からやり始めた洞窟の賢者の父、保田卓(エルーパ)はほとぼりが覚める明け方、灯びの光る日空挺の延期の出発は明日以降は確実なことをなぜか知っていました。でしたが向かった先の農作物の沢山の稲穂の穀物から生物は親の顔に泥を塗ると罰を受ける事があり、食物連鎖が起きた場合、超能力より科学なのかと人間の才能に際限の再現が無いことを認め、一部荒立った世界中の再現の無い由々しき事態を、輝かしき世界に暖かみと、温かみの世界を、一部と全部で再現し、天界を蝸牛様の方々に返還することにしました。大宇宙観を垣間見て世界の終わりの秘境手前のインドのナイル川に死者は復活するのだろうか? と、期待に水柱からお葬式を連想されたエルーパJr.。付き合わされた伴侶はその旅に何かといかがわしく死生観て何だろう? と考えさせられましたし、思わされました。私は臨機応変な誰かわからない間柄の親戚にライムギ畑に食物連鎖がない領地の家地に橋渡しをしなかったが結納と泣き止まない明るい葬式にほころんだ蝸牛様は太平洋寄りの極まった病院の傘下に入った。生命の血を分かち合わせずにいた。洞窟の賢者は必ず蝸牛様も仏になると話した。再び一つ一つが待て期待に胸膨らませる日などが大事だと言っていた。


そのくせ当の、ピュアな精妖魔エルーパは自分の子らにその様な心に己の克己心を託したことにより、その者は言葉の反骨精神を磨耗させることで本来の夢から発生した儚い宇宙観を見ないことにしました。




(9)




シャボン玉の妖魔の蝸牛エルーパに追い込まれた若い超能力治療者である夢王エルーパJr.は病気の完了の担い手にはそれらの精神科医療者たちとではなく、その方は施錠の付い息子の怪しい世界の住人の生まれ変わりこと小侍の雄二郎の作った連想画の死生観の人生に野球の侍を思い浮かべました。そして画家なりの夢に現れた全てのものをあらゆる方向から描けるようにバッティングに筆捌きを似せたいと夢みがちでした。キャンバスを抱え球技やスポーツの卓越者に気持ちを似せて精蝸牛エルーパの限界を侮り、あめ玉の甘さの意味や由来さえ墓石にさせました。




ですがその野球の侍をベースボールを加えずとも何かしらの大宇宙からの観点が観えれば、見える他の光り輝く球の様な惑星の色飾りは色々とありそうだなと想い、惑星爆発の新しいゲームに小侍を加えずとも皆様、心意気は温かくせつない様な淡い心になり、星母の地球より、銀河の外れにある惑星テンタクラスの魔界の海には最強クラスの巨大な妖魔進化した生命体が存在していて、健康な世界の住人の親エルーパの頭に出来た円形のこぶのシコリには奇妙ですが全ての記憶が宿っていました。エルーパは毎晩懐かしさをいだき宴を数人でひらいていました。いつのまにかそのシコリは消えていました。




(10)




そのシコリは半球でまるで形だけは三分の一分に切った白い小さなうずらの卵のようでありましたが、エルーパはそこは宇宙パークだと信じ、シコリの中にも宇宙が存在していてうずらの卵を宇宙の外観として見て、中に入った丸い添加物粒子の実りのような自然な植物園が『特に』宇宙の惑星を彷彿とさせるようで好きで、うずらの世界のフルーツから搾った生ジュースを銀河の星雲に融かしメインパークに変えたのです。イチローといったベースボールの侍はメロン好きなのに無意識に蝸牛云々に遠慮してスイカ好きだといった小話をしていたのかもしれない。夢の社会性タイプの借家に住まない夫婦の小侍から見れば宇宙の中を垣間見た気がしました。小侍の通称生まれ変わりの怪しい世界の住人が同じ記憶と細胞を持ちいつの間にか刷り変わっていた。どちら様も回復しては疑似フルーツ銀河に心の潤いと妻に対する口約で雄弁にこれからの方針を目標に掲げ、家庭内の時計に、画家ダリへの時間に対する観念は捨てることで人生の時刻にゆとりを持ち得た。街歩きで愛の夢を纏う時間の旅を彷徨いがてら、時空の継ぎ目の現代人のドットとして弟の体も仮、生きていました。その魔女となった小侍の怪しい世界の住人の生まれ変わりは魔法のこもった絵画は日の目は出ないものかと日を徒然と体の傷や心傷や魂の入れ替えで生きていました。東京都心部の並木道に一時期憧れていましたが、玄人みょう利の妖精香を醸し出す画家ヒロ・ヤマガタにも酔いしれた時があり東北にも憧れていました。その子供はいつしか青年になり、やがて大人の言葉を覚えて言葉の魔法のようであった赤ちゃん言葉は封印しました。やはりまだ小侍の生まれ変わりの健康で優しい世界の住人としては妖精や魔女とは寒いロシアの北国から舞い降りたのかと思いたかったのです。生まれ変わりの怪しい世界の住人は画家ばかりのもてはやされる時代は金に糸目をつけない時代背景があるからどうしたものかと考えています。ですから画家が捗るのはまずはお金の魅惑的な魔力を封印する寒さと暖かさを兼ね備えた国から芸術の成果は花開くと思ったのです。そう、精魔エルーパは里を愛し歌を愛し画家等の芸術性を好む妖魔雄二郎の父親だったのです。




(11)




そこで過去のエルーパについて語ります。




――東北から上京してきた若き日の私は人生の楽観至上主義の上級者であり、私は下町のあなたに溺れすぎると半生の結婚棺桶生活を終えた親にお冷やを少し出しリスクのない言葉を選んだ。そして、その子供に安心の生活を望んだ。




だから日常生活に子供たちには、はみがき粉をイチローの影響からメロン味を加え唇にフレッシュな夢の驚きを感じ、起きた直後、口の中を清潔にして、次の朝食からはバリウムを飲んだ知人と接触した親には一番風呂にバリウムに似たミルクバブを加えて久々の余暇を経て、寝床の部屋に入ることには、まずは風呂の屋根が見えるうちは平和だね......と話していたようだ。そんな古文の論文をうたた寝からまどろみに換わった時、通気孔からの甘い臭いに我を忘れ寝入った後に、蝸牛話の巣くう世界に溺れ始めた。




社会人2年目の冬空の日の夢の中、日本からヨーロッパへ旅立った保田卓。




スイスの世界の蝸牛はオーパーツで育ち回復の鈴と共に旅行先で山の渓谷の鉱山の鉱石の音の心として生まれました。その時、兄の強(カイベル)はそれに新しい息吹をいだき、何か起こりそうだぞ?と稀有をいだきました。




(12)




それから蝸牛の世界になったと噂がたった妖精界の雄二郎に強は別の世界で蝸牛になろうとしている私と瓜二つな保田司という友人と人間が作成した精巧なフクロウ三匹の緊急事態勧告に、天界の者たちは飛び出しました。過去であれば捨て去りたいような発想をする頭脳のもった強であれ、未来へ行くにも強の価値観はあたかもさざ波の価値から始まったといった日本の価値観を後世に伝えていったのかは定かではありません。


強はまだ蝸牛の洗礼を受けていない天界の赤子達を、自分が操るエルーパJr.へ超能力の力を託し、力をいまだ持たない、数十人の赤子達を連れ去り、星雲の下の地球空間に宇宙から集めた熱と土を己の手に持ち、こね始めました。そしていくばくかのうちに星雲の下に見える範囲で平たく固めた大地を創りました。そう、地上を創ったのです。


そこに降り立った蝸牛の赤子達は成長していき、己たちを人間と名のりました。


人間達は強の手を離れ自由に地上を動き始めました。


人間達は子供を産み、その数は膨大に膨れ上がりました。


数百年後、色々な国ができました。


こうして、人間を中心とした人間界が誕生しました。


しかし身勝手に新しい世界を創った兄に弟の鉄槌が下ります。


天界と地上の兄弟蝸牛ハルと強は兄弟げんかをしました。


弟は身勝手な兄に鉄槌を下すために。兄は自分の世界を守るために。


しかし、それは命を懸けた争いにまで繰り広げられていきました。


兄弟げんかは4年も続く大戦にまでなりました。


その永い大戦の後に軍配は天界のハルに上がりました。


ハルは勝利しましたが負けた兄の強を生かすことにしました。


結局始まりから終わりまで弟はルールの長い自他共に認める弟兄げんかの域を踏み外すつもりはありませんでした。


以前の前世簿の洗礼を受ける前。


ハルは兄と一つの約束と契約と語り草をしました。




(13)




『天獄の絵空事後の不安や安心から自己啓発をしてしまった者達。その背中を支え続けた世界に降り立った天使達。各種の新生児名簿に自分の名前は消し去り、円筒に革新の心と安静をもたらしに来た達観者たち。神の蝸牛エルーパJr.の背中を求め続けた世界に降り立った全人類達。程々に能力の持たないその子たちは寿命も分からずに流されながらも途切れ始めたターン・ウェーブを懐かしむ者や、本当の安心とは何かと疑問を持ち続け、安心と不安感を心のわだかまりとして生きている者達がいた。だがお前が地上に連れ去った天使達は今、安心したり不安を持ちながらも支えあって生きている。むげに天界に連れ戻すことはできないだろう。強よ、一つ契約を交わせ。蝸牛の力を達観した存在には城の先のトビラの出入口である天国や地獄の五枚壁に閉ざされた世界に。ターン・ウェーブに戻りたいと願い続けたものには、その者に蝸牛の力を授け、天界に戻れるようにすること。もしくは新しく天開を改めて作りし天国を創造させよ。わかったな……』


強はその約束を守り生きながらえ、今地上の人間の様子を、旅をしながら楽しみ、ひっそりと暮らしています。


強は弟の言い付けを守るため、弟は兄に天命を与えてしまったがゆえに自らの影の産み子に対して、蝸牛の姿が見える永地からのだて眼鏡を豊潤の瞳に通わせ、別の世界の自分がどこかに消えていき見えすいた嘘を付いていたのではないかと思わせていた。


自分らが歯車の永久ゴマの中に居ることを知らずに時の葉っぱの雨の中では似たタイプを捜していた。雨中に宇宙を見た様に。


無くもある、在っても見えずに蝸牛や天使の明らかにならない力を持ってしても見分けがつかないような水の鏡を授けられました。


そして自分の姿を見つけた者に蝸牛の中立を目指す太陽の心に憧れる国家を模した人間の様な試みを与えました。


異界の地でなぜか少年は蝸牛になりたかった。




(14)




自分自身に与えられた。


それで幸せは皆に平等に行くことを国の偉い博士と対面して話したかった。


蜜の味を知るものが少人数で良いのか?


本当にそれが人間らしいと......蝸牛様だとしても聖人としての存在として相応しいのか誰かに聞きたかったし知りたかった。当然その応えがNoだとしても。


その信念とはまた違ったオーパーツ特殊三半規管という福音の鐘なりの誠に特有なマイルドな『感覚』を修行により、もしくは素因により『感覚野』として自分の対話手段とし、自覚してもしなくても使わないように揮発性ガスとして締めくくりあげた。だがそれはのちに病気として認定されるので、未来人のように世界中に誇張させてるウソを本当に見せかけの拡散としてさせてはどう?


最近では相手に伝わらない感情は久しぶりの心の滞りでいたわりの気持ちに優しい世界の住人は使っていたが、それはあくまでも治療であり、それでは心に日常の温かみがなくなる事をわかっているのだから安心と恐怖をさせて止めさせる指針をとった。怖れて荒さは目立ち未熟だが改めて最新のリズムで心に平坦さを求め、普遍性の上に並べてみてはどうか?


懐古主義の三原色から世界中の国を列挙していた具合の悪さが純情な彼女と各国の光の誕生日などからケーキカットして探って視てはどう?その家のあるうちは平和だね。




(15)




色々な研究を探って個人的に看てはどうか?そしてそれに応じる人間に優しい心を与えてみてはどうか?生命の力の差や都心の森の深くに片言のキーワードを残し、初恋に謝るくらいの気概や心意気が大切であるしその素のまま、止めないで良いが分かることと分からないことを曖昧なまま頭に入れないでと世界中が思う。


けれどたまには分かることばかりで人を責めないで。旭の昇る化学の成り行きの使者も眠りの中で生きている。


この時代に合わないボウヤに案内をさせて緊張度をほだてさせて、深夜一時を廻った頃、逆さまに空を見る釈迦様似の鉄棒のボウヤは危険信号にあるのを本物の蝸牛様が見た。その姿を確認したから、大陸から来たんだなと思わせて小島にひっそりと隠れていた。街人には先祖から黙々と稼ぎをしながら、幸せを願うのはどうか?他人の不幸は蜜の味とは入れ替えで、宇宙からの使者と地球上の使者とが毒を取りすぎないで削る事への、先進国への地獄や天国の沙汰は八つのお国で盆地を寒い国からコアなテーマパークを拾い上げ、新しい夢に生きる事に領或を達観出来る世界の老若男女の老若貧富を諸外国も含め寛容に受け止められる者を主権に立たせ、その国々の魂の大切さを柔らかく受け止めるなら、各国政府の危険域の領土の切離しの誠に下手くそな馬鹿者は荒々しい国々を精進させて、得てして慰安婦問題の意思疏通という能力を重要な約束としてみなし、各国では憎しみの補いを未来に繋げずに全ての生命にこれからの抱負を報告して普通の一生をまかなえる諸説ある地球の情報社会との生活を望んだ。


その輩を残して未来人は帰って行った。


私と瓜二つな老人は幻聴の超能力治療を終え、年の功の年老いた現時代の世俗を危険な因果応報としてみなし、治療の必要な者たちの音の領域をすべての人たちに進め終え、治療の必要としない全ての性の相方に奉仕して、おだやかで食事の美味しくできる温かな生活なりを生きる上で求めていくことが神の蝸牛様の望みだった。




~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


(16)日常音や文字は気休め程度




牢に入ったエルーパJr.は言います。


耳の中では日常生活の中に曖昧なものから音や言葉を見つける事ができる生活は、自分の中ではかなりの苦痛や嫌味を感じている。皆どこかしらで静けさや騒音に我を忘れ、そこに感じられる幸せの日々が本当の意味で幸せかもしれないと私は思う。そう思われる生活臭や生活香を普遍的に感じられる海の貝殻のようになるまで耳元の三半規管は感じとりながら、なにもかもの世界から幻の苦痛には遠くへ行っていただきたいのです。もしくは苦楽を遅らせていただきたいのです。私としましては、その語り草が五感から感ずるものであればなんの気もなしに良い事にも変わるのではないかと思う次第なのです。




(17)死生観と天国への考察




牢獄の蝸牛は供述書を書いた。




『人類の死生観というと極論に至極偏りがちな私だが、人類史では分からないことがままあるし、その端的になりがちな思想に徒然なるがままに想いを綴る事に悪気は感じている。が、躊躇なく答えに応じるのは野蛮でもあるが発想の源がどこからくるのかに思いを馳せると、本来ならば切磋琢磨の後に惰性と慣熟の義湯猫への恩返しにあると思える。人生に努力のコツがありきことこそが醍醐味と各著名人も肝に命じているだろうし、生活にしては、同時に累積された喜怒哀楽の感情が往々にして日本文化圏とは諸外国にて反らされた解釈によって、得てして妙でもある美学を連想させる。それによりひねりの日本文化がここに馳せ参じるのである。その性やその癖を持ち得た本能と理性の境目が日本人にはあるのでしょう。世界にはグローバルな愛情が色々と大なり小なりの事柄で付き物にある気はするので順風満帆なのだろうか?または日本文化圏のその一生には人生に興じる宴でもなにかと決められた儚さや哀しみが付き物であり、切っては切れないものである。その宴の儚さからいずれ天国を尊ぶ気持ちが育まれるかもしれない。いっときは地獄を自他共に邁進し、地球でも受け入れやすい死生観が人それぞれ大衆娯楽にあれば、それは現在過去形に成りつつある試練で良いだろうし、その束の間の休息はリラクゼーションに費やす時間あってこその国々の気風への新しい家族への雰囲気へのほぐれにつながる。それは生きる上での骨までの気持ち良さでありだろうし、火葬や土葬を越えた生きる上での中和剤である。五感の不平なき平等がそこにはあれば良い』




(18)処刑執行人の裁判官の判決




『みな人それぞれの自然に対する最大のアイデアは古今東西であるようですし、そこにはそこはかとなく、生活臭や生活香からの一時的脱皮が生じることもあるのか。だからこそ個人的な非現実で神秘的な話にはいくらか阿保らしく頭を傾げてしまう程、自由からの暇などは音で生きる上で知りたいのかもしれない。小さな思想であれ、達観を半人前でも達成が出来るのであれば、それは生きる事へ応じる死に際に夢想する良い死生観だ。安楽死とは時代を保つ人々が豊かさを心から求めた時であるかもしれない。死生観とは明るく見直せば生きている大きな励みであり、そこに喜びを感じる事が出来れば生きている事にゆとりを達観しているのであろうか。生きるそこはかとない領域が国々に生じたならば、始まりの村などから生きざまがあるように、生きる目的には人それぞれの固有性がある。死んでいくさまにも人それぞれの美徳や無関心や辛いようでも愛情がある。他人の小耳にはさめた話を心で温めてみれば、それは社会の回りくどさに新しさを感じたり、充たされるひとときであるかもしれない。その私事は家庭からの脱皮とは重ならないかもしれないが、社会的にグループを見つけられたら、居心地の良い死生観は知りえるのかはわからない。


わからないことをわからないままで。それは死生観に含みを覚えるための発想である。』




(19)私は貝になりたい。




ご覧いただきたい世界を物語りの模倣で記すことにした。


ーーーーーーーーーーーーー




死や仮死からの無限ループは耳飾りの貝から外れた『蝸牛の世界みたい』なのだろうか?それは『どういった事なきを得て模倣された美しい宇宙世界』なのだろうか? それを踏まえてご覧いただきたい。




この世界はことあるごとに危機に見回れた国へ繋がる森林があるし、そこから少し山を越え西日本に離れた岸里には南国がある。それは雫で言えば草の梅雨入りの世界であり、存在は人や動物の類が、衣・食・住を東アジアから引っ張ってきた日本の梅雨明けのような空の雨の中で見つけた雨粒世界でもある。宇宙に魅了され探していた人の産出した生死を纏ってきた生活の郷土に対する思い入れから出来た髄液世界なのだとも思ったものである。人間には自由と不自由があり、それを解決していくことに幸せが感じられやすいがそれは天国やそれら等ができた場合間違いかもしれないが。数多の雲の空の下で生きた僧侶とも言われたいつぞやのゲロウと小童は優しい人の雑踏のざわめきが聞こえた宇宙似の市町村の様子に有り難みを見間違えないようにしたりけり。車や自転車やバイクや人々やペット等が道行く車道では皆色々な気持ちを抱き日々生活している。日常の外れの草むらでは、葉っぱの上に乗っかった小さな蝸牛は地球の話をし始めた。じっくり聞き入ると、その世界は雨雲から発祥したという話だ。雨曇の雨粒に歳月を共にした貝塚の見える海に生きた貝と貝殻と亡くなった人たち。そしてそこには本当の海岸に貝殻から見つめた日々に世界の真髄ありき海洋に模倣されたし台風の暖かい雨の小さい水滴の五月雨。どうしても小童には知ってほしかった。寂しく窓を見つめる夜空には大宇宙のある世界を摸倣した本物の空。それとそっくりである日本古来の僧侶、空海の意図する空の意味をそこはかとなく浮き足ながら神妙な面持ちで教えた蝸牛。露の成り立ちで出来たような在るようで無く、無いようで在るはずの、小童と皆と蝸牛らは不思議なことにその世界で暮らしているようだ。今その場に存在しているはずなのに。そこは別世界なのに雨の中なのか。

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