第5話
講義室はすでに半分近く席が埋まっていた。
「せっかく急いできたのに……」
「仕方ないだろう、もう十分前だぞ」
少し落ち着いた
「どうしたの?」
「目を反らすなんていい度胸じゃないか、七光り」
口の端を釣り上げて、嫌味に嗤う。その表情はどこか蛇に似ている。七光りとは空理果の渾名だ。
「
憎々し気に呟かれた名―嵐山時雨は空理果達より一年早く飛行学校を卒業した、一応先輩にあたる人物だ。だが、空理果は彼を尊敬できなかったし、もちろん好きにもなれなかった。技術は一流だが、機体に無謀な改造を施すことでも有名で、それで十人近い人間を病院送りにしている。その素行と、空理果に対する批判的で、過剰に攻撃的な言動の数々も相まって、彼に対する印象は最悪だった。会う度に空理果には刺々しく不快な言葉が向けられる。
「先輩を呼び捨てにするとは、さすが七光りでパイロットになっただけあるな。礼儀がまるでなってない。」
「私は七光りなんかじゃない!自分の力でパイロットになったんだ!」
「父親の影響でパイロットになったんだろ?それで本当に自分の力で、自分の意思で、なんて言えるのか?所詮父親の影の上でしか生きられない癖に」
「うるさい!父さんは立派だった。その後を追って何が悪い!」
ニヤニヤと嗤う時雨とは対照的に、空理果の表情はどんどん歪んでいく。
「空理果ちゃん……」
茉魚が不安そうな顔で空理果の袖を引き、制止しようと試みた。周囲がどよめく声が耳に入ってくる。だが、空理果は退こうとはせず、時雨の前から動こうとしなかった。
「何をしている八雲!」
不穏な空気に気付いた黒慧も空理果を止めにかかる。やめておけばいいのに、空理果はついつい応戦してしまう。
「何ニヤニヤしてんだよ!」
「そうやって父親を盲信する姿が滑稽だからさ。何も知らないってことは幸せだな」
こうなると、売り言葉に買い言葉で空理果はますますヒートアップしてしまう。いつもであれば、一言二言で、時雨が去っていくが、この状況でそうなるとは考えられない。今日はいつもよりも長引くようだ。
「お前が父さんの何を知ってるっていうんだ!」
「物事を一元的にしかとらえられない人間は馬鹿だってことだ。自分の知っていることが世界のすべてだと考えるのは、馬鹿を通り越して呆れかえるレベルだがな」
この言葉に空理果は完全に頭に血が上った。握る拳が震える。
「八雲!待て!」
今にも時雨に殴り掛かりそうな空理果を黒慧が寸でのところで止める。空理果は小柄だが、こういう時の馬力は凄まじい。空理果を抑えながらも、黒慧はこの二人の会話に少し疑問を抱いていた。何故、時雨は空理果を挑発するような言動をとるのだろうか。しかも、父親の話題を出すことによって。正直に言えば、空理果は下から数えた方が早い成績なので、いくらでも叩くポイントはあるはずだ。黒慧が、どう事態を収集しようかと考えているその横から、茉魚が間に入ってきた。
「何で、嵐山先輩は空理果ちゃんにそんなこと言うんですか?」
茉魚がこんな行動をとるのは初めてだった。彼女も同じことを考えていたらしい。時雨は動じることなく、息を吐くように淡々と答えた。
「そんなもの決まってるじゃないか、辞めさせたいからだよ。できるだけズタズタになって、絶望して、自分の愚かさに気付いてからな。もう空なんて飛びたくないと思えるようになってくれるのが一番いい」
それはとても身勝手な理由だった。空理果は怒りのあまり、言葉よりも先に身体が前に動き出す。だが、それは黒慧に阻まれて、その場にとどまることになる。時雨のこの言葉に対しては、さすがに黒慧も憤り、反論の言葉が出そうになるが、その前に茉魚が口を開いた。
「どうして、辞めさせたいんですか?」
後ろ姿しか見えないので、茉魚がどんな表情をしているのかはわからない。ただ、その声はいつもより低く感じる。時雨は一瞬表情を歪めたが、すぐにまた人を小馬鹿にしたような顔に戻る。
「七光りには空を飛ぶ資格なんてないんだよ」
七光りという言葉が空理果の境遇を指しているのか、それとも空理果本人を指しているのか、この用法ではいまいち判別できなかった。
一触即発の雰囲気が漂う中、講義室の戸が開く音が聞こえた。講義の担当教員が入ってきたようだ。一瞬空理果の注意が逸れた隙をついて、前の方の席へと押し込む。
「なぜ先輩の挑発に乗る?放っておけばいいものを……」
無駄だと思ったが、つい口をついて出てしまった。
「だって、あいつ私のことだけじゃなくて、父さんの事も……」
そこまで言って空理果は黙り込んだ。空理果が時雨を無視できない理由は、父親の事に絡めて自分を侮辱されたことにある。だが、それだけではなかった。そういう言葉を投げかけられるのには慣れている。空理果が時雨の挑発に乗ってしまうのは、彼の含みのある物言いが心に引っかかっているからだった。彼は、自分の知らない事実を知っている。もしかしたら動揺した際にしゃべるかもしれない。そういう考えもあったが、やはり一番は時雨の言葉が単純に頭にきたという理由が大きい。
ふと、黒慧は違和感を覚えた。振り返ると、茉魚は時雨の前から動いていなかった。いつもだったら、茉魚は空理果の後ろにいるはずだ。やはり今日はどこか様子がおかしい。
「小鳥遊!」
黒慧が呼ぶと、茉魚が振り返った。その表情に黒慧はぞっとした。こんな茉魚は今まで見たことがない。カメラのレンズの様に無機質な瞳、対象物をただ記録するためだけに観察するような、そんな眼だった。親友である空理果が侮辱され怒りに満ちていると思った瞳は全く違う色をしていた。だが、そんな茉魚の表情は一瞬にして元に戻り、とってつけたような悲しみの色を帯びる。そして慌てた様に黒慧と空理果の方に駆け寄ってきた。
「茉魚」
空理果がその名を呼ぶと、茉魚はそちらを向く。何とか己の中の怒りに折り合いをつけたらしく、声は幾分穏やかになっていた。
「ありがとう」
空理果の言葉に、茉魚は、この状況に最も適した完璧とも言える笑顔を向けた。それがさらに黒慧の心に疑念を根付かせる。おそらく空理果は先ほどの茉魚を見ていない。
――えー、静かに。そろそろ講義を始めますよ――
教員の声で黒慧の思考は中断された。見ると、初老で眼鏡の教員が教壇に上り、テキストを開こうとしていた。隣で空理果と茉魚がノート端末を取り出したのを見て、黒慧も講義を聞く準備を始める。この疑念はとりあえず自分の胸の中だけにしまっておくことにした。
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