第4話

 三人が部屋を出た後一人残された雷悟らいごは、窓の外を見つめていた。水縹の不透明な空を見ていると、ある男のことが思い出される。

――何か、つまらないんだよなあ――

頭一つ分下から聞こえてきた声が蘇ってくる。背は低かったが、思いのほか逞しかったその男、かつての友人、八雲風真やくもふうま。強面で、人から敬遠されがちな雷悟にも臆すること声をかけてきた上に、親友として認めてくれた数少ない人物だ。天真爛漫、快活、そして操縦技術は天下一品で、いつも皆の中心にいた。そして人一倍好奇心が強く、未知の世界にも大いに興味を抱いていた。ここで言う未知の世界とは、当時の海を含めた国境の、さらに外側の世界のことだ。風真は、この世界にはまだ他の国が残っていると信じていた。それが彼の命を縮める結果になった。

 飛行機と、青い空を愛していた男はもういない。事故として処理されたそれは、国家の機密に関わる重大な事件だった。この国は大きな秘密を抱えている。風真はその一端に触れてしまった。あの時、自分が彼を諌めることが出来たのなら、もう少し違う現在があったのではないか。そう考える機会と、後悔は齢を重ねるごとに増えていった。

――もう、結構です。帰ってください、お願いします――

彼の妻、名は月子といった。彼の最期を知る雷悟が、その死を家族に伝える役を担うことになった。もちろん、真実をそのまま伝えることは許されなかった。その時の彼女の様子が今も頭から離れない。活発で少々気の強かったが、風真と並んで輝くような笑顔を見せていた彼女。雷悟の手にあった位牌と僅かな形見を収めた箱を目にした瞬間、背を向けて声を殺すように泣いた。

 四十半ばを過ぎたが、雷悟が所帯を持たないのは、ここに理由がある。もともと人付き合いもそんなに得意な方ではなかったが、風真の死以来、極力他人との交流を断っていた。自分の死によって愛する者を苦しめるのは御免だ。

 雷悟は軍を去り、他者との関わりを完全に遮断しようと考えていた。だが、上がそれを許さなかった。曲がりなりにも国家機密に関わった人間を野放しにするほど軍は甘くはない。粛清という名の処刑が待っていると思ったが、その予想は裏切られた。幸か不幸か、雷悟の操縦技術もある程度評価されていたらしく、それを惜しんだ上層部が、飛行学校の教官としての任務と、ある特命を与えた。それは、機密に関係する人物への監視、及び危険と判断された場合の処断だった。つまり雷悟は軍の管理下に置かれ、機密保持の片棒を担がされる羽目になった。親友の命を奪ったものを守るとは、何とも皮肉な運命だ。何度か死のうと思ったこともあった。しかし、志半ばで散っていった仲間たちや、風真の事を思うとそれは実行には移せなかった。二十四時間三百六十五日の監視体制の中では、自死すら許されなかった。

 

 甲高い連続した金属音が響き渡った。備え付けの専用回線電話が鳴っている。その音が雷悟を現実に引き戻した。

「こちら八重垣です」

――私だ、北崎だ。様子はどうかね?――

相手は国防軍統括省長官の北崎翔玄きたざきしょうげんだった。彼が雷悟の処分を決定したと言われている。

「今のところ、問題ありません」

北崎が問うているのは、空理果のことだった。八雲家は風真の死後、政治的な隔離地区に転居させられた。だがその後の調査で、風真が彼女に何等かの遺志を伝えているということが判明し、隔離の方針は一変、監視下におくことになった。空理果が飛行学校に入りたがっているという情報は、かなり早い時期に軍の上層部にも伝わっていた。彼が残したものが何なのか、彼らは非常に興味があった。だが、それが一枚の写真であるということ以外は判っていない。もちろん、空理果が風真と同じ思想をもっているということは既に周知の事実だ。重要なことは、その思想に伴って何か行動を起こす用意があるかどうかということだった。さらにその先に繋がるものについて、何らかの対処をしなければならないと彼らは考えていた。軍が空理果を生かしておくのにはそういった理由があった。泳がせているという表現が適切だろう。

――また一機壊したようだが、問題が無いと言うのか?几帳面な君らしくもない、大雑把な報告だな――

つまり費用対効果が悪いと言いたいらしい。北崎は雷悟の元上官だった。雷悟は北崎の言葉から、感情の機微を感じ取れるくらいには彼のことを理解している。当然、北崎も雷悟の性格を熟知していた。雷悟の心に迷いがあるとき、その返答はひどく短いものになる。詳細を語るとどこかで言葉に詰まってしまうからだ。

「訂正します。思想的な面での危険因子は否定出来ませんが、実際に仮定した計画を実行したとしても、私一人で処理は可能です」

 雷悟の頭の中では時々、空理果に風真の姿が重なっていた。技術的には遠く及ばないが、声、言葉、瞳、表情全てが風真と同じものを宿している。空理果が一流のパイロットになっても、今と変わらない信念を持ち続けていたとしたら、それが彼女の最期だ。

――そうか。君のような優秀な部下を持ったことを誇りに思おう。では、この話は終いだ。今日はもう一つ、君に伝えねばならないことがある――

空理果の話は本題ではなかったようだ。この時点で雷悟が考えうる可能性は一つしかない。

「それは、もう一名の監視対象に関することでしょうか?」

――相変わらず、君の洞察力は素晴らしいな。そうだ、ようやく裏付けが取れた――

洞察力云々は北崎の皮肉だった。もとより与えられた任務は限られている。その監視対象はスパイの疑いがある人物だった。裏付けがとれた、というのは調査の結果対象人物がスパイと確定したということだ。次に起こす行動の選択肢は絞られた。

「決行の日程は?」

――今すぐに、という訳ではない。あくまで秘密裡に、事を荒立てぬことが肝要だ。こちらも情報を可能な限り引き出しておく。次の指示を待て――

「了解しました。それでは」

――まあ、待て。話はまだある。――

思わず電話を切りそうになった雷悟は慌てて受話器を耳に戻す。北崎が話を伸ばすのは珍しい。

――今回に関しては、君に助手を与えようと思っている――

「助手、ですか?」

思わず間の抜けた声を出してしまった。この特命を受けて以来、誰かと組んで仕事をしたことはない。北崎からこのような提案をされたのも初めてだった。

――助手、というほど役に立たないかもしれんがね。娘にもこの国の真実を伝える頃合いだと思ってな――

北崎の娘、それは雷悟もよく知る人物だった。軍人の娘だけあって妙に固い言葉遣い、少々短気なところも見受けられるが、責任感は強い、そんな様なことを評価表に記入した気がする。艶やかな蒼味を帯びた長い黒髪が一番先に思い出される。

――黒慧には私から伝えておく。近いうちに改めて君と合流することになるだろう。そのときは頼むぞ――

北崎黒慧。確かに彼女ならば成績優秀で模範ともいえる生徒だった。しかし、それがこの特命で活きるかどうかは別の問題だ。黒慧の心は果たして真実に耐えられるだろうか。

「了解しました」

――では、また連絡する――

北崎の通信は切れた。雷悟も受話器を置く。 

 自分の手の中にはいくつかの人生が握られている。そして、自分の運命も誰かの手に握られているのだ。思うように生きることも死ぬこともできない、それが滑稽だった。もう一度空を見上げた。風真は最期まで、自分の意思で生きて逝った。雷悟はそれがたまらなく羨ましく思えた。

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