第3話
いつもより長めのお説教をかましていた所為か、教官の執務室までの道のりは大分短く感じられた。ドアの横に掛けられた木札には
「入れ」
中から少し酒やけした低い声が聞こえてきた。ドアを開けると、窓を背にした執務用のデスクと、その前に座る中年の教官―八重垣雷悟が目に入る。その人物に向かって黒慧が張りのある声で挨拶をする。雷悟に挨拶するときの黒慧の声は心なしか高い。
「予備部隊第三班、
三人そろって敬礼する。雷悟も立ち上がり、敬礼を返す。会う機会は少なくなったが、いつ見ても特徴的な外見だと空理果は思っていた。
「本日一四○○より訓練開始、第三飛行場より離陸。上空一千メートルまで上昇後、隊列を組んでの編隊飛行を実施……」
明瞭な声で報告をする黒慧の横で、空理果は雷悟を観察していた。長身のがっしりとした体躯、目元から口元にかけての大きな傷、ただでさえ太めの眉に鋭い目つきなのに、その傷のせいでとても堅気の人間には見えない。制服を着崩しているが清潔感がないわけではない。シャツにはしっかりとアイロンがかけられているし、ズボンの折り目もピシッとついていた。そのミスマッチが少しおかしかった。
雷悟と初めて出会ったのは、三年前の飛行学校の入学式、空理果が十三歳の時だった。飛行学校は、この国で唯一のパイロット養成機関であり、満十二歳以上の者が対象となる。学科試験、そして運動機能テスト、身体検査に合格した者が入学を許可される。クラスの担当教官として紹介された時は、灰色の学生生活を覚悟した。しかし、蓋を開けてみれば、雷悟は生徒を怒鳴り散らすこともなければ、無暗に殴ることもなかった。予想に反して、比較的穏やかな日々を過ごせていたと思う。ただ、空理果が初めて飛行機を壊したときは違ったが。そして、空理果達が卒業すると同時期に雷悟も異動になったらしく、今日まで付き合いが続くことになった。
「一六○○に編隊飛行を終了、着陸態勢に移行。二機着陸成功、一機は主脚破損。」
黒慧がそう告げた直後、雷悟の視線が空理果に向けられる。誰の機体か言わなくとも伝わってしまったようだ。
「八雲、破損の詳細を言え」
雷悟が空理果の前に立つ。平均身長より背の低い空理果は、普通に前を向いていると、雷悟の胸あたりに視線がきてしまう。
「はい。主脚の軸にヒビが入りました。タイヤは異常ありません」
その瞬間、頭上から重い一撃が降ってきた。雷悟に拳骨を落とされたのは、これが初めてではない。だが、何度経験してもこの痛みにと衝撃には慣れなかった。思わず頭を押さえそうになったが、辛うじて耐えることができた。
「北崎」
雷悟は空理果の前から移動し、三人に背を向けてデスクの前に立つ。これ以上の報告は不要、ということだ。
「罰として、第三班は本日講義終了後に飛行場の清掃を命じる。行け」
行けと言われたからには、早急に行かなければならない。
「了解しました。失礼します」
三人は素早くドアの前に整列し、一礼して執務室を出た。ドアの閉まる刹那、雷悟がこちらを振り返った気がしたが、空理果が確かめる間もなくドアは完全に閉じられた。
部屋を出ると、一瞬忘れていた拳骨の痛みが復活する。
「痛ってー……」
「大丈夫? 男子でも泣くくらいだもんね、教官の拳骨」
頭を抱える空理果に茉魚が寄り添う。
「私がチビなのはこの拳骨のせいかもしれない……」
そう思いたくなるほど強烈な衝撃だった。成長期にこんなものを何発もくらっていれば、骨の成長が阻害されてもおかしくはない、空理果はそう考えずにはいられなかった。
「その原因を作っているのは貴様自身だということを忘れるなよ」
黒慧が改めて釘をさす。
「拳骨一発で済むのなら安いものだと思え。他の教官ではこうはいかない。八重垣教官だからこそ、このような温情溢れる処置で済んでいるのだぞ」
そう言う黒慧の頬は少し赤くなっている。
「温情って……黒慧はこの一発をくらったことがないからそんなこと言えるんだ……何でそんなに八重垣教官の肩持つのさ?」
「か、肩などもっていない!」
「まあまあ、黒慧さんも女の子だから、ね?」
黒慧の慌て様に空理果は疑問符を浮かべるだけだったか、茉魚はすでに何かを悟っていた。
「た、たた小鳥遊! 何を、根拠にっ私はただ……」
ますます慌てる黒慧に対して、茉魚はニコニコと微笑んでいる。黒慧の方が大声でも、精神的には茉魚の方が優勢なようだ。
「黒慧、顔真っ赤だけど、熱でもあるの?」
この二人のやりとりに、いまいち着いていけなかった空理果は、脳内に疑問符を浮かべるしかなかった。
「多分空理果ちゃんも分かるようになるよ、きっと」
「何? 何なのそれ?」
「小鳥遊! 八雲! そ、そろそろ補修講義の時間だ、急がないと遅刻してしまうぞ!」
茉魚の意味深な発言に、ますます混乱する空理果、そして黒慧はそこから話題を反らそうと必死だった。自然と歩く速度も上がる。補修講義というのは、十五歳以下で飛行学校に入学した者に実施されている教育だ。飛行学校では飛行訓練に加え、飛行原理を学ぶために理系の科目に重点をおいてカリキュラムが組まれている。その課程でカリキュラムから外れた文系の科目、主に文学や歴史を学ぶのが補修講義の目的だ。
「あ、ちょっと待ってよ。何でそんなに急いでるの?」
「急げばそれだけ好きな席に座れる確率が高くなる! 今日は後ろの窓際辺りにするか?」
後ろの窓際の席。それは気怠い講義中に、教官の目を逃れて安眠できる素敵なポジションだ。通常であれば、勉強熱心な黒慧が最も忌避する位置だった。
「黒慧、本当に大丈夫? いつもなら絶対に一番前の席って言うのに……やっぱり熱が」
「私は至って健康だ!」
黒慧の足並みはますます速くなる。とにかくこの話題から離れたいらしい。空理果は訳がわからないながらも、慌ててそれに着いていく。一方茉魚は笑いを堪えるのに必死のようだった。
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