匿名性のアイ
@hiiiiina117
第1話:邂逅
“世紀の大泥棒が現れたんだって。
今度はこの街に現れたんだって。
まあ怖い、星騎士様にお守り頂かなくては。
大丈夫さ、今度の狙いはひとつだけ。
ひとつだけ。”
黒いローブを深く被った青年が、街を走り抜ける。行き交う人々のそんな噂話を聞き流しながら、青年はただ必死に足を動かした。息が切れる。ピアニストとして生きる彼は、運動には不慣れであった。足がもつれそうになりながら、人並みを縫っていく。
ローブの下に覗く艶やかな黒髪が、跳ねる。
「(道……分からねぇ……もう舞台が始まる時間なのに)」
青年はどこに向かうでもなくただ走った。ピアニストの消えたピアノホールは今頃大騒ぎだろう。
「(ちょっと抜け出して、街を見てやろうなんて思ったのが間違いだった)」
普段は与えられた部屋に軟禁され外に出してもらえない青年は、街の事情にすこぶる疎かった。交通から治安まで何も知らない青年は、弱きを狙う輩にとっていいカモだった。気が付けば不穏な連中に囲まれ、身分がバレることを恐れた青年は、逃げ出すしかなかったのだ。
「なぁおにーさん。なんで逃げんの?」
「待ってよー、なーんも怖ぇことなんてしないからさ」
「そうそう、持ってる金目のもんさえ置いてってくれればなァ」
どくりと鳴った心臓をローブの上から押さえて、青年は顔を上げる。彼らのいない方に逃げたつもりが、いつの間にかまた囲まれて、ビルの上やら配管の上やらから見下ろされている。
「隠してるけど、あんた“黒目”だよなァ?」
「逆らわない方が身のためなんじゃねーの」
青年は、くすみがかった赤・青・紫の瞳をちらりと見上げた。3対の瞳は下品に歪む。
そう、その人間の価値は瞳の色で量るのがこの世界の理である。価値とは大抵その者が持つ特殊能力のことで、それはこの世界の人間なら誰しもが、手足があって目と耳と鼻と口があるのと同じくらい当然のように持っている力だ。しかしこの青年のような黒い瞳の持ち主には、その力がない。
もうダメだ。ここまできたら、身分を明かしてモノを渡した方が安全だろう。それなりに名の知れたアーティストである自負がある。そんな有名人を不必要に痛め付けるのは彼らにとっても不利益でしかないはずだ。そう信じるしかないと、青年は判じた。
「(ああやだな。結局死ぬのは怖いのか、俺)」
覚悟を決めてローブを外そうとしたその時、うっと呻き声が響いて、青年を囲っていた男たちが地面に降ってくるのが見えた。
驚いた青年がそちらを振り返ろうとしたその瞬間、視界は真っ白い何かでいっぱいになる。青年は、どっどっと鳴る心臓の上を握ったまま、そろそろと後退する。ガシャン、と音が鳴って、踵が軽く痛みを訴えた。
背後にも逃げ場を失くした青年が恐る恐る目の前の男を見上げると、男から伸ばされた思いがけず白い腕が、ガタ、ともう一度背後で音を立てた。
衝撃ではらりと落ちてきた一枚のボロ紙には、目の前の男とよく似た顔が描かれている。現実逃避でもするように、青年はそこに並ぶ数字を目で追った。
「(0が1、2、3……)」
「ああこれ、センス悪いよねぇ。僕ってばもっとイケメンだと思わない?」
赤黒く踊るWANTEDの文字とその下に連なった数桁の数字を眺めていた青年は、すぐ近くから思いがけず降ってきた明るい声に再び顔を上げる。
確かに、絵よりずっと整った顔だ。思いがけず意識が引き込まれてしまう。
そんな青年の視線を浴びながら、大悪党はにいと笑みを深めると、吟うように告げた。
「ハローハロー、はじめまして。鬼才のピアニスト、ミスター・クロウ」
白く長い髪の隙間から、宝石のように美しい青い瞳が青年を覗いていた。
「君を盗みに来ました」
小さく唾をのみかけたその時、ローブの裾が下からくいと引かれる。青年───クロウがぎょっとしてその先を確認すると、人形のように美しい少女が、無垢な瞳で青年を見上げていた。2色の瞳が瞬いて、ブロンズの髪がふわりと動く。
「はろお」
鈴のように清涼な声が、うす汚れた路地裏にそっと溶けていった。
“今度の狙いはひとつだけ。
ひとつだけ。
今度の狙いは虚ろなピアニストただひとつだけだよ。”
匿名性のアイ @hiiiiina117
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