終章 



 天慶三(九四〇)年睦月、上総国天羽郡。


 日の出間もない波穏やかな初春の浜辺に、浜防風はまぼうふうの若芽が所々と顔を出している。普段はすぐ傍のうらぶれた集落の漁民らが時折銛を手にうろついているばかりであるが、この日は滅多にないことに内湾に錨泊された船を見つめる官吏風の男達が十数人、浜辺の小舟を囲んでいた。

 その中に将頼と玄茂、そして興世王の姿があった。玄茂は三毳山の奇襲を辛くも落ち延びた後将頼との合流を果たしたものの、寝返った地元土豪に阻まれ隠れ潜んでいた将門本隊に合流することは遂に叶わず、房総半島にて上総・安房の両反動勢力から挟撃を受けながらも抵抗を続けていた興世王を頼り逃げ延びてきたのであった。

「今まで世話になり申した。……どうか貴殿も無事生き延びてくだされ」

「……本当に、我らと共に行かぬのか? どうしてもこの地に残るというのか?」

 厚く礼を述べる玄茂と、その隣で名残惜しそうな様子の将頼を前に、興世王は呵々と笑った。

「おいおい、この期に及んで余計な誘惑をしてくれるな将頼殿。そりゃ貴公らと共に船旅と言うのも悪くはなかろうさ。だが将門殿が身共に任せてくれた下総の統治も碌に務めぬままこの地を去るわけには参らぬ。せめて一仕事ばかりは果たし上げ、城を枕に高鼾を掻いてやりたいと思うのじゃ。両君こそ、どうか末永く達者でおられよ!」

「興世王殿、我らはこの先何が待ち受けていようとも、貴殿の事は決して忘れぬぞ……っ!」

 涙を拭いながら沖に停泊する帆船へと漕ぎ出していく二人を見送りながら、興世王は視界一杯の水平線を見つめながら誰にともなく独り言ちた。

「……こんな広い海など、上総に赴任するまで見たことがなかったよ。思えば将門殿と戦いを共にした日々は、まるで荒れ狂う海を共に漕ぎ進んだかのようであった。どうかこの坂東の海が、これからいつまでも波静かであることを祈るばかりじゃ――」


 その後、将頼と玄茂は、逃走先で公雅率いる追討軍により討ち取られ、次いで上総にて抵抗を試みた興世王もまた斬殺されることとなるのである。



 同月、常陸国多珂郡。

 時折鹿の音が聞こえるばかりの針葉樹林を、白河関目指し進んでいく一群があった。

 数はざっと五十人ばかりか。中には馬も混じっているが、これだけの人数が木々の間を進んでも話し声どころか物音一つ立てないところから察するに只の集団ではあるまい。

 その出で立ちも黒一色、奥深い森林の中では上手く木陰に擬態となって溶け込み、彼らの移動を目にした者があれば、木々が移動しているのではないかと錯覚に戸惑う事であろう。

 無音の一団が粛々と北上を進めているうちに、不意にカアン、と樵が斧を振るうような甲高い音が響き、黒衣の者達が足を止める。

 カアン、カアン、

 忽ちそれは幾つもの剣戟と鬨の声に変わり、一群を率いていた者が初めて口を開いた。

「――合戦か」


 そこから程近い窪地にて、二つの集団が戦いを繰り広げているのが垣間見えた。朱色の長旗を掲げた騎馬軍が、「南無八幡」と書かれていたと思しき、破れかけた戦旗を一つばかり掲げた集団を圧倒し追い詰めている構図であった。

 その中で、集団の長と思しき手負いの騎馬武者が、劣勢を強いられながらも自ら先頭に立ち長鉾を振るい、味方を鼓舞して挑み掛かっている勇ましい姿が目を引いた。見覚えのある武者であった。

 離れた木陰からそれを眺めていた黒装束の長が再び口を開いた。

「……お前達はこのまま陸奥を目指せ。俺は残る」

「御館様?」

 傍らにいた黒衣の娘が彼を見つめる。

「あそこで兄弟が戦っておる。今も尚、な。俺も共に戦い、果たせなかった務めを果たさねばならぬ」

「ならば我らも同じ思いにございまする。御館様と共に彼らと戦いましょう」

 もう一人の娘が進言するが、御館と呼ばれた男は首を振った。

「お前達は陸奥に行け。そして彼の地の兄弟達を助けよ。彼らと縁を結び、我らがこの坂東で共に戦った者達の大志を語り継げ。俺は此処に留まり、最期の務めを果たさねばならぬ。――行け」

 目礼し去っていく部下達を見届けると、玄明は馬を疾駆させ長鉾を振り上げながら戦の只中へ飛び込んでいった。

「加勢するぞ、遂高殿っ――‼」


 

 将門の討死後、逃亡を試みた彼の兄弟や郎党達もまた、中央の徹底的な掃討と追及を前に或いは出家し、或いは妻子を捨てて山野へ隠れ潜むも皆悉く捕縛され、残った者も後に恩符が発せられたことを受けて出頭した。

 只一人逃げ延びた将平は武蔵国秩父の山中に潜伏し、その生涯を終えたと伝えられている。

 ここに、僅か三か月足らずのうちに坂東を焼き尽くし京の人々をも震撼させた天慶の乱は幕を閉じたのである。


 同月九日。将門討伐の功績により、秀郷は従四位下、貞盛は従五位上に叙されることとなった。

 征東大将軍を任じられ、渋々遠征した藤原忠文は行軍の途中で将門の討死を知り、戦わずして帰洛。その論功は意見が分かれたが、実頼の進言により叙位は見送られることとなった。これを深く恨んだ忠文は死後怨霊となり、実頼とその家族に祟りを為したという。

 その後、貞盛の子孫は伊勢平氏――いわゆる「平家」として朝廷の実権を掌握し清盛の代に絶頂期を迎えることとなる。一方で坂東に拠点を留めた者達は千葉、北条といった有力な武家勢力となり、やがて鎌倉武士団として坂東を中心とした武家政権の成立に大きく寄与することとなった。

 秀郷の子孫もまた秀郷流藤原氏として大いに栄え、その後裔である経清は陸奥に渡った後、前九年合戦で命を落とすも、その子清衡は後三年合戦の勝利を経て奥州藤原氏の礎を築く。

 そして天慶の乱より百六十五年の後、嘗て俘囚の地と呼ばれた奥州平泉において将門が坂東に目指した中央からの独立政権が誕生することとなるのである。


 志半ばにして討ち果てた将門の首級は、同年卯月二十五日に洛中へ運ばれたものの、忠平はじめ中央の朝臣らがそれを実検することはなく、翌月七条河原にて晒されることとなった。或いは忠平、実頼らは、親しんだ者の首を収めるに偲びなく思ったか。

 市井に晒された彼の首はカッと眼を見開き、物言わず東の彼方を見つめていたという。


 天慶の乱より一千余年後、坂東――即ち関東は、彼が最期の突撃の際に放った言葉の通り、幾度も歴史の波に揉まれながら、その志を受け継いだ多くの先人達の手により日ノ本の新たな都となり世界的な首都圏として大きな発展を遂げるに至った。

 そして、彼の首級は現在の首都の中心地、東京大手町の一角にて静かに祀られている。

 かつて第二次世界大戦の敗戦により関東をはじめ日本中が焼け野原となっていた時代、不遜な進駐軍共が人々の信仰の場を奪おうとした際、首塚は増上慢なる侵略者共に禍を為し、遂に坂東の誇りを護り抜いたという。将門は千歳百歳を経た今も尚、古の坂東の地を見守り続けているのであろう。


 最期の時まで彼の傍に寄り添い果てた桔梗姫に纏わる伝承は将門伝説と共に関東地方各地に伝えられている。

 或いは、将門を陥れる為に敵方が放った奸婦かんぷとして。

 また或いは、将門を慕いながらも思いを遂げられずに散った悲劇の女性として。

 いずれにせよ、彼女の実在は史実に伝えられていない。


 それはまるで平将門という途方もない物語に添えられた一輪の花のように、彼女の名は今に語り継がれているのである。


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