第6章 君が行く道のながてに 7
「――、……――、……」
いつからか、吐く息が白く凍らなくなった。
代わりに、からから、と喉の奥から乾いた音が鳴った。
「――、……――、……」
いつからか、脇腹の深い傷口から血が流れなくなった。
代わりに、からから、と腹の奥から乾いた音が鳴った。
「――、……――、……」
からから、からから。
ひょっとしたら、既に心臓も止まっていて、代わりに胸の奥からからから、と乾いた音が鳴っているのかもしれぬ。
死骸を連れ去る火車の輪か。
風に吹かれた髑髏の眼窩か。
糸の巻かれぬ糸車か。
ああ、そこに居ったか、糸車よ。
ならばきっと、この桔梗は既に死んでおる。
もう良いのだ。俺は既に死んでおる。連れて行くがいい。あの地獄も地獄の鏡地獄、三界国六道郡五趣郷八難村とやらに。
ぼうっ、と俄かに強い風が吹きつける。
――遥か彼方の浄土から吹き下ろす風じゃ。これでも皆有難がるのだぞえ?
からから、からからからから……。
されこうべを鳴らしながら、糸車の音が遠ざかっていく。
ああ、有難い。
俺はまだ生きておる。まだ生きておるならば、生きておる限りこの風を貴方の肩越しに感じていたい。
俺はまだ生き抜きたい。生きてもう一度あの力強い腕に抱きしめられたい。
「――、……――、……ああ」
その時、ふわりと温かいものが自分を包んだ。血を流し尽くしすっかり冷たくなった身体を抱きしめる確かな感触があった。
――美那緒よ。
「ああ……」
……そうじゃ。
俺は美那緒じゃ。
美那緒としてここまで生き抜いたのじゃ――
「――美那緒よっ⁉」
突如陣を飛び出した自分目掛けて射掛けられる矢の雨を搔い潜りながら将門は血相変えて馬を飛ばし、傷だらけの馬の首に手を回したままぐったりとした美那緒の身体を馬上で抱きしめた。
「主……様」
既に息はしておらぬ。心臓も止まっていた。血塗れ傷だらけの身体であった。
それでも微かに自分を呼んだ。……将門は全てを察した。
「俺の為に、こんな身体になるまで危険を知らせに戻ってきてくれたのか。さぞ難儀であったろう。済まぬ。……許せ美那緒よ!」
道中を共にした彼女の馬もまた、哀し気な目を潤ませながら女主人の髪に顔を擦りつける。
戦いは小康状態となっていた。互いに鎬を削りながら攻防を繰り返していたが、将門勢の残騎は残り百五十余。既に矢は射尽くしていた。
対して、風を味方につけた敵本陣はほとんど無傷であった。
美那緒を抱きかかえ連れ帰った将門に、ここまでの戦いで満身創痍となっていた真樹が鉾を携えながら進言する。
「若殿、姫様が命を懸けて知らせてくださったのじゃ。敵の援軍が辿り着く前に勝負を決めましょうぞ!」
将門は顔を上げて頷くと、最期を共にする従類達を見渡す。美那緒の最期の姿に涙を浮かべていた配下達も、屹と顔を引き締め主の言葉を待った。
「――皆よ、いよいよ次が最後の突撃じゃ! どうやら、ここで討ち果てるが我らの天命。ならば我らは潔くそれを受け入れようではないか。だが、いずれ我らが示した大志、必ず後に継ぐ者がこの坂東に現れよう。たとえここで討ち果てるとも、たとえこの身が首一つとなろうとも、俺はこの眼を見開いたまま我が坂東の行く末を
応おおおおおおっ‼ と平野に轟き渡る鬨の声が敵陣までも震わせた。
「いやはや。この意気込み、香取の海の湖畔にて良兼奴から姫様を盗み出そうとした夜を思い出しますのう!」
「ははっ、俺も丁度それを思うていたところじゃ!」
将門と真樹の遣り取りに、ドッと笑い声が響き渡った。
「敵陣が突撃の動きを見せておるぞ!」
只今の風向きも変えかねぬ程の気迫に満ちた鬨に気色ばんだ為憲が素っ頓狂な声を上げる。
「そのようじゃのう、まあ見ればわかるが。よし、よし、次で終わるであろうよ。仕切り直しの矢合わせじゃ。敵の動向に合わせて鏑矢を三本放ってやれ。せめてもの
指揮杖で肩を叩きながら秀郷が命じる。
「結局、中央の討伐軍は間に合わなんだな」
さも小馬鹿にしたように繁盛が鼻を鳴らす。
「なに、京の青大将なんぞ糞の役にも立たぬよ。精々井戸の中で蛙を呑むのが関の山じゃて。これからは我ら坂東の時代、そなたら若者が礎を築かねばならぬぞ。討つ者、討たれゆく者、両者の志を受け継いでな。老いぼれの出番はもう仕舞いじゃ。……それにしても、良正殿の援軍は何処で油を売っておるやら。出し抜かれたとか言うて後で儂らに食って掛かってくれるなよ?」
やれやれ、と肩を竦める老将の傍らで、貞盛が眉を顰めて首を傾げていた。
「何じゃ、あいつら笑っておるな。この期に及んで気でも触れたか?」
「はは、正気で戦に挑む者などおるかよ! 笑って死ねるとは良き
呵々大笑を見せながら、誰にも聞こえぬ声で、秀郷は穏やかに呟いた。
「……まったく、まったく羨ましいことじゃ」
ヒュウウウウン、と茜色の空に鏑矢が続けざまに三本放たれるのを眩しそうに皆が見上げる中、遂に将門が天に長鉾を振りかざし虎のような咆哮を放った。
「狙うは貞盛の首只一騎! 皆よ、俺に続けェっ――‼」
南無八幡大菩薩の戦旗を激しく翻す向かい風に真っ向から立ち向かいながら、美那緒を背にした将門と最期の新皇軍は敵本陣の嵐のような矢の只中へ真正面から斬り込んでいった――。
――時に現に天罰有りて、馬は風のごとく飛ぶの歩みを忘れ、人は梨老が術を失へり。新皇は暗に神鏑に中りて、終に涿鹿の野に戦ひて、独り蚩尤の地に滅びぬ。天下に未だ将軍自ら戦ひ自ら死することは有らず。
最期の一瞬まで自軍の先頭に立ち戦いに挑んだ平将門の、あまりに勇猛な生涯の幕引きであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます