第6章 君が行く道のながてに 4



(……そんなっ⁉)

 間もなく山の裏手に辿り着くという処で、美那緒は馬を止めて呆然と空を見上げた。

 飯沼川の水面が黄金色を帯びる頃合であった。

 今まで突風となり将門勢を助けていた北風が、突如南風に変じ、さらに勢いを増して島広山の平原一帯に吹き下ろしてきたのである。

 これにより、矢掛けにおいて圧倒的に優勢であった将門勢は、秀郷軍最精鋭三百を相手にたちまち劣勢に追い込まれることとなる。

 その上、先程重傷を負って現れた小唄の様子を見るに、恐らく北側から新手の敵が攻め寄せてきたのは間違いあるまい。

 恐れていた最悪の事態が二つとも現実のものとなってしまったのである。

(どうする、このまま進んでも恐らくエミシ勢は無事ではあるまい。かと言って御命令を果たさず陣へ引き返すことは出来ぬ……!)

 ふと、小唄が大切に携えていたコヅベンのものと思しき蝦夷の剣が目に浮かんだ。

「――っ!」

 小唄が噎せ返りながら伝えようとしたことがようやく符合した。

 ――コヅベン達は奮闘するも全滅致しました。敵の増援が迫っておりまする。直ぐに小次郎達にお伝えください!

 理解するよりも早く美那緒は手綱を引いて踵を返した。

 一刻も早く本陣へ伝えなければ、この上なく不利な状況で将門達は西から北から挟み撃ちにされてしまう!

「――くっ⁉」

 しかし幾らも引き返せぬうちに美那緒の行く手を幾本もの矢が阻み、「そこの馬、止まれ!」と幾つもの殺気立った声が上がった。

「ちぃっ! うぬら、何処の手の者か!」

 忌々し気に舌打ちを漏らしながら、美那緒も殺気を込めて怒鳴り返す。

「なんじゃ、女の声だと⁉」

 驚き交じりの返事が返ってきたかと思うと、彼女の周りを囲むようにぞろぞろと赤旗を掲げた騎馬兵達が姿を現した。

(……くそ、よりによって筑波の水守勢か! この一大事に、今更になって一番厄介なのが現れおった!)

 太刀を払って油断なく周囲を睨み回す女武将を前に、騎馬達も扱いかねるように困惑しながら彼女に弓を向ける。

「女じゃ。どうしたものか?」

「我ら筑波の赤獅子は女は手に掛けぬ掟じゃぞ?」

「しかし、何処かで見たような」

「ごちゃごちゃ言うとらんで武器を捨てさせい!」

 美那緒を取り囲んでざわつく武将達を押し退けるように「待て待て、手を出してはならぬ!」と言いながら一騎の武将が前に進み出た。

「美那緒……本当に美那緒か? まさか生きておったのか?」

 目の前にいる自分が信じられぬという様子で呼びかける武将をきっと睨みつけ言い放つ。

「如何にも妾こそ新皇将門の妻、美那緒じゃ! 貴様こそ何者か!」

「俺が判らぬのか? 公雅じゃ、何を言っておる?」

「……ああ、公雅か。思い出したぞ! 我が主に中立を約束しておきながら、貴様はなぜ妾に弓を向けるか!」

「一体どうしたというのじゃ、美那緒よ。……そなたの兄の顔を忘れたか?」

「何……?」

 困惑を通り越して哀しそうに自分を見つめる公雅の問いかけを不可解そうに眉を顰める美那緒の前に、今度は忘れもせぬ相手、良正がニヤニヤ笑いながら現れた。

「これは、これは。奇遇とはまさにこのことじゃて! こんなところで新皇陛下の細君に御目に掛ろうとは!」

「良正……!」

「ほう、儂の事はお見知り置き頂けておるとは恐悦至極。末までの誉にございまするぞ。さて、何処でお目通り致しておったかな?」

「……良正ああああっ!」

 慇懃無礼にお道化てみせる老将をせめて刺し違えて道連れにしようと、周りの兵達が止める間もなく美那緒が良正に斬り掛かる。

「――っうっ⁉」

「おっとっと!」

 しかし美那緒の渾身の一撃は咄嗟の抜刀に受け止められ、鍔迫り合いの拮抗となった。

「良正様っ!」

「手出し無用ぞ、この無能な木偶でく共奴。小娘一人の刃も防ぎに入れぬか!」

 慌てて美那緒に弓を向けようとする配下達を忌々しそうに一喝すると、たちまち恵比寿の面相で美那緒の太刀をぎりぎりと押しに掛かる。

「この……!」

「おやおや、久方振りの対面だというのに、随分つれない素振りをするではないか、我が姪よ?」

「……何だと?」

 一瞬怯んだ彼女の隙を、良正は見逃さなかった。

「ふん!」

「うわあっ⁉」

 力任せに押し切られた美那緒が馬上から突き落とされ、悲鳴を上げて地面に転がった。

「うおっ⁉」

 これに怒った美那緒の馬が良正の馬に体当たりし、彼もまた姿勢を崩しかけ咄嗟に馬から飛び降りる。

「やれやれ、躾の悪い馬じゃのう。この駄馬同様に躾の悪い姪には叔父が直々にたっぷり仕置きを加えてやるわ!」

 身を起こしかける美那緒に飛びかかると、馬乗りになった良正は容赦なく刀を振り下ろす。それを辛くも太刀で受け止め、再び競り合いの形勢となった。

「う……ぐううっ!」

 苦しそうに顔を歪める美那緒を見下ろしせせり笑いながら、良正は猛烈に臭い息を吐きかける。

「うひゃひゃひゃひゃ! 今日まで上手く甥奴らの目を欺いてこれたようじゃが、迂闊にもに化けた当人の身内までは調べが及んでおらなかったと見えるのう。儂はのう、たとえ黒覆面で顔を隠しておったとしても、一度ならず合戦を共にした者の声や仕草は決して忘れぬのじゃ。そう言った些細な勘が戦で命運を分けるものよ。そして、お前の命運は此処で尽き果てるのじゃ、――僦馬の頭目よ!」

「くうっ!」

 ぎりぎり、と死の刃が目の前に迫る。もう幾らも腕が持たぬ。……最早これまでか!

「安心せい。武夫の情け、いたぶるような真似はせぬ。一思いに楽にしてやるでな。それ、もう少し腕の力を抜いてくれれば、もう辛い思いはせぬで済むぞえ? うひゃひゃひゃひゃひゃ!」

 言葉とは裏腹にいたぶる気満々の嗜虐的な笑みを満面に、組み伏せた美那緒の顔に涎を滴らせる良正の眼前を刹那の刃が閃いた。


「ぎゃああああっ⁉」

 絶叫を上げながら斬り飛ばされた右腕を押さえ美那緒から飛びのく良正の前へ割って入るように、銀髪を靡かせた男が立ちはだかった。


「シロ!」

「危ねェとこだったな、お頭!」

 颯爽と現れたシロが、身を起こし歓声を上げる頭目を庇うように良正勢を前に不敵な笑みを見せる。

「安心しなよ、小唄はネネが無事逃がしたぜ」

「ネネが? 俺を見限って皆と一緒に離れて行ったのではないのか⁉」

 驚きを隠せない美那緒に向けて良正騎馬達が矢を番える。

「おのれ、女とてもう容赦せぬ! ――ぐわっ⁉」

 敵が弓を引こうとしたところに突如目の前に巨岩が投じられ轟音が響き渡り、驚いた敵馬が引っ繰り返った弾みで乗り手達が振り落とされ、馬の下敷きとなった。

「……まさか、フジマルか!」

 振り向いた美那緒が目にしたのは、ぱん、ぱん、と手を払う疱瘡の痕を黒覆面で隠した大男をはじめ、懐かしい黒僦馬の仲間達であった。

「皆、俺に愛想を尽かしてしまったのかと思うたぞ……?」

 目を丸くする美那緒に、ダンシが鼻を擦りながら口を開く。

「最初はまあ……色々思ったこともあったけどよ」

 その肩を抱きながら、コユウザが笑う。

「このままお頭置いてトンズラこいちまったら元の俺らじゃなくなっちまうしよォ」

 へ、と鼻を鳴らしながらフジマルがそっぽを向いて言う。

「そもそもお頭の下に加わった時からして、ママよとばかりの泥舟よ。こうなったらとことん地獄の底までついてくぜ!」

「へへ、なんだかんだ言ってよ、みんなお頭の事が好きなのさ! なあ? お頭――」

 シロが懐から自分の黒手巾を取り出して美那緒に差し出した。


「――そろそろおいら達のところに戻ってきてくれよ?」


 手渡された手巾を美那緒が手に取った刹那、

「――がっ! ぐあっ⁉」

「シロっ⁉」

 二本の矢を身体に受けたシロが悲鳴を上げて倒れ伏した。

「調子に乗るな盗人共! この場で皆殺しにしてくれる!」

「ぐうう、……待て、まだ殺すな!」

 激昂して次の矢を番える弓手を、苦悶の表情で喘ぎながら蹲る良正が止めた。

「御大将……? ――ひっ⁉」

 振り返った弓手は、その様を見て訝しむ顔をゾッと蒼白に変えることになった。

「ぐうう、……く、くかかかかかかかかかっ! やってくれたわ小童共ッ‼」

 憎悪を滾らせた相貌を怒らせながら未だ血飛沫を噴く右腕の断面を美那緒達に示し、全軍に咆哮のような命令を発した。

「殺すなよ、まだ殺すなよ、絶対に殺すなよ! こ奴らは膾切りに斬り苛んでも簡単には殺してやるなよ! 精々生きたまま苦しませてやるのじゃ! 四肢を斬り落としても死なせてはならぬ。言い換えれば全員最低でも四肢を斬り落とし、生きたまま達磨に晒し上げい! 生きたまま苦悶を味わわせよ。言い換えれば苦悶の内に死なせるのじゃっ! 徹底的に嬲り活かしにせい! 者共、掛かれィ!」

 しかし、良正の怨嗟の叫びに慄いてか、配下の兵達は却って手を出しかねる有様であった。

「シロ、しっかりせい!」

 自分を抱き起そうとする美那緒の手をやんわりと払いながら、シロは気丈に微笑を浮かべる。

「大した傷じゃ……ねえさ。……それより、早……く殿様のところに行って……やんな。皆、あんたの指示を……待ってンだ」

 美那緒が顔を上げると、僦馬の配下達が皆黙って自分を見つめていた。

 彼女はシロに頷くと、揉烏帽子を毟り取り、代わりに手巾を顔に巻き付け長鉾を手に馬に跨り声の限りに名乗りを上げた。


「やいやい雑兵共よ、よう聞けィ! この俺が将門の女房と見紛うた節穴をほじって良っく見よ! 我らこそ東山道から東海道、天下の街道に名を響かせた黒僦馬、その頭目こそこの桔梗ききょうじゃ! この名を聞いたが最期と知れ! 我らが行く手を阻む者あらば、これを容赦なく打ち亡ぼさん! ――続けィっ!」


 女頭目の名乗りの勇ましさに、それに応える一味の者共の鬨の声も猛々しく、黒僦馬の一党は幾百とも知れぬ敵勢の只中へと斬り込んでいった――。



(――その名を聞いたが最期か。はは、違ェねえや。俺らも初めてお頭の名前を聞いたぜ。

……そういや、死んだ仲間の墓の前でお頭必ず自分の名前を明かしていたみてエだが、あン時はよく聞き取れなかったが、あれがお頭なりの手向けだったのかもな。今度は俺らにお鉢が回ってきたわけか。まあ、いいさ。

……なあ、お頭、今あんたが言ってた自分の行く手ってのは、殿様のところかい? だったら、早く行ってやンな。そして死ぬ気で生き抜けよ。

……お蔭さんで、俺は、あんたの背中をずっと追いかけ続けて――)

 

 ――ここまで、生き抜いてこれたぜ。


 剣戟の中に消えていく仲間達の背中が、姉と慕った頭目の背中が、シロの目の前で次第に白く霞んで消えていった。



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