第6章 君が行く道のながてに 3
同時刻。島広山、飯沼川上流付近。
山の麓に陣取ったコヅベン達は山の反対側から聞こえる合戦の剣戟に耳を澄ませ、将門勢優位を確信し喜んで手を打っていた。
「
応っ! と闘気に燃えるエミシ衆四十余が弓や蕨手刀を振りかざし谺を響かせる。
彼らの陣は山間から丁度川を見下ろせる位置にあった。山の傾斜は固く凍り付いた根雪が地面を真っ白に覆っている。
「しかし、坂東の雪は思いの外湿っぽいのう。奥六郡とは大違いじゃ。これでは馬もうっかり足を取られてしまうぞ」
パリパリと雪を踏みしめながら楓の幹に繋いだ馬の元に繋いだ馬へと難儀しながら歩み寄る兵士の一人を見て顔を顰めながらコヅベンがぼやく。表面こそ固いが力の加減次第では根深い雪に足がはまり込み、なかなか思うように進めない。
そこへ兵士の一人が川上の方を指さしながら声を上げた。
「首長、北西の方から何やら朱色の旗を掲げた一群が近づいてまいりますぞ!」
「北西の方角だと⁉ 常陸の方角か!」
何事かと皆がそちらの方を見やると、まるで真っ赤な粘菌が地吹雪の中を這うように朱色の旗の一群がこちらを目指して行軍してくるのが確認できた。
「多いぞ。五百、……いや、七八百はおりますぞ! これが敵の別動隊ならエライことじゃ!」
「朱色の旗か。常陸の方角とすると逸れていた玄茂殿が上手く逃げおおせて国府より援軍を引き連れこちらに向かってきておるのかもしれぬ。しかし、油断は禁物じゃ。誰か様子を探ってこい!」
そう命じると、丁度馬の元に行こうとしていた兵士が手綱を手にすると斜面を下りながら川辺へと下っていった。しかし、陸奥とは違う慣れない雪質のせいでなかなかうまく進めない。
「おうい、足元に気をつけて行けよ!」
仲間の一人の呼びかける声に、苦笑しながら手を振った兵士の額が矢に射ぬかれ、水しぶきを上げながら馬から転がり落ちた。
「――総員応射っ!」
即座にコヅベンから下令されたエミシ衆が弓を番えて朱い旗印に向けて次々と矢を射掛けるが、将門陣地と違いこちらは敵の風下に位置していた。
放たれた矢は風を受けて悉く失速し、逆に敵勢から放たれる矢は唸りを帯びながらこちらの陣地まで降り注いだ。比較的風の影響が少ない短矢の連射で小唄が矢を射堕とそうとするが、敵の弓手の方が圧倒的に多い。
「チィッ! とんだところに布陣したものじゃ。陣を畳んで後ろに引こうにも、この根雪では馬の足が利かぬ! 小次郎に危急を知らせようにも身動きが取れぬ! 朱旗の大軍だと? 一体敵の正体は何じゃ……⁉」
完全に釘付けとされた状況にコヅベンが歯軋りするが、迫り来る大軍と吹き付ける矢の嵐を前に突然哄笑を放つと、配下達を振り返って呼びかけた。
「ぎゃはははは! ――同胞達よ、天のご機嫌はころころ変わるようじゃて! なかなか上手く事を運ばせてくれぬわ!」
配下達も自棄糞気味に高笑いを立てる。
「して首長よ、どうなさるか? 天道様の御機嫌取りでもなさいまするか!」
「そうじゃのう、此処はひとつあの連中相手に面白く弓比べでも披露して天晴れ興がらせてみようとするかのう! 同胞よ、ありったけの矢を放てィっ!」
コヅベンが命ずるが早いか、エミシ衆は放つ矢が皆風に攫われてしまうのも構わずに片っ端から矢を射かけていく。彼らの陣に対し、敵の軍勢は蹄が立てる地吹雪を浴びせかけながら矢の集中砲火を加えていき、徐々にエミシ衆の矢鳴りは弱まっていき、遂には誰一人矢を射かける者がいなくなった。
「ひっく。……う、うああ……!」
時折足を止めて涙を拭いながら、小唄が血塗れのコヅベンを引き摺り傾斜を登っていく。
エミシ衆は皆討果てた。残るは瀕死のコヅベンと小唄の二人のみであった。
「……ぐす。……うう、ひっく」
雑木林の木々の間に固く凝り積もった根雪の上に、血刷毛を引くようにべっとりと血糊を引き摺りながら息を凍らせて咽び泣く小唄に、コヅベンが血反吐に咽ながら彼女の袖を引いた。
「……小唄よ、もう此処で良いぞ。お前だけでも良う生き残ってくれた」
今にも潰えそうにか細い声を絞り出すコヅベンの頭の傍に、ぺたりと小唄が座り込んだ。
「にゃあ! にゃあ!」
消え入りそうな彼の声を繋ぎ止めようと必死に彼の身体を揺する小唄の頭に手を伸ばして懐かしむようにコヅベンが笑う。
「思えば楽しかったのう。……短い間であったが、まるで童の頃に戻ったように、小次郎と遊ぶことが叶うた。あいつも、未だに童の頃と何も変わっておらなんだ。……のう、小唄よ?」
腰に差した蕨手の剣を外すと、それを小唄に手渡した。
「この剣は、エミシの誇りじゃ。我らを俘囚と呼んで貶めた輩の手土産にしてやるのは口惜しい。……これを持って、陸奥に帰れ。小唄、」
「にゃう……?」
「もう一つだけ、じゃ。……お前と、夫婦になるのが……俺の童の頃からの夢じゃった。……叶わぬまま死ぬのは、口惜しいのう……」
「あ――」
ふ、とコヅベンの腕から力が抜けて小唄の頭から零れ落ち、彼の瞳から、光が消えた。
「ああ……」
ぽろぽろと涙を零しながら、小唄は彼の亡骸の傍らで天を仰ぎ、声を放って泣き叫んだ。
「……うああああ! うわあああん!」
ぱす、とすぐ傍に矢が突き刺さった。
「うわあああん! うわあああん――!」
ひゅん、ひゅん、ぱす、ぱす、と次々と周囲に矢が生えるが、小唄は彼から受け取った剣を抱きしめたまま幼童のように泣きじゃくった。
遂に一本の矢が彼女の胸を貫くと、小唄は糸が切れたように倒れ込み、それきり動かなくなった。
やがて、赤旗を掲げた一群がぞろぞろと姿を見せると、弓を手に先頭を進んでいた騎馬の一人が、倒れ込む二人の姿を見つけ渋面を浮かべる。
「しまった! 女童を射てしもうた。気の毒な事をした」
寝覚めの悪そうな様子の武将の横で、大将格と思しき老将が呵々と笑い声を上げる。
「うひゃひゃひゃ! 気に病むことはないぞ公雅よ。どうせこの小娘も天に反旗を翻した逆賊の一人じゃて。その証拠に、先程は神風が吹き給いて、反徒共の矢を悉く跳ね返したではないか? 蒙昧な俘囚共奴、陸奥の山奥に引っ込んでおれば良いものを、人里に降りて甥なんぞに与するからこんな目に遭うのじゃ。良いか、奸賊に情けは一切無用ぞ。雑草は根こそぎ除去せねばならぬでな。うひゃひゃひゃ!」
歯茎を剥き出しにして笑う老将――平良正の檄に、配下達は鉾を掲げて応っと声を上げた。
(……おや?)
と、一瞬皆が目を離している隙に娘の亡骸が消えていることに気づいた公連が思わず兄の方を見やると、公雅は唇に指を当てて(しっ!)と聞こえぬように合図した。
そんな二人の遣り取りを露知らず、喜色満面に指揮杖を振るいながら良正が山の向こうを指し示しながら声も高らかに全軍に向かって叫んだ。
「者共よ、いよいよ念願の将門討伐じゃ! この日が再び訪れるのを夢にまで見た者は儂だけではあるまい。これまで幾度も煮え湯を飲まされた雪辱、今こそ此処で晴らすのじゃ! ――いざ進めィっ!」
「……なあ、お頭よ、ふと思ったんだけどよ」
山の反対側を目指しながら激しい向かい風の中を進む美那緒の背中に、不意にシロが問いかける。
「今ンとこ殿様達に軍配が上がってンのって風上に陣を敷いたからだよな? 勿論殿様達が強いからってのもあるぜ。でもよ、エミシの連中は北からの敵に備えて陣を張ってるんだよな? 向かい風になるぜ。もしそこに本当に敵が回り込んだら相当ヤバいんじゃねえか?」
「お前もそう思うか……?」
馬上から彼の声を背中で聞いていた美那緒が馬を進めながら首肯する。
「それと、冬の天気って変わりやすいだろ? もしさ、急に風向きが変わるなんてことになったら、今度は殿様の陣がヤバいことになるんじゃねえか?」
その問いかけにも頷きながら美那緒は再び背中を向けたまま頷いた。
「……十分にあり得ることじゃ。いずれにせよ、万が一という事もある。すぐにコヅベン殿を呼び戻し、陣の態勢を補わねばならぬ。……急ぐぞ!」
もしこの時シロが不審を抱いて頭目の馬の前に回り込み彼女の表情を伺えば、その蒼白な顔に冷汗を滲ませた様子に目を剥いたことであろう。
思えば此の度の戦の推移、余りに運に恵まれ過ぎている。それに寄り掛かり過ぎて足を掬われれば忽ち将門勢は苦境に立たされてしまうであろう。
敵の本陣を潰す前に北側から敵の増援が現れたら、或いは突然風向きが変わろうものなら最早手の打ちようがない。
事態が一変する前に一刻も早くエミシ勢を引き揚げさせねばならぬ。
そこへ、行く手に小さな人影が向かってくるのに気づいた美那緒達が足を止める。
「誰かおるぞ……?」
互いに顔を見合わせた二人が同時に胸騒ぎを覚え、急いで駆け寄ると、こちらに気づいた人影が膝を折って倒れ伏した。
「小唄⁉」
「おい、胸を射られてンぜ!」
震える小さな身体を慌てて抱き起すと、すっかり冷え切り血の気の失せた顔は涙と血糊で真っ赤に染まっていた。
「小唄、一体何があったのじゃ? コヅベン達と一緒におったのではなかったのか⁉」
「見たところ出血は少ねエし、息も乱れてねえから肺は無事だ。助かるぞ。――おい、それは⁉」
うっすらと目を開けた小唄が小さな手で大事に抱えていた剣をシロの前に指し示した。
「あ……ぐっ! けほ、けほっ!」
再び彼女の両目からぽろぽろと涙が零れ落ちる。
「――まさかっ⁉」
顔色を変えた美那緒が慌てて馬に飛び乗ると、
「小唄を頼む! 俺はエミシ衆の陣へ向かう!」
「おう、この娘は俺らに任せてくれ!」
「あ……だ……め……――!」
駄目です、行ってはいけませぬ!
そう伝えようと声を振り絞り、懸命に手を伸ばそうとする小唄の視界から、美那緒の背中はあっという間に遠ざかっていった。
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