第6章 君が行く道のながてに 2



 強い北風はやがて暴風となり、秀郷勢から雨霰のように射掛けられる矢は悉く疾風に巻き返され、勢いを失って真横に逸れるか、味方の盾に跳ね返った。

 一方の将門勢の放つ矢は追い風の勢いに乗じて弓手の劣勢にもかかわらず嵐の如き鋭利さを以って盾隊を軽々と跳び越え、その後ろに控える騎馬勢の頭上に降り注いだ。

「凄まじい空っ風じゃ! 秀郷殿、どうなさるか⁉」

 本陣にまで到達するほどの敵の矢の勢いに首を竦める為憲が悲鳴じみた声で問いかける。口を開くのも難儀するほどの強風である。

 秀郷が答えを返す前に、突如波状の暴風が一帯を一薙ぎし、風の煽りを必死に堪えていた味方の盾勢が皆堪らずに後ろに引っ繰り返った。将門勢の盾勢も同じように追い風に煽られ前のめりに倒れ込むが、盾隊を前面に揃えていた秀郷勢の方が圧倒的に足並みの乱れは大きい。

「……やむを得ぬ。全軍一町(約百九メートル)後退せよ!」

 弓手が牽制しながら秀郷勢が後退を図るが、ほぼ無防備となった盾隊の者達は格好の的となり、前線から退く前に次々と矢の餌食となっていく。獣の襲撃のように無慈悲な咢に狩られていく様に、前線の将兵達は自軍の優位も忘れ震え上がった。

「不味いぞ。兵達に動揺が広がっておる」

 思わぬ事態の流れに焦りを覚えた貞盛が背中に冷汗が滴るのを感じながら呟く。

「腰抜け共奴! 新皇軍からの帰順兵というから前陣に立たせてやったが、いざ昨日までの親分を前にしてみればこのざまか!」

 悪態づきながら為憲がじろりと秀郷を咎めるように睨みつける。この度の合戦において編成された秀郷勢四千のうち、その大半は最盛期の新皇軍八千から寝返った将兵であり、秀郷ら直下の従類は本陣を護る数百程度であった。秀郷なりの考えあっての編成であったろうが、それが裏目に出てしまったのである。

「そう睨んでくれるな。流石の俺でも、冬の天気までは読めぬよ」

 しかし当の本人は吹きすさぶ暴風も何処吹くものかという態で肩を竦めてみせる。

「とにかく、後退しながら射続けよ。いずれ必ず転機は訪れる」

「後ろは沼じゃ、いつまでも後ずさっておったら泥濘に馬の足を取られてしまうぞ⁉」

 情けない声を上げる為憲を、とうとう声を荒げて怒鳴りつけたのは、秀郷ではなく繁盛であった。

「いいから言われた通りにせい! 今下手に動いて斬り込みでも掛けられたら一大事じゃぞっ!」



「――今じゃ、打って出るぞ!」

 矢掛けを止めさせた将門が後ろに控える従類達に指示を下した。

「これより敵陣正面に斬り込みを掛ける。騎馬隊は俺の後に続け!」

 長鉾を扱きながら将門が騎馬勢三十騎の先頭についた。

「主様」

 美那緒の呼びかけに、将門は力強く頷いた。

「ご武運を」

「すぐ戻る。此処で待っておれ」

 美那緒が頷き返すのを見届けた将門が、屹と敵陣を睨みつけると、手綱を片手に握り締めながら号令を発した。

「突撃にィ――掛かれっ!」



 突然敵の矢が止み、恐る恐る顔を上げた前陣の将兵らは恐るべき鬨の声が敵陣から放たれたのを聞いて飛び上がる程仰天した。

 見れば、粉雪混じる暴風を帆に受ける勢いでこちらに猛進してくるのは敵の大将将門ではないか!

 枯れ木の枝々を荒れ狂う風に虎落の笛の音を轟かせ、それに呼応するかのように吠え猛ける様子はまるで怒り狂う白虎であった。

 恐怖に駆られ立ち竦む弓手を次々と蹄で蹴り倒し、慌てふためきながらも応戦を試みる数百の騎馬勢を片っ端から薙ぎ倒し、猶も陣中奥深くへ斬り込もうとする将門騎馬隊を目の当たりにした秀郷は「おお……」と思わず声を上げた。その薄ら笑いも何処か引き攣っているように見受けられた。

「……成程、坂東が呑まれるわけじゃ! この男一人に中央が手を焼くのも道理じゃ!」

この斬り込みを受け、完全に恐慌を来した前陣の将兵二千九百はたちまち泡を食って遁走し、秀郷勢四千はあっという間に瓦解した。後に残されたのは八十を超える前陣騎馬の屍と、本陣を護衛する秀郷勢精鋭三百のみであった。

「――よし。引き揚げるぞ!」

 丸裸となった敵本陣を前にしながらも、敵精鋭が一糸乱れぬ応戦の構えを取るのを見て油断ならぬ相手と判断した将門は躊躇なく配下達を退かせたのである。



「上出来じゃ、ようやった。この調子で敵を沼地まで追い詰め、身動きできなくなったところを討ち取るぞ!」

 部下達を労いながら、勝機の到来を確信した将門の言葉に一気に将兵達は沸き返った。

「主様、おかえりなさいませ!」

 主の元へ駆け寄る美那緒に、将門は笑顔を向けた。

「美那緒よ、いよいよ勝利は目前じゃ! これよりエミシ衆を呼び戻し最後の総攻撃を掛けるぞ。済まぬが美那緒よ、そなたとシロにコヅベンへの伝令を頼みたいのだが、引き受けてくれぬか?」

「勿論でございます! シロよ?」

「あいよ!」

 美那緒の長鉾を担いだシロがヨイコラセと切り株から腰を上げる。

「では、行ってまいりまする!」

「頼んだぞ。くれぐれも用心せよ!」

 一礼し馬を走らせる美那緒、その後を小走りに付いて行くシロを見送りながら、将門は寂しそうに笑った。


「――さらばじゃ、美那緒よ。そなた達は生き延びよ」


 皆が無言でその背中を見送る中、ふと思い出したように真樹が呟いた。

「……そういえば、あの御方の名を最後まで聞かず仕舞いでしたな」

 真樹の言葉に、将門は首を振る。

「あれは美那緒じゃ。他の誰でもない、俺の愛した妻じゃ」

 既にコヅベンと小唄には、美那緒達が到着したら速やかに敵の手の届かぬ場所まで逃れさせるよう含めてある。

(今まで良く共に歩んでくれた。嬉しかったぞ。……だからそなたは生きよ!)

 胸中で二人の無事を祈りながら、将門は改めて戦友達を見渡した。

「さあ、ここからが真の正念場じゃ! 残った敵は存外に手強いぞ。皆精々奮闘せよ! 最後まで我らの坂東を護り抜けっ‼」

 主の檄に、配下達は拳を振り上げて高らかに声を上げるのであった。



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