第5章 秀郷奇襲 7



 同月十三日、夜。猿島島郡広江付近。


 朔日の合戦から落ち延び、崩れかけた廃寺に潜んでいた将門勢将兵達の目からも、この場所から菅生沼を挟んで南に程近い石井営所付近が夜空を煌々と赤く染めて焼かれていく様子がはっきりと見て取ることができた。

 この数日の間に鎌輪宿はじめ豊田郡の主だった将門本拠地や従類の家屋が次々と焼き打ちに遭い、遂には先日将平ら留守隊を残し出立したばかりの石井営所が焼かれている様を目の当たりにした者達は悔し泣きに泣き崩れ、市街地に家族を残してきた者達は不安の余り只々途方に暮れ立ち尽くすばかりであった。

「将平よ……!」

 恐らくあの炎の中に在るであろう弟の名を呟きながら、将門もまた真樹らと共に為す術のない現状に膝の拳を握り締めるばかりであった。

 そんな主人達の様子を見つめながら、美那緒はすっかり空席ばかりとなった座の面々を再び奮い立たせようと試みる。

「……主様、まだ起死回生の機会が失われたわけではございませぬ。清音は今も諸国の弟君らや玄明殿、それに興世王殿や好立殿に参集を呼びかけておりまする。こうしている間にもきっと新皇軍八千が再び豊田を目指し進軍しているに違いありませぬぞ!」


 一方、シロは赤く染まる南の夜空を兵達と共に見上げながら慟哭に咽んでいた。

「秋保、秋保……っ!」

 泣き叫びながら駆け出そうとするシロをコヅベンが慌てて取り押さえる。

「これ、シロとやら。早まってはならぬぞ! おぬし一人敵の只中に飛び込んでいったところで何ができるか? それに、もう間に合わぬ。あの有様では営所一帯は火の海じゃ!」

「離してくれよォっ! 秋保が待ってんだ、ずっと待ってるって言ってたんだよっ!」

 それを聞いたコヅベンがパっと手を離し、勢い余ったシロがつんのめって前のめりに地面に転がった。

「なんじゃ、おぬしら好き合うておったか。俺が遂高殿むすめおやであったらそれ聞いてぶん殴っておったわ!」

 顔を拭いながら身を起こすシロの背中にコヅベンが投げかける。

「その悪い虫が夏でもないのに娘の為に自ずから火の中に飛び込もうとしておったらもう一発ぶん殴ってやるところじゃ!」

 コヅベンの言葉に、シロは幾度も地面に拳をぶつけながら声を枯らして泣き崩れた。



 同じ頃、豊田郡石井営所。


――爰に貞盛、事を左右に行ひ、計を東西に廻らして、且つ新皇の妙屋をより始めて、悉く与力の辺の家を焼き掃ふ。火の煙昇りて天に余り有り。人の宅は尽きて地に主なし。


 喧騒と怒号、炎に家屋の爆ぜる音が闇夜に響き渡る中、石井営所が焼け落ちていく様を、秀郷ら四人は馬に乗ったまま照り返す炎にそれぞれの表情を浮かべ見届けていた。

「いよいよ此処まで来たか! 川口村の戦では未だ敵の増援と反撃に気が気でなかったが、此処を落としてみて改めて勝利は目前であるとの実感を得たぞ!」

 拳を掌に打ち付けながら為憲が笑みを漏らす。その一方で、貞盛が未だ解せぬ様子で隣にいる秀郷に尋ねた。。

「しかし随分と遠回りをしたものじゃ。最初からこの石井営所を焼き打ちにしておれば良いものを、なぜわざわざ遠くの小さな屯所から落としていったのか?」

 問われたいつもの薄ら笑いの顔が炎に陰影を際立たせられまるで地獄の獄卒の嗤いに見える。

「謂わば包囲網じゃ。最初から中心を落とすと魚はどんどん外側へ逃げようとする。終いには網の外へ逃げ出してしまって折角の魚を捕まえ損ねてしまう。それに、これは無益な巻き添えを避けるためでもあるし、今後の始末を円滑に進めるためでもあるのじゃ。見よ」

 と、秀郷が指し示す先に目を遣ると、島広山の麓から中腹に掛けてぽつぽつと戦火から逃れた住民達の者と思しき日の灯が燈されているのが見えた。

「この二週間ばかり将門捜索に時間を掛けてきたが、そのうち徐々に、徐々にその本拠地に戦火の手が迫ってくると身の危険を感じた民らは、ああやって山にでも逃れて難を逃れようとする。遠回りに攻めたのは民らの避難の為の猶予期間を設けてやったのよ。人道的措置じゃ」

「しかし、市街地も一面に火が回っておるぞ。従類の家々にまで火を点けたからには、巻き込まれた者も少なからずおるようだが?」

 繁盛が指摘するように、市街地に点在する従類の家屋から延焼した炎が隣接する家々をあっと言う間に飲み込んでしまい、そこら中から罵声や悲鳴が絶え間なく聞こえてきていた。頑として動こうとしなかった寺社の僧侶たちも泡を食って飛び出してきている。

 その様子に、秀郷は肩を竦めて答えた。

「そりゃあ、多少の犠牲は已むを得まいて、戦だもの。しかしのう、山に隠れておる民らは割と薄情なものであるぞ? きっとこの秀郷や貞盛殿の火攻めを責めるでなしに、己等を護ってくれなんだ将門とその苛政に恨みを抱くであろうて。実際、我が軍勢は鎌輪宿を落としたあたりから彼奴の伴類共が掌返して挙ってくるようになったではないか?」


――常陸国の已に損なはれぬるを恨みず、唯将門等の不治なるを嘆く。




 美那緒の願いが届いたか、夜半になって諸国に参集を呼びかけていた清音が陣を訪ねてきた。

「上手く隠れておられましたな。殿らを見つけ出すのに骨が折れましたぞ」

 聊か憔悴した様子の清音を、将門達は喜んで迎え入れたが、しかし、彼女の報告は彼らを更に絶望へ追い込むものであった。

「既に常陸、上総はじめ各国の国府並びに交通の要所は中央に呼応した者らに抑えられておりまする。将頼様や興世王様は辛くも脱出なされたものの、他の弟君らは消息が掴めませぬ。何れも殿の陣へ辿り着くは極めて困難。辿り着けたとしても兵力にはなりますまい」

「将頼が国府を追われただと⁉ 将文や正武らは消息すら判らぬか……!」

 これを聞いた将門が思わず両手で顔を覆った。

「……では諸国に散った八千の我が将兵はどうなっておるか、抵抗を試みておる者らはおらんのか?」

 最後の希望に縋るように真樹が問い詰めるも、清音は首を振った。

「武蔵国衙に立て籠もった足立郡の武夫三十数騎が凌いでおりますが、他は討たれたか、大半の者は敵に帰順を示しておりました。この下総においても、最早我らの味方はおりませぬ」

 その報告に、遂に真樹も万策尽きたように項垂れた。

「……報告は以上にございます。では」

 席を立とうとする清音を、コヅベンが呼び止める。

「待て、何処に行くつもりじゃ。一緒に戦ってはくれぬのか?」

 足を止めた清音が無表情に振り返る。

「私の主は玄明様故。あの御方も殿の為に戦っておりまする。御館様の元にて戦いたく存じます」

「良い、行かせてやれ。……ご苦労であった。玄明にも俺からの激励を伝えてくれ」

「有難う存じます。皆々様も、どうか御健闘を」

 将門の許しに片膝ついて首を垂れた清音が夜闇の中へと消えていった。

 後には静かな冬の夜の空気ばかりが残された。

「……積んだな」

 誰とも知れぬ呟きばかりが、虚しく廃寺の仏間に響いた。



 明日の決戦を前に水杯を交わし、各々が眠りについた頃。

 将門は一人居室としている方丈の一室の前でぼんやりと月を眺めていた。

「お寒くはございませぬか?」

 いつの間に傍に現れたか、綿入れを手にした美那緒が心細げに声を掛けてきた。

「寒くはないさ。……見よ、未だ石井営所が炎を上げておる。月も煙たがるほどの黒煙上げてな。こんな鼻先にまで火の粉が飛んでくるくらいであるから、暑いくらいじゃ。そなたこそ寒かろう。その綿入れは、そなたが着よ」

 将門に勧められ、隣に腰を下ろす。

「月の奇麗な夜にこうしておれば、そなたが来はせぬかと思うておった。石井営所でも、鎌輪宿でも、そなたは俺がこうして思い悩んでおるといつも心許なそうに声を掛けてくれたっけ。余計な心配をかけて済まぬといつも思うておったが、今宵ばかりは今に現れはせぬかと心待ちにしておった」

「お詫びになられることはございませぬ。妾はただ、主様の御傍にいたいだけでございまする」

 明日は最後という夜であるのに、こうして自分の前で優しく笑いかけてくれる将門が只々愛おしい。

 だが、その微笑に影が差す。

「鎌輪宿に次いで石井営所まで燃えてしもうた。こうして、二人で肩を並べて月を眺めた思い出深い場所が、皆燃えてなくなってしもうた。だが、そなたはこうして俺の隣にいてくれる」

「前にも申し上げたではございませぬか。妾は最期の時まで主様の御傍に居りとうございます」

「明日、俺はきっと死ぬのだぞ。……それでも共に居るというか?」

 将門の双眸が真剣な色を帯びて彼女を見つめる。どうかお前だけでも生き永らえてくれぬか、そう懇願を込めた眼差しにも見えた。

「貴方様は決して死にませぬ」

 その強い眼差しを真直ぐ見つめ返していた美那緒が主の頬にそっと手を伸ばした。

「我らのたった十倍の相手。百倍には及びませぬ。貴方様は今まで幾度も苦難を乗り越えて此処まで来られたのではありませぬか?」

 その手は彼の項に伸び、将門の胸に顔を埋めながら美那緒は将門を優しく抱きしめた。

「……それでも尚心許ないというのであれば、この美那緒が貴方の行く手の全てを焼き滅ぼしましょう。それが天の炎であっても地獄の業火であっても構いませぬ。貴方と共に肩を並べ、その道を行くことが出来るなら……」

 温かく鼓動を刻む将門の胸に涙を滲ませる美那緒を将門も強く抱き返した。

 ああ、この力強い胸に、逞しい両腕に抱きしめられたらと、ずっと願っていた。

 なのに、どうして幾度もその先へ進むことを躊躇ってしまったのだろう。

 自分の偽りが見破られるのを恐れてか。だが、もうそんなことなど、どうでも良い。

 たとえ偽りであっても良い。

 ただ、この愛する人と共に生きたい。生き続けたい。


 ……やがて二人は夜の帳の中で縺れるように互いの想いを重ね合い、美那緒は幾度も突き上げられる激しい昂ぶりに歯を食いしばりながら痛みを堪え、歓びに悶えながら彼の大きな背中にしがみつき自身の中にそれを受け入れた。そして疲れ切った二人は身体を寄せ合うように深い眠りへと落ちていったのだった――。



 まもなく夜が明けようとしていた。

 そして朝が訪れるとともに、天慶の乱最後の戦い、北山の合戦が幕を開けようとしていたのである。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る