第5章 秀郷奇襲 6



 川口村近辺、将門勢後陣。


 前陣の法螺の音を今か今かと待ち侘びていた将門本陣中では、前陣が向かった小山から俄かに合戦の喧騒が聞こえてきたことに少なからぬ驚愕と困惑が広がっていた。

「おい、誰か法螺の合図を聞いた者はおるか?」

 将門に問い質されるも皆首を傾げるばかり。

「遭遇戦という事も考えられまする。相手は四千を超える大軍故、合図を送る暇もない程反転を急がねばならなったのやも」

 白氏の推測に、ふむ、と顎を撫でる真樹であったが、すぐに首を振った。

「一理あるが、その可能性は低かろう。それこそ、法螺を鳴らす余裕もない程突然敵の大軍に出くわしたのであれば、いくら経明殿のような武勇すぐれたる武将や久慈・那珂郡の強兵が揃っていたとてとても凌ぎきれまい。今頃とっくに決着がついておるはずじゃ」

「いずれにしても前陣の務めは陽動じゃ。敵に見つかってもらわねば始まらぬ。その上で何らかの不測の事態が起こったにせよ、我らが浮足立って此処を離れては元も子もあるまい」

 将門の判断によりしばらく様子を見ることとなったのであるが、いくらも経たぬうちにヒュウウン、と鏑矢の笛と思しき音が山の向こうから微かに聞こえたのを機に合戦の気配は鳴りを潜め、時折散発的な鬨の声が聞こえるのみとなった。

「おい、今の笛の音は何じゃ? ……まさか」

 真樹が眉を顰めて将門の方を伺う。

「わからぬ。しかし法螺で合図をせよと伝えておる。少なくとも、我らの思惑通りに事は運んでおらぬようじゃ」

 将門もまた厳しい面持ちで前陣の向かった三毳山を睨みつける。

 と、その視線の先から、前陣の一人と思しき騎馬が単騎こちらに息せき切って駆けつけてくるのが見えた。

 近づいてくるにつれ、その騎馬が身体中に矢傷を負っているのが判り本陣の者が皆騒然となる。

「おい、その有様はどうした? 玄茂殿ら他の前陣の兵達は何処に居るか!」

「申し上げます!」

 将門の前で転げ落ちるように馬から降りて平伏した兵士が重傷の身体に鞭打つように慌ただしく口を開く。

「三毳山にて敵首魁を確認し接敵した前陣、秀郷の奸計により突如四方から敵の挟撃を受け全滅いたし候!」

「なんじゃとっ⁉」

 それを聞いた真樹が目を剥いて声を上げ、全員が腰を浮かしかけた。

「敵本陣へ突撃を図った玄経様、経明様は共に討死、玄茂様、遂高様も撤退中に敵の強襲を受け安否不明に候! 殊に遂高様はかなりの深手を負っておられまする!」

「……そんな、遂高の旦那が……?」

 頭目の馬の後ろに引っ付いていたシロもまた、蒼白な顔で信じられぬように呟いた。

「経明……」

 古い友を悼むように将門はその名を呼んで拳を握り締め顔を伏せる。

 重鎮四名が戦死または消息不明、特に古参の一人である経明の討死は全将兵に激しい動揺をもたらした。

「……では、先程の鏑矢は経明であったか」

「見届けてはおりませぬが、恐らくは」

 皆が沈痛な面持ちに打ち沈む中、武将は主君に縋りつく勢いで言葉を続けた。

「殿、遂高様からの伝令にございまする。陽動失敗、後陣は一刻も早く撤退されたし、とのこと。早くお逃げくだされ!」

「……いや、もう遅い」

 主の代わりに答えたのは美那緒であった。

「お頭?」

 戦評議の場では滅多に口を挟まぬ頭目を怪訝な顔でシロが見上げる。

 風の音に耳を澄ますかのようにじっと三毳山を見つめていた美那緒が告げる。

「未だ姿は見えぬが蹄の音がはっきり聞き取れる。前陣の生き残りではない。千は超える。早いぞ、竜巻から走って逃げるようなものじゃ。――じきすぐに追いつかれるぞ!」



 一方の秀郷勢。


 念のため、三毳山に進入した将門勢が只今今殲滅した四百の他にいないか山中を隈なく探させた後、秀郷は全軍に引き続き進軍を命じたのである。

「戦果は得たのじゃ。無理に今すぐ行軍する必要はないのではないか?」

 為憲の指摘に、秀郷は意地の悪い笑みを向ける。

「なんじゃお若いの。もう息が上がったか?」

「なにをっ!」

「待たれよ、いちいちこの爺に疳の虫を鳴かせていてはキリがないぞ」

 ムキになる為憲を繁盛が慌てて宥めに掛かる。その様子を面白そうに眺めていた秀郷が足元に転がる将門兵の骸を顎でしゃくる。

「それ、良く見てみい。敵は随分と軽装で来ておる。四千対四百、十倍の数を相手にじゃ。しかし強襲とはいえ無謀な斬り込みではあるまい。農繁期前に大軍を故郷に帰してやったところからも察せられようが、将門はみだりに兵を粗末に扱う男ではない。この兵達は恐らく陽動目的に放たれた別動隊じゃ。本陣は必ず何処か近くに布陣しておる」

「では、そこに将門がいるということか!」

 意気込んで尋ねる貞盛に秀郷はニヤリと笑う。

「貴公らも一応将門と剣を交えたというではないか。その話を聞くに、将門と言う男は戦において常に先陣を切って戦いに挑み配下らを鼓舞し勝ちを得てきたのであろう? ならば、この別動隊の戦果なり偵察の報告なりを本拠地の営所で火に当たりながら頷くばかりの腰の重たい阿呆ではあるまいて。彼奴は必ず何処かで我らが誘いに乗りうかうかと姿を見せるところを待ち構えておるはずじゃ。良かろうて、この者らがしくじったと知って虎の住処に引き返してしまう前に誘いに乗ってやろうではないか」



 将門が付近に潜んでいるという秀郷の推測は、俄然将兵達の士気を上げた。

 勢いに乗って山を下り川口村近郊に陣を進めた秀郷勢であったが、その猛々しい足取りがそこでハタと止まった。

「おい、どうしたのじゃ?」

 急に軍を停止させ、何やら考え込んでいた秀郷を怪訝そうに見つめる貞盛に聞こえるか否かという声で、彼は小さく呟いた。

「……成程、そういう手であったか」

「何?」

 聞き返そうとする貞盛達を余所に秀郷は声を張り上げて配下に指示を下した。

「盾隊構え! 総員、周囲に備えィっ!」


「放てェっ!」

 秀郷が声を発した直後、周囲の四方八方至る所から矢掛けの合図が示された。

 一点集中の攻撃はないものの、灌木、堰溝、枯れた葦の茂みなど、人馬が隠れられそうな所なら処構わず射掛けてくるので容易に射返すこともできない。

「山で足止めを食い過ぎたわ。逃げようとすれば追いかけるのは容易いが、こう隠れられては探し出すにも骨が折れる。うっかり手を伸ばし過ぎたり、迂闊に各個分散しようものなら貴公らの負け戦の二の舞じゃ。これは日暮れまでの長期戦じゃのう」

 盾隊の影に隠れながら他人事のように苦笑いを浮かべる秀郷に顔をする貞盛らが苦々しい思いで問い詰める。

「で、日暮れになったら追うのか? 逃げれば追いつけると言ったな⁉」

 青筋浮かべる為憲に秀郷は肩を竦める。

「今すぐ逃げてくれればな。だが人は多少不眠不休でもこき使えるが、馬が持たぬ。先程の合戦に加え山の上り下りで相当疲れさせてしまっておるが、敵は十分人馬を温存しておっただろう。更にこの長期戦じゃ。無理をさせては将門の襟首を掴む前に馬が皆使い物にならなくなるぞ」

「ええい、くそっ! こうなっては虱潰しじゃ。者共、片っ端から矢を射かけて炙り出せ!」



 物語の最初にも触れたが、当時の坂東平野は馬の背丈も十分覆い隠せる程の草丈の葦原で覆われており、冬枯れの湿地帯でも身を潜ませるには十分な遮蔽とすることが出来たのである。

「ああ、確かに聞き覚えのある声が混じっておるわ。貞盛と繁盛。それに為憲もおるようじゃ。……はは、あれ程草の根分けて探し回っていた相手が目の前に居るというのに、今は我らが草の根の下に身を隠す羽目になろうとはな」

 苦笑いしながらも警戒を怠らぬ将門の傍で、美那緒も注意深く辺りを伺いながら頷く。

「日没になれば隙を伺って各自撤退はできるでしょうが石井営所には戻れませぬな。寝ながら夜討を待っているようなものにございますれば」

 散開した仲間達には落ち合う場所は予め含んである。

(秋保……!)

 一緒に身を潜めるシロもまた、石井営所で自分の帰りを待つ人を想い堪らない気持ちになりながら矢を番えるのであった。


「……矢張り前の戦で学んだな。なかなか兵を繰り出して来ぬ」

 将門達からやや離れた灌木の影に身を隠しながら矢を射る真樹と白氏らが舌打ちを漏らした。

「何とか当初の手筈通りに事を運ぶことが出来たものの、此処でいくらかでも敵兵力を削っておかなければ経明殿らの犠牲が無駄になってしまう!」

 白氏も自ずから弓を持ち矢の残存数を気にしながら敵に向かって射掛けているが、なかなか敵陣は隙を見せてくれぬ。

「いずれ陽が沈むまでの辛抱じゃ。敵の疲れた馬ではこれ以上の追撃は不可能、皆よ、もうひと踏ん張りぞ!」

 ヒュン、ヒュン、と時折すぐ傍を掠める矢に首を竦めながら、真樹は将門の潜んでいる方を見つめ、自分に言い聞かせるように呟いた。

 その足元に、ドサリと白氏が倒れ込んだ。

「白氏⁉」

「ヒュー……、ヒュー……」

「白氏様! 陣頭様っ!」

 倒れた彼の元に配下達が慌てて駆け寄った。

「おい、しっかりせんか!」

「ヒュー……、ヒュー……。……ぐぽ」

 血相を変え彼を抱き起した真樹の腕の中で、喉を射貫かれた白氏は目を大きく見開いたまま息絶えた。



 ――昨日の雄は今日の雌なり。故に常陸の国の軍は晒り咲ひて宿に留まりぬ。下総国の兵は忿り愧ぢて早く去りぬ。


 この川口村の合戦において、将門ら新皇軍は緒戦の失態で全兵力の半数を失い、多数の腹心が討死するなど多くの損失を負って敗退したのである。



 日没を迎えると将門勢は闇に紛れて何処へと退き、人馬の疲弊著しい秀郷軍はこれを深追いすることなく川口村に宿営することとした。


「日暮れまで掛かった割には我が軍の損失は思いの外少ないな」

 本陣幕営にて部下からの報告を受けた貞盛が意外そうに腕を組んだ。

 将兵達は戦の戦勝祝いに村から徴発した食料や酒に酔い潰れ、何処かから連れ込んだ女達と戯れ馬鹿騒ぎに興じているが、彼ら三人は未だ戦いの余韻冷めやらずとても酒を口にする気になれずにいた。

 そんな若者達を尻目に甲冑のままチビチビと旨そうに酒を啜る秀郷がフンと鼻を鳴らした。

「損失が少ないのは敵も同じじゃ。半分は潰したが残り半分の将門本陣は我らの損失と割合はそう変わらぬ。戦とは波のようなものじゃ。押しては退いての鬩ぎ合いで、互いに弱いところを探り合うて其処を攻め、或いは退いて攻め返す。あの数で良く互角に渡り合うたものじゃ。敵もなかなかに知略に長けておる」

 ああ、また酒が入った年寄りの長話が始まるのかと耳を塞ぎたくなる貞盛であったが、そこへ横から為憲が口を挟んだ。

「それより良いのか、兵共をあんな遊ばせておいて。将門は今頃石井営所に帰営しておる頃だぞ? 夜襲を仕掛ければ一夜でケリがつくだろうに」

「兵達の事は知らぬぞ? 勝手に酒盛りしておるだけであろう。女共だって掻っ攫ってきたわけでもあるまいし、村には徴発した分の対価も払っておる。それに、将門は真っ直ぐ営所に帰っておらぬよ。そこまであの男も愚かではあるまい。……まあ、見ておれ」

 三人を酔眼で見回しながら秀郷は思わせぶりにほくそ笑んだ。



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