第5章 秀郷奇襲 5



 山上から三千余りの騎馬軍に対し、こちらは不利な山下に布陣した二百足らず。既に勝負は決したようなものであった。

「……遂高殿、玄茂殿。ここは退こう。退いてくれ」

 麓で次々と討ち果ててゆく百足の将兵達を見下ろしながら経明が二人に呼び掛けた。

 しかし、四方を大軍に囲い込まれ、既に退くにも退けぬ状況である。

 その言葉に不穏を感じた遂高が探るような眼差しを経明に向ける。

「貴公、どうするつもりじゃ……?」

 振り返った経明の笑顔を、遂高は生涯忘れぬであろう。

「……萩野殿か?」

 彼の覚悟を察した遂高が静かに問うと、何とも言えぬ様子で経明は首を振った。

「そうではない。……だが、それを思うと、不思議と此処で死ぬのが惜しいとは思わぬ。遂高殿よ、急ぎ火急を殿の元に伝えてくれ。――いざ、さらば!」

「経――!」

 玄茂が呼び止める声を背中に受けながら、経明とその配下達はバッと八方に散り去り、三千余りの敵の怒号を掻き消す程の虎の咆哮を響かせながら挑みかかっていった。


「経明今生最後の弓掛りじゃ、存分に食らえっ!」

 その中で山裾を野鹿のように駆け下りながら弓を番えた経明が立ちはだかる敵騎馬に向け一度に三本の弓を次々と連射していく。

三四さんし、十二ィ! 三五さんご、十五ォ! 三六さぶろく、十八ィ! ――三七さんしち、二十一に加えてもう一ィ! 残り矢は二本! ――次は誰かっ!」

 放つ矢を悉く敵に命中させ、猶も続々と自分に挑みかかる敵の手勢を威嚇するように凄みを利かせた経明は、すぐ目と鼻の先まで肉薄した敵本陣の中に秀郷の姿を捉えた。

「――次は貴様じゃ秀郷奴エェっ‼」

 迅速の速掛けで放たれた必中の矢が老将の額を射貫く刹那、パアァンっと甲高い音を立てて粉々に矢が砕け散った。

「な――」

 絶句する経明に、指揮杖で矢を弾き飛ばした秀郷が愉快そうに笑い声を上げた。

「流石は新皇軍の弓取りじゃ。実に天晴な戦い振りであった。貴殿、名は何というか!」

 自分が今目の当たりにしたことが信じられずに呆然自失となっていた経明がハッとして秀郷を睨みつける。

「……良く聞けよ中央の犬共。我こそ新皇陛下が一の従類、上野国守にして常羽御厩別当多治経明なり。老いぼれよ、先に冥途で待っておるぞ!」

「経明殿か。確かに覚えたぞ。――放て!」

 秀郷の号令と共に幾本もの矢が経明に放たれた。

「ぐあっ!」

 断末魔の呻き声を堪えながら、辛うじて馬上に身を保った経明が最後の矢を天を仰いで番えた。

「この矢は……鏑矢。どうか、殿の……身元へ……届け――!」



 ヒュウウウウ、と麓から放たれたと思しき鏑矢の音に、遂高達は経明の最期を悟ったのである。

「済まぬ、経明殿よ。……最期を見届けてやれなくて済まぬ!」

 涙を堪えながら敵の包囲を搔い潜りながら馬を進める玄茂勢の前方から、フラフラと血塗れの武将が歩いてきた。

「玄経殿⁉ 生きておられたか!」

 駆け寄る二人の前で力尽き膝から崩れ落ちる玄経を抱き起すと、彼は苦痛に息を荒げながら途切れ途切れに言葉を紡いだ。

「玄茂殿よ……この、先は……行かぬが、良いぞ。……既に……敵勢に塞がれて……おる。何処か……別の、道を……迂回、せよ……」

「そうか。良く伝えてくれた。一緒に山を降りよう。何とか無事に切り抜けて殿の本陣に合流するのじゃ!」

 力強く励まそうとする玄茂の腕の中で、玄経は小さく首を振る。

「将門様……に、……顔向け……できぬ」

 そう言いながら、ポタポタと涙を流し嗚咽を漏らすのであった。

「俺は、……自分が許せぬ。目先の……憎しみに我を……忘れ、あろうことか……まんまと彼奴の策略に……陥って、しもうた。将門様の……将兵を、損なわせて……しもうた……!」

 終いにはオイオイと声を上げて号泣する玄経に、遂高も慰めの言葉を掛ける。

「貴公も人間じゃ。仕方のないことじゃて、忘れよ。……それよりも今を生き延び、再び態勢を整え雪辱を晴らすことを考えねばならぬぞ。貴殿も生き延びて力を貸すのじゃ!」

「ところ……で、経明殿は、……どうなされた……のじゃ……?」

 その問いかけに、思わず二人は押し黙って俯いた。

「……まさか、死ん……だのか……?」

 悔恨の色が彼の顔中に広がった。

「お、……俺のせい……で……!」

 震える手で矢筒に手を伸ばすと、「あ!」と二人が気づき止めに入るも間に合わず、玄経は己の脇腹に毒矢を突き立てた。

 忽ちのうちに玄経は顔を紫色に強張らせ、やがて血泡を吹き出すと、それきり動かなくなった。

「ぎゃあ!」

 突然後方にいた兵の一人が悲鳴を上げ、すぐさま二人が立ち上がると今度は前方の兵士達も矢に討たれバタバタと倒れ伏した。

 間を置かず周囲から敵の鬨の声が上げられる。

「くそっ! また囲まれたか――がっ!」

「遂高殿⁉」

 馬に乗ろうとした遂高の右胸を矢が貫き、苦痛に崩れ落ちる彼を血相を変えた玄茂が抱き止めた。


――秀郷、素より古き計有りて、案の如く玄茂の陣を討ち靡かす。其の副将軍及び夫兵等、三兵の手を迷ひて、四方の野に散りぬ。


「……誰か、誰でも良い。一刻も早く此処から落ち延び、殿達に撤退するよう伝えてくれ――!」

 たちまち雪崩打って斬り掛かってくる猛烈な敵の勢いに、苦悶の中絞り出した遂高の叫び声は掻き消されていった。



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