第5章 秀郷奇襲 4
翌日如月朔日早朝。石井営所門前。
「シロ、お前は行かぬのか?」
甲冑に兵粮を襷掛けにした美那緒が、揉烏帽子の鉢巻きを締め直しながら傍らで彼女の長鉾を持つシロに問いかける。
「行くって、戦の他にどこに行けってンだよ?」
「フジマルもダンシも皆、俺に愛想を尽かして出て行ってしまったのだろう? お前は皆と一緒に行かなくて良いのか?」
「へっ、流石に傷つくぜ?」
仏頂面をするシロに美那緒は真剣な眼差しを浮かべる。
「冗談で言っているのではないぞ? 生きては戻れぬかもしれぬ。お前は……それでも良いのか?」
頭目の見透かすような視線から目を逸らしながら、「俺の事じゃねえよ」とシロははぐらかすようにそっぽを向いた。
「皆、お頭に見切りをつけて出ていったわけじゃねえ。そんな言い草は流石にあんまりだぜ?」
「……そうか。悪かったな」
苦笑いしながら、美那緒は弓を肩に掛けた。
シロの視線の先に、ちらりと陣頭に立つ遂高の姿が過った。
昨夜、シロと秋保は初めて契りを結んだ。
幾度も互いの想いを交わし合い、微睡の内にいつしか白んでいく夜明けの気配を感じ床を立とうとするシロの銀色の後ろ髪に指を絡ませ、再び引き留める秋保が涙ながらに彼に懇願するのだった。
――必ず、生きて帰ってくださいまし。父を、御前様を、何卒御護りくださいませ!
――秋保は、お帰りをお待ちしております。いつまでも、いつまでも、この石井の営所で貴方様のお帰りをお待ちしておりまする!
(御護りも何も、馬盗崩れの
少しばかり男の顔立ちになったシロが出立の法螺の音に馬を進める頭目の後ろを慌てて追いかけていった。
同日正午。
将門勢一千は、一旦結城郡川口村付近に布陣し、敵の動向を伺いつつ迎撃の態勢を整えることとした。
筑波山脈を東に仰ぐこの一帯は、鬼怒川、小貝川の上流付近に位置し、比較的標高差の少ない平野となっているが、所々に小山や丘陵が散らばっており、針葉樹の密生する森林地帯は平場とはいえ決して見通しの利く立地ではないため、奇襲を仕掛けるに適した場所であった。
「斥候の報告によれば、秀郷勢は既に国境を越え、猿島郡付近を通過しこちらに向かっているとのことでござる。未だ我らの動向には気づいていない様子。如何なされるか?」
玄茂の報告を受けた将門が、ふむ、と腕を組み問い質す。
「敵勢は四千の態勢を取ったままか?」
「は、兵の報告では国境を超えた時点では陣形を組み直した様子は見られぬとのことにございまする」
「そうか……」
しばし考え込んだ将門が顔を上げて遂高を見やる。
「いずれ正面からこの四千に挑んでは太刀打ちできぬ。陣を二手に分け挟撃を図るが良いと思うが、どうじゃ?」
「成程、
鉄床戦法とは、一方の陣が敵を引き付けている間に、もう一方の陣が奇襲を掛けるという古典的な戦術であるが、近代戦においても重大局面にて応用され戦果を挙げている有効な手段である。
この戦術では相互の陣の連携と素早い機動力が物を言うが、騎馬に特化した少数精鋭である将門勢にはまさにうってつけと言え、加えて丘陵や灌木が点在し迷路のようになっている付近一帯においてこの手段を用いた奇襲戦は非常に有効なものになると想定できる。
「さて、問題はどう陣を分けるかじゃが、この度の作戦においては特に足の速い者らを選抜し前陣を組まねばならぬ。陣頭はそなたと経明が務めよ」
「はっ!」
「ならば当然我らも前陣に加えられよ!」
そこへずいと身を乗り出してきたのは北常陸の百足を束ねる玄経であった。
「俊足が必須となれば我らを置いて他にはおるまいて。我らは未だ秀郷奴の憎らしい薄ら笑いを夢にまで見て魘されるほどじゃ。この手で早く討ち取り寝覚めの悪さを打ち払うてやりたくて堪らぬ。是非我ら百足を前陣に加えられたし!」
名を口にしただけでも積年の恨みがこみ上げてくるのであろう。青筋を顔中に浮かべる玄経の懇願を将門は頷き承諾した。
「良かろう。但し、くれぐれも血気に逸るなよ」
最後に、前陣の指揮官として玄茂を指名した。
「遂高、経明ら下総勢と、玄経ら百足双方を束ね得るに最適任なのは貴公を置いて他におらぬだろう。早速、前陣を率いて敵陣の動向を探り、上手く誘い込むことが成れば法螺を鳴らして報せい。我ら後陣は頃合を図って北側面より奇襲を掛ける。へまを踏んで我らの矢を食らうなよ!」
「はっ! くれぐれも留意致しまする!」
主君へ笑顔を向けながら、遂高、玄茂らは手勢を率いて国境を目指し本陣を出立していった。
……これが、将門と遂高達の永の別れとなったのである。
昼過ぎ、移動の傍ら馬上で昼餉を済ませた前陣は、付近で一番見晴らしが利く
平野部からやや逸れたこの付近は小高い丘に囲まれ、鬱蒼とした針葉樹林が未だ冬の気色を残してもなお青々と生い茂り、敵味方何れも身を隠すには絶好の場所となっていた。
「ふむ。ここなら秀郷の奴に気づかれることなく存分に索敵が適うのう」
満足そうに不敵な笑みを浮かべる玄経の傍らに馬を並べた経明が、ふと百足の首長に問いかける。
「以前から気になっていたが、そなたの声音は坂東の其れではないな。生まれは近江か?」
「おうよ。これでも近江百足の若衆として静かな生活を営んでいたものじゃ。あの秀郷が来るまではな」
「余程怨みが深いと見えるが……いや、不躾で済まぬ」
「はは、気になさるな。時に、貴公は愛する者がおるか?」
「ああ、おる。……いや、居ったさ。戦で失ってしもうたが」
「ならば話は早い。俺にも近江に妻と年頃の娘がおった。皆秀郷の兵共に焼き打ちにされ殺されてしもうたがのう」
笑顔で一人語りをする玄経に、経明は痛ましそうに顔を歪める。
「首を刎ねられた上に火を掛けられた二人の焼けた首を何とか救い出し常陸まで逃げ延びたが、ようやく落ち延び二人の
「……玄経殿、もう良い。許してくれ、要らぬことを聞いてしまった」
とても聞いていられなくなった経明が声を上げる。
「ここに居る百足たちはのう、皆俺と同じように家族を失い全てを奪われ、只秀郷への憎しみ一つを抱えて生き永らえた者達ばかりじゃ。その怨敵がようやく矢の届くところに現れた。俺は将門殿に感謝してもしきれぬ。あの御方が、俺達に千載一遇の復讐の機会を与えてくれたのだからのう。あの御方の為ならば、俺達は命など惜しまぬわい!」
「違うぞ玄経殿、我が主は坂東の行く末の為に決起為されたのじゃ。復讐などの為などでは――」
経明が言い終える前に、何やら兵達が麓を指さし二人に呼び掛けているのが聞こえた。
「あれを御覧じろ、何やら煙が上がっておりますぞ!」
見れば、杉林の合間から、上空に向けてすう、と一本の煙が垂直に立ち上っているのが確認できた。薪や竈の火ではない。
「あれは――狼煙じゃ!」
遂高が声を上げる。
本邦において狼煙は古くから運用されており、特に陸奥三十八年戦争と呼ばれる蝦夷討伐では官軍の通信手段として多用されたといわれている。とはいえ、坂東においては此度の大乱以前に大規模な戦乱が発生しなかったこともあり、また将門ら新皇軍も狼煙を通信の手段として用いなかったことから、実際に目にする機会は殆どの者は初めてであったろう。若かりし頃に鎮守府将軍であった将門の父に随行し陸奥の地で度々目の当たりにした遂高はすぐにそれが只の煙ではないことに思い至ったのであった。
「あんなものを用いるのは秀郷ぐらいしかおらぬ。どういう意図か知れぬが、玄茂殿、陣を麓まで下ろしてはどうか?」
「うむ。しかし罠かもしれぬ。慎重に動くぞ」
而して三百の前陣は密かに狼煙の上がる麓のすぐ傍まで陣を寄せたのであったが、果たしてそこで目の当たりにしたのは、地面に土管を突き立てた狼煙の装置の傍で何やら険しい顔で配下らに指図する老将の姿であった。
「秀郷……っ!」
傍らでギリッ、と歯を噛み締める音が聞こえた。
「何⁉ あれが秀郷か?」
思わず声を上げそうになった経明が慌てて敵陣の周囲を見回してみる。
敵の数はざっと二百余り。四千以上の軍勢を束ねる首魁にしてはあまりに手薄と見えた。
こちらは敵陣を見下ろす形で布陣している。今山を下って奇襲を掛ければあっけなく勝負は決まるだろう。
しかし、
「……どうも臭いな。一体どこに向けて狼煙を上げておるのか?」
玄茂の呟きに遂高も首肯する。
「千載一遇の機会か、罠に誘い込まれているのか、何とも判断がつきかねる。それに我らの目的はあくまで陽動。敵の殲滅ではない。……ここは一先ず狼煙の思惑が判るまで動かぬが吉じゃ」
そう判断し玄茂が配下に待機の合図を示そうとしたところ、思わぬ事態が起こったのである。
「秀郷おおおおあああああっ‼」
突如、玄経を筆頭に北常陸勢が指揮、陣頭の指示を待たずに絶叫を上げながら一斉に矢を射かけたのであった。
「待てっ! 止めよ! まだ動いてはならぬ‼」
驚愕して玄茂達が制止しようとするが時すでに遅く、突然猛烈な矢の嵐を受けた山下の秀郷勢はたちまち大混乱に陥った。
「うわああっ、毒矢じゃ、毒矢じゃ!」
「助けてくれェ! ぎゃああっ!」
阿鼻叫喚の叫び声が足元から響き渡り、それを耳にした玄経はじめ百足の将兵達が高らかに哄笑を放った。
「ぎゃはははは! どうじゃどうじゃ、己に報いが返ってきた気分はどうじゃ! 俺の妻と娘がどれほどの苦痛の中死んでいったか、せいぜい矢毒に苦しみ悶えながら思い知るが良いて。おい、
応おおおおおおっ! と山裾に谺するほどの狂鬨の中、玄経を先頭に百足衆二百騎は雪崩の勢いで敵陣目掛け駆け下りていった。
「待てっ! これは確実に罠じゃ! 玄経殿、すぐに退き返せっ!」
経明の叫びも、既に憎しみに目の眩んだ彼の耳に届くことはなかったのである。
恐ろしい致死の毒矢が降り注ぎ、配下らがそれから逃れようと右往左往する中、駆け下りてくる百足勢を微動だにせず見上げながら厳めしく顔を強張らせていた秀郷の表情がふと解かれ、ニィ、と唇を歪めながら会心の呟きを漏らした。
「――掛かった」
それを合図のように狼煙が消され、代わりに前陣の遥か頭上左右真後ろ三方から俄かに戦太鼓が打ち鳴らされ、同時に幾千もの鬨の声が上がる。
「何ィっ⁉」
玄経が驚愕に目を剥いて振り返るが、既に手遅れであった。
玄茂らの軍勢の背後、三毳山中腹の三方から、突如猛烈な雄叫びと馬の嘶きを上げながら貞盛、繁盛、為憲率いる三千余りの騎馬勢が大挙して押し寄せてきたのである。その様は、まるで山の杉の木が人に化け雪崩のようにこちらへ崩れ落ちてくるかのようであった。
「一体、どうやって今まで隠れ潜んでおったのか?」
呆然と立ち竦む玄明の後ろで、ぎり、と奥葉を噛み締めながら悔しそうに遂高が吐き捨てる。
「成程。その為に狼煙を上げ、その為に自ら姿を晒してみせたか! 秀郷にしてやられたわ!」
当然ながら、人の目は三百六十度一度に見渡せるわけではない。俯瞰した先の狼煙に注視すればそれだけ視野も狭められる。雪山の上り下りの集団行動すらも人間の意識や集中力に少なからず影響を及ぼし得る。それを踏まえ、山の両側面に騎馬を上手く木立に化けさせ、ずっと微動だにすることなく秀郷の合図を待って不意打ちの挙に出たのであろう。いずれにせよ、余程訓練された騎馬の練度と相互の連携が取れていなければ成り立たぬ人間離れした戦法である。
「今ぞ、迎え撃て!」
不敵な笑みを湛えた秀郷の号令一下、それまで逃げ惑っていたように見えていた配下の徒兵達が一斉に打ち捨てられていた盾に飛びつき瞬く間に防御の陣形を完成させ、すかさず後ろの灌木に潜んでいた幾百もの弓隊がその陰に飛び込むと即時応射を開始した。忽ちの内に矢を受けた玄経勢が馬諸共山裾を転がり落ちていく。前後の挟撃に激しく動揺した北常陸勢二百は瞬く間に壊滅し、山裾は人馬の死骸で埋め尽くされた。
「――なあ、言うたであろう貞盛殿よ? つい目先に仇を見てしまえば、人の目とは暗うなってしまうと。御覧の通り、我らは相当手強いぞ? 敵が下手を打てば初手から崩れることとなるぞ、とな。あの時は長口舌に閉口させてしもうたようで済まんかったのう!」
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