第5章 秀郷奇襲 3



 その日の夕刻、玄経の放った密偵が石井営所に帰陣した。

 報告を受けた玄経を囲むように将門らが営所広間に顔を揃える頃には既に夜の帳が降りようとしていた。

 いよいよ明日は出陣という夜である。

「やはり秀郷らの軍勢は下野の中心街を通過し既に国境に迫っておるようじゃ。恐らく今宵は結城郡付近で幕営を張り、明日には下総に侵入を図るものと思われまする。兵の数はざっと四千と五百。当初の報告より増えておりますな」

「……見込み通りか。まったく有難くないものじゃ」

 戦における予測に楽観は御法度であるものの、これが予測通りに動いているというのは悪い方向に事が運んでいるわけであるから、皆一様に渋面を浮かべて溜息を吐く。重苦しい空気が冷たい広間に余計寒々しい。

「まあ、そんな不景気な話だけでもない。いや、この場合はとどめを差す話にもなりかねぬが、敵の本隊に誰がいたと思う? ――左様、件の貞盛兄弟じゃ」

「何だとっ⁉」

 この衝撃的な一言に将門のみならず一座の者が揃って驚愕の声を上げた。

「あ奴、都に落ち延びたのではなかったのか⁉」

「何でよりによってこんな場面で顔を出してくるか……!」

「ああ、やはりとどめの一言になってしもうたか。ついでに、常陸の長官の倅もおったそうだが……」

 それまで重い沈黙に満たされていた広間の一室が、俄かに憤激と罵声と歯軋りで満たされ、玄経の続きの声も掻き消される。無理もあるまい。これまで散々探し回っても尚行方を晦ましたまま消息を掴めなかった仇敵が、最悪の時機にようやく姿を見せたのであるから。

「……しかし、どうしても解せぬ。妻君達の陸奥への逃避を図ってまで単身上洛を企てた者が、なぜ間を置かずに再び坂東に舞い戻ってきたのか。それも、下野が戦禍に見舞われても微動だにしなかった秀郷と共に軍を率いて現れるなど、一体どんなはかりごとを用いたのか……彼奴にそんな暇などなかったはずじゃ」

「なに、知れたこと。最初から貞盛は上洛などしておらなかったのじゃ」

 頭を抱える玄茂の自問に答えるように上座から呟きが聞こえた。

 皆が言葉を飲み込みそちらを注視すると、こめかみに手を当てた将門が苦悶も露わな顔を蒼白にして双肩を震わせているのであった。

「ようやく符合したぞ。……俺の不覚じゃ。一生の不覚じゃ。なぜあそこで将頼らを、八千の兵を手放してしまったのか!」

 今まで見たことのない主君の静かな狼狽振りに、さあ、と背筋が凍るのを覚える腹心達であったが、その中で「あ!」と声を上げたのは美那緒であった。

「あのアバズレ、謀りおったか! いけ好かぬ女じゃと思うておったが、とんだ女狐じゃ!」

 突如普段の彼女からは想像もつかぬ汚い言葉を憎々し気に吐き出す様子に一同ギョッとするが、続いて遂高もまた「……そうか、合点がいったわ!」と拳を握り締める。

「貞盛奴、最初から上洛などしておらなかったのじゃ。恐らく、しばらく坂東各地を逃れ回った末に為憲らと合流し、秀郷の元に転がり込んだのであろう。貞盛か秀郷か、どちらの発案か知らぬが、細君を常陸に潜ませ久慈・那珂郡に自分が隠れ潜んでおると噂を流させ、敢えて我らに捕らえさせたのじゃ。辱めを受けた哀れな女の言葉であれば我らも疑わぬという狙いであったろう。実際に我らもまんまと細君の言を信じ既に貞盛は坂東に居らぬと疑わなんだ。その内に彼奴らは秀郷と共に戦支度を進め、我らが油断しきったところに奇襲をかける謀であったに違いない」

「だとしたら、先導していた翁達はもう生きておらぬだろうな」

 ぎり、と美那緒が唇を噛み締める。

 ううむ、と皆が腕を組んで考え込む。なんと周到に仕組んだものか。初めて藤原秀郷という老将の老獪さに皆舌を巻く思いであった。これが噂に語られる百足退治、俵藤太の計略か!

 底知れぬ相手に挑むとあって怖気づく様子も見える中、不意に一座の中から声が上がる。

「……しかし、だからといって現状は変わらぬでしょう。敵勢がべらぼうに増えたというのならまだしも、状況は良くも悪くもなっておらぬ。只今の遂高殿の推察の通り、我らはまんまと策略に嵌まり、これ以上悪くなりようがないのであれば、良い方に転ばねば。ほれ、念願の貞盛が自分から出向いてくれたのじゃ。皆よ、戦のし甲斐が涌いて来たであろう!」

 経明が飄々とした口振りで皆を励まそうとするのを見て、遂高も穏やかに笑いながら頷く。

「その通りじゃ。そして、もう一つ大きなことがあるぞ。只今申したとおり、我らは秀郷がいかなる計略を用いる相手であるかを知った。だが敵は我らが如何に手強き相手であるかを知らぬ。虎の牙を知らぬ狐の群れなど恐れるに足らず! ……そうですな、殿?」

 上座を仰ぐ遂高に、将門はフ、と笑みを漏らしながら顔を上げる。

「まったく、そなたの申す通りじゃ。……皆よ」

 立ち上がると、将門は合戦を前にするとき決まってそうするように一同を一人一人見渡しながら口を開いた。

「八千の兵を手放したことは悔やまれてならぬが、幸いなことに、俺は友に恵まれておる。今ここに集うておるのは野本の戦より共に戦った生え抜きの猛虎達、そして奥羽の地で誇り高く戦い、我らと道を共にしてくれた陸奥の白狼達じゃ。これまで幾度も我らの何倍もの軍勢を相手に戦い、これを討ち果たしてきたのじゃ。明日もまた同じ戦うだけのこと。いずれ勝機は必ず我らに来たるぞ! 明日は皆の牙を存分に振るい、下野の老いぼれと石田の臆病者を心底慄かせてやるがよい! ――覚悟は良いか!」

 応おおお! と主君の心強い激励に応えるかのように、今まで敵の奇襲に及び腰であった将兵達は顔を引き締め営所を震わせる鬨の声を響かせたのであった。



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