シロ 1



 ……最も古い記憶と問われると、思い浮かぶのは京の外れ、鴨川にかかる橋の下で聞いた空車の車輪の音であろうか。


 からから、からから。


 鳥辺野の墓地に亡骸を埋め、身軽になった車がこの橋の上を通るのは夜明けの刻と決まっていた。

 真っ当な者が真っ当に荼毘に付された時は、決してこの橋の上は通らぬ。真っ当でない者か真っ当に弔えぬ者が死んで骸となった場合、密かに夜のうちに鳥辺野へ運び、その時はミシリミシリと古板張りを軋ませながらこの橋の上を通るのである。

 現世で重ねた因業ごと墓穴に放り込んで空の荷車ばかりがからから、からから、と車輪を回す音をその足元に息を潜ませ耳ばかりを欹てていた幼少の頃は、まるで盲いた蝙蝠同然であったろう。日の明るい時分に姿を見せれば異形じゃ鬼の子じゃと幼いこの身に礫を当てられ棒切れ持って追い立てられるが故、陽が落ち人気が消えた時分に漸く這い出して飢えを凌げる物を探り、僅かばかりでも口に出来るものを漁りに夜の洛中を徘徊するのである。元より二親の事など覚えてはおらぬ。大方、自分を捨てていったか先に死んだかの何れかであろう。来る日も来る日も夜明けの前に、華やかな都から流れ落ちた汚物の打ち上げられた泥芥の中に身を潜め、目を塞いでじっと耳ばかり欹てていたのが澱みの中にあって尚鮮明な最初の記憶であった。

 そして明け方頃に勤めを終えた骸運びの空車が虚しく橋の上を通るたびに、薄っすらと目を開け、橋板の隙間から差し込む朝日が水面に自分の顔を映す。

 真っ白な髪、真っ白な肌。その中で際立つ深紅の目。昼間の外に身を晒せば太陽の日差しは刺すような痛みを彼に与えた。何より礫を以って人々に鬼のように追い立てられるのが恐ろしかった。


 からから、からから。


 空荷の火車が車輪を鳴らして頭の上を遠くに過ぎていく。

 どんな因業背負うても死ねばからから、空っぽじゃ。

 何も残らぬ。

 だのに、この泥芥に混じって弔われもせず打ち捨てられた赤子の骸やされこうべは、今生前世に何の因業重ねて此処におるのか。


 からから、からから。


 骸を荷負うておるより不吉な音じゃ。

 ああ、あの車の上には死んでも乗せられとうはない。

 こんな溝の泥芥に埋もれ果てるも嫌じゃ。

 ……俺は生きねばならぬ。生き抜かねばならぬ。



 元々頭の回る子供であった。

 物心つけば知恵も巡らすようになった。

 相変わらず、陽の光は身体に辛いが、幼い頃ほどではない。

 相変わらず昼間の行動は避けるが、橋下の泥芥よりもっと寝心地の良い場所を転々とした。

 時に礫を撃たれても拾い上げて投げ返すことを覚えた。

 芥箱を漁るだけでなく、宵闇に紛れ家屋敷に忍び入り人から掠めることも覚えた。

 誰とも交わらぬ故未だ言葉は話せぬが、耳で人の口から出たものを拾って覚えた。

 闇夜に彼の目が爛々と深紅を深めるにつれ、右手に握るのは礫から刃に代わった。もう彼に恐れるものはなくなった。ただ異形のこの身を露わにする昼間の明るみだけが厭わしかった。

 いつからかではなく、いつしか人を殺めることさえあった。

 未だ年若い少年であったが、それゆえに生への執着は貪欲であった。


 からから、からから。


 ともするとあの荷車の音が不意に耳を過ることがあった。

 その度に己に強く誓うのであった。

 ……俺は生きねばならぬ。生き抜かねばならぬ。



 或る真冬の時節、詰まらぬしくじりでとうとう検非違使の縄につくことになった。

 この治世も悪しき世の京の警邏など野盗崩れか食い詰め者の臨時雇いであったから、破落戸者と差して変わらぬ。そんな連中に袋叩きにされた上、半死半生のまま検非違使の詰所にしょっ引かれていった。

 腕を斬り落とされるか、最悪斬首か。


 からから、からから。


 ああ、俺はまだ死にとうない。

 ああ、あの車の上に乗せられるのは嫌じゃ。

 あの溝の泥芥に埋もれ果てるも嫌じゃ。

 ……俺は生きねばならぬ。生き抜かねばならぬ――!


 しかし、その詰所の長は風変わりな男であった。

「何じゃ貴様等、押し込みと聞いたが鬼の子供を捕らえて来たか。おい、お前、何か言うてみい。……何じゃ何じゃ、お前口が利けぬのか。これはまさしく鬼の子じゃ。おい、今日は見逃してやるから、もう悪さをするでないぞ!」

 大笑いしながら縄を解かれ、詰所の外へぽんと放り出されたのであった。

 ……死にたくないと願うていたら、その通りに死なずに済んだ。

 思わぬことに立ち去りがたく詰所の傍で暫く膝を抱えていると、暫くして再び検非違使の長が酒臭い息を吐きながら声を掛けてきたのである。

「ちょっとお前、ついてこい」



朱雀大路の南門。

焚火代わりに門塀を剥がしていく者が後を絶たずすっかり荒れ果て不気味な佇まいに、夜は人喰い鬼が現れるなどろくでもない噂まで立てられ、「羅生門」と陰口叩かれる陰気な大門であった。夜ともなると一層その荒廃振りが闇に浮かび上がりそら恐ろしく、お蔭で誰もこの辺りに近づかぬ。その為か野犬か狐狸の類の遠吠えが特に近隣にかまびすしい。

「――どうじゃ。鬼の子にはうってつけの塒であろう。詰所の前で蜷局を巻かれては鬱陶しくてかなわぬ。今日からお前は此処を塒にせい。たまに悪さを働いておらぬか見回りに来てやるでな」

 と、配下と共にげらげら笑いながら再びぽんと門の下に放り出された。

「痛ってえなチキショウ!」

 思わず膝を摩りながら睨みつける少年の様子に、「おお、鬼が人の言葉を喋ったわい」とまた大笑いしながら、大門の天井を指さす。

「そこの梯子から上に登ってみるがよい。お前と似たような鬼の小童が大勢おるでな。……まあ、寂しくはなかろうよ」

 言うだけ言い、とっとと背を向けて朱雀大路を北の方へ去っていく背中をぺっと唾を吐いて見送ると、たった今示された天井裏の梯子を探し、躊躇うことなく登っていった。

 今更鬼が待っていたところで怖いものか。散々鬼の子呼ばわりされてきたのじゃ。上で何が出ようと恐れるものかよ!

 そして上り着いた先で彼を待っていたのは鬼でも狐狸でもなく、鼻先に突き付けられた白刃であった。

 しかしそれを彼に突き付けていた相手は突如「うひゃあっ⁉」と悲鳴を上げて腰を抜かした。

「鬼じゃあっ! 真っ白い髪した鬼が、真っ赤な目して登ってきたよう!」

「うぎゃあっ、本当じゃ! お頭ァ、怖いよう!」

 同じような悲鳴が屋根裏のあちこちから聞こえてくる。

 雪明りに目が慣れて見れば何のことはない。検非違使達が言っていた通り、彼と同じくらいか、それより年少程の幼童達が、寒さ凌ぎに身を寄せ合っている様子であった。恐らく皆孤児達であろう。

 つい今まで刀を突きつけていた男童など、腰を抜かした拍子に小便まで漏らしている。

「おい、汚ねえなあ。そんなに怖けりゃ本当に取って喰っちまうぞ!」

 と拍子抜けの余り自棄っ八な気分になった少年が脅しをかけてやると、

「きゃーっ!」と一斉に泣き声が屋根裏中に響き、驚いた鼠が梁から落ちかけたほどである。

 ふと、今まで誰とも言葉を交わしたこともない自分が、自然と口からそれを放っていることに内心驚きを覚えていた時、


「――それくらいで勘弁してやれ、新入りよ」


 凛とよく通る声が天井裏の一番奥から彼に向かって響いて聞こえた。

 目を凝らしてみれば、彼よりやや年長と思しき娘が、襤褸に包まり少年の赤い眼に負けぬ程強く冷たい双眸でこちらを見つめている。この童達を束ねている存在と見える。

「こんな夜中に無駄に騒いだところで無駄に腹が減るだけじゃ……」

 少女の物言いに、一先ず一宿を許されたものと読んだ少年がフンと鼻を鳴らしながら天井裏に上がり込み、「邪魔すンぜ」と未だ怯える子供達を掻き分け適当な寝場所を確保しごろりと横になった。

「……お前、名前は何と言う?」

 暫しして、少女が襤褸の隙間から彼に尋ねる。

「ンなもんねえよ」

 自分の身体中を少女や恐々とした童達の視線がつんつん突き回るのを感じながら、ぷいと背中を向けて彼は目を閉じた。

「ほう。俺も似たようなものじゃ。あったが忘れてしもうた」

 人を食っていやがる、と、相手の冗談ともつかぬ返事に鼻を鳴らし、目を瞑ったまま尋ねる。

「……おめえは、俺の姿が恐ろしくねえのかよ?」

 これに、相手もまたフンと鼻を鳴らして返したものであった。

「別に。お前が大人の野盗であったら、この子らは皆面白半分にあっという間に殺され、俺は散々に手籠めにされておっただろう。人の方が余程恐ろしいわい」

 それあ違ェ無えわな。うとうとと微睡ながら夢現に彼は少女に答えたのだった。



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