第4章 蒼旗立つ



 天慶三(九四〇)年睦月下旬。下野国唐沢山、藤原秀郷居所。


「貞盛様の奥方ら御二人共、お務めを全うの上、無事石田営所に帰営されたとの知らせにございまする」

「随分と軽やかな早馬じゃのう。まだ残雪も残る最中、深山を越えてもうこんな下野の外れまで駆け込んでくるとは。羽でも生えておるのか?」

「は。幾つかの関で足止めを食ったものの、押領使の印が物を言ったようにございまする」

 皮肉な口調で伝令の小姓に声を掛ける為憲を「これ!」と繁盛が嗜めると、

「ご苦労であった。伝えの者らをよく労ってやってくれ」

「ははっ!」

 一礼し退出する小姓を見送った貞盛が、相変わらずの薄ら笑いで火桶に手を翳している老人を屹と睨み据える。

「只今お聞きになった通りじゃ。貴殿の申しつけの通り、我が妻に恥を忍ばせ手を汚させてまで貴殿の指示に従ったのじゃ。……これで将門を確かに討ち果たすことが出来るというのでありましょうな、秀郷殿よ!」

 腹に据えかねる一歩手前というところでぐっとこらえている様子の貞盛らを前にしても、秀郷の態度は悠々としたものであった。

「おう。ようやってくれたわ。しかしお若いの、今の貴殿の謂いには些か語弊があろうぞ? 申しつけだの俺の指示だのと、まるでこの俺が其許らを自分の家来か従類のように顎で使い、強いて命令に従わせておるように聞こえたが、これは聞き捨てならぬのう。これでは俺が貴殿の細君にまで恥を強い、無礼を働いたようにも受け止められるわい。言葉はよく吟味して口にするものじゃ」

 あからさまに相手の神経を逆撫でするような物言いに、とうとう堪忍袋の緒が切れた貞盛が矢庭に立ち上がると秀郷の胸倉掴を掴んで勢いのままに押し倒した。

 なされるが儘に床に身を投げ出される秀郷であったが、それでもなお軽薄な顔色は変わらない。

「おまえと言う男は、どれだけ我らを虚仮にしてくれれば収まるか! ええっ⁉」

 仰天して止めに入ろうとする為憲らも「貴様等はすっこんでおれ!」と物凄い剣幕で背中から怒鳴りつけられ、はらはらと事の成り行きを見守るばかりである。

「ふむ。確かに虚仮もスカシも戦の常套じゃが、貴殿ら相手にそんな猫騙しを用いた覚えはないがのう?」

 一方の当人は、今にも殴りかかろうと拳を握り締める相手に飄々としたものである。

「老いぼれ奴! 確かに貴様の言う通り、俺がとうに此の地を逃れ上洛しておるという偽りの情報を将門に信じさせる必要はあった。そうして将門を油断させねば勝ち目はないとの貴様の言い分も尤もじゃ。じゃがのう、その為に我が直臣の最精鋭の武将二十三騎を捨て駒とする必要が何処にあったか! 何れの者も幼い頃から良く知る者らばかり、共に焼かれた石田の復興に励んでいた若者達じゃ! それに我が妻もじゃ。巻き添え喰って人数に加えられた扶殿の細君もじゃ。敢えて虜にさせよ、じゃと⁉ それも敵勢に紛れ込ませた我が配下に手籠めにされた振りをして将門の哀れみを買うようにせよ、じゃと⁉ 狂言とはいえ、その為に二人に生涯残る辱めを負わせることになったのじゃぞ! 二人の部下も危うく興世王に殺されるところであった。すべて貴様の発案であったではないか! これでいかなければ到底勝ちは望めぬ、勝てぬ戦に手は貸せぬと我らに脅しかけてきたのを忘れたとは言わせぬぞ!」

 激情の余りに涙さえ浮かべている貞盛の顔を見上げる秀郷の表情は、これとは反対にいつしか穏やかなものになっていた。

「なんじゃ。俺の企てにそこまで不服を抱えていたか、それは知らなんだわ」

「何だと!」

「ならば若造よ、言われるがままに行うのがそんなに嫌なれば、何故その場で反対の意見を申さなかったのじゃ? なぜもっと別の妙案を提示せんかったのじゃ?」

「何を――うおっ⁉」

 相手の僅かな動揺の一瞬をついて秀郷が貞盛の肘を捻り上げ、あっという間に引き倒した。今度は貞盛が秀郷に組み敷かれる体勢となった。

「……ぐぅ!」

「なれば訊こうか若造よ! なぜおまえは唐沢山のあばら家で、こんな老いぼれの前で斯様な無様に這いつくはめになっておるか、誰のせいじゃと訊いてみようか?」

 突然の形勢逆転を目の当たりにし繁盛も為憲もあんぐりと口を開けて見つめていた。

「折角の機会じゃ、色々問い質そうぞ。そもそも何故石田が将門に焼き滅ぼされた後、直ちに弟や従類達と共に将門奴をやっつけに赴かなんだか? なぜ父君国香殿の弔い合戦をせなんだか。或いはとっとと京に戻っておれば良かったものを、何故留まった?」

 片頬を歪めどす黒い笑みを浮かべる秀郷に腕を捻じり上げられ苦痛に喘ぎながら貞盛が返す。

「ぎぃっ! ……ま、将門とこれ以上軋轢を生みとうなかった。元を質せば父上らが彼奴を陥れんが為に図った戦じゃ。その果てに石田は無残な焼き打ちを受けすぐにでも復興を優先すべき事態であった。この俺が石田に留まり戦後の復興の指図を示さねばならなかった。あの状況下では逆襲を企てる余裕はなかったのじゃ!」

「はっ! その結果おまえはぐずぐずと当地に留まりおったせいで伯父上らの小競り合いに巻き込まれた挙句、今日まで将門に追い回される羽目になったわけか!」

 これ見よがしの得心顔に軽蔑の嗤いを浮かべ老人は更に続ける。

「もう一つ訊くぞ! ならばなぜ千曲川を這う這うの態で都に落ち延びたものを、わざわざ石田に出戻ってきおったか。その上、傍も迷惑な小賢しい小細工なぞ幾つも弄し将門を挑発しおって。お蔭で勝ち軍となった将門に常陸府下は炎に焼かれ、果てはこの下野はじめ坂東一国は火の海と化したのじゃ。おまえの部下や女房のことも、今ここで俺に這いつくばされておるのもすべておまえの身から出た錆であるように俺には見えて仕方がないが、お前自身はどう考えておるか?」

「……将門を止める為じゃ。あの男をあのまま放置すればいずれ今日のような騒乱が坂東全てを覆う事は目に見えておった。事が大になる前に常陸国府を動かしあの男を抑え込む必要があった。その為にはどうしても将門には常陸にたてついてもらわねばならなかった。……まさかそれが此処まで戦火を広げることになるなど予想だにせんかった。――ぐうぅっ⁉」

 釈明を続ける貞盛の腕を一層力を込めて捻じり上げる。

「嘘を吐け。都で自分と同じ境遇で落ち延びたどこぞの某が懲罰を受けたのを見て、次は自分と慄いて石田に逃げ帰ったが本音であろうに。おまえが詰まらぬ小細工をこさえたおかげで、本来この戦に何の関わりも持たぬはずの藤原玄明や、よりによってあ奴らの一族まで再び戦禍に巻き込むことになったのじゃ。おまえが最初から大人しく親爺の敵討ちを遂げておれば、或いは敢無あえなく将門の手で討ち果てておれば、此処までこの戦が拗れることがなかったのではないか、ええ?」

「たとえそうだとしても、くうっ……! この戦は俺の手で、我らの手で止めねばならぬ! 力を貸して給え! ――かはっ!」

 そこで漸く秀郷の腕ひしぎから解放された貞盛であったが、息吐く暇なく胸倉を掴まれ床から引き揚げられる。老人とは思えぬ腕力であった。

「よく聞けよ小僧。……俺はのう、初めて此処を訪ねて参った時のお前らのような世間知らずの小童が、温い床に寝そべりながら世情を憂い、やれ戦は嫌なものじゃと、逆に威勢よく古の戦を偲んで憎き仇敵を戦で討つべしなどと、昼餉の箸を刃の代わりのように気安く奮って語るような馬鹿垂れが一番嫌いなのじゃ。お前らの誰か己の太刀を長鉾を敵兵の血で染めたことがあるか。已む無く無辜の民の命を奪い、敵の種は根絶やしとばかりに家々に火を放ったことがあるか。目の前で敵兵に実の娘を拐かされ、無残に引き裂かれた亡骸を抱きしめたことがあるか。己の失策による同輩の討死を直にその母に伝え、目の前で泣き崩れられたことがあるか。千の命を奪い万の恨みを買い、それでも尚老いさらばえても生き恥を偲ぶ者の寂寥が如何なものかわかるか。誠に戦を憂いて良いのはのう、戦で奪ったことがある者じゃ。誠に戦を讃えて良いのはのう、戦で失うた者じゃ。本当の戦を知らぬ小童共が戦を憂いて楽鳴らして詠うなど戯け者共がよう阿呆面さげて我が居を訪ねて来れたものよと最初はくさくさしておったわ。だがどうじゃ今の貴殿の面構えは? なかなか様になったものではないか貞盛殿よ!」

「……っ!」

 呵々と笑い声を響かせる老人の腕を不機嫌を露わに振り払い、改めて座に座り直すと、固唾を飲んでいた為憲らも嘆息を漏らしながら座に着いた。

「さて、そろそろ頃合も良かろうか。……各々方よ、ちょいと我が自慢の前庭をご覧に足を運んでくれぬか?」

 と、同じく火桶の傍に腰を下ろしかけた秀郷がふと提案を申し出たのであった。


 急な物言いに不審そうな顔を揃え庵の外へ案内された貞盛殿は、麓を見下ろせる一角に至ると思わず声を上げそうになった。

「……これは、いつの間に揃えたか⁉」

 固唾を飲み驚きの声を漏らす貞盛らの界下――残雪残る唐沢山の麓が、真っ青に染まっていたのである。


 そこに翻るは蒼天色の藤原蒼旗。


 下野一国に最大勢力を誇る藤原一門。その総兵力数千ともいわれる騎馬軍団が、一糸乱れぬ隊列を組み、総大将秀郷の号令を待つばかりの態勢を揃えていた。


「戦は迅速が肝要と申すぞ。貴殿らもあれだけの啖呵をこの爺に浴びせたのだから、既にいつでも出立の用意は整うておろう? 昼餉が済んだらすぐにでも下野を立てるぞ」

 相変わらず底知れぬ笑みを絶やさぬ秀郷であったが、その双眸には合戦に対する本能的な狩人の喜悦が見える。



「さあてこれより、いよいよ虎狩りの大捕り物が始まるわけじゃ。お若い方々よ、――坂東を取り戻すぞ!」



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