第3章 再び貞盛追討 1


 

 天慶三(九四〇)年睦月。常陸国涸沼川付近。


 将門らが拠点とする石井営所から見れば筑波山の真後ろに位置するこの一帯は坂東の地域の例に漏れず広大な平野が広がっており、遥か北の向こうに見える険しい山々はそのまま陸奥の地まで続いている。

この辺りは下総よりも太古の火山灰の影響が大きいせいか、酸性度の高い関東ローム層が深く堆積しており稲作向きではない土地である。水源も塩分が多い為水田耕作はあまり見られぬものの、細々と畑作の営まれる平原は緑生い茂る季節となれば一面の葦原に埋もれていたことであろうが、今は見渡す限りに枯れ果て白茶色に風化した茎の残骸が凍え固まった地面に無数に突き刺さっている寒々しい風景であった。


 その荒涼たる平野を進み行くのは将門率いる五千の軍勢。筑波颪に靡く朱の長旗の列は那珂の平原と同様にその長蛇の尾尻が見果てぬ程であった。

 北坂東三国の国府軍を相手に圧倒的勝利を収め、残る五国をも威迫を以って屈服させた騎馬軍である。事実上、本邦に彼らを向こうに回し対抗しうる兵力は最早存在しない。名実共に天下最強の新皇騎馬団となっていたのである。


 不意に先頭を進む大将が止まれの指示を出すが、後方からは暫く蹄と徒の軍靴の音が尚も響き渡っている。

「やれやれ、これだけ隊列が長いと最後尾まで指示が伝わるまでエラく時間を食うものじゃ」

 隊列の中程を進んでいた興世王がかじかむ手を手綱から離し白い息を吐きかけながら寒さに首を竦めて呟いた。

「なんじゃ、権守殿。武蔵暮らしの長い貴殿も寒さには弱いか?」

 馬上から将頼が揶揄いの声を掛ける。彼が上総介に任じられた後も、馴染みの者達は愛着を込めて未だに以前の肩書で呼びたがる。

「この那珂郡とやらの寒さは格別じゃて。陸奥の方からは北風は吹いてくるわ、後ろの方からは筑波颪が吹き下ろしてくるわで冷たい空気が渦を巻いているようじゃ」

 寒さに震える興世王を面白がる将頼であったが、彼もまた大きな嚏を放った弾みで手綱を強く引いてしまい、驚いた馬が嘶きの声を上げて危うく転げ落ちそうになる。

「おいおい、貴公こそ人の事を笑えぬぞ!」

 呵々と声を上げる興世王であったが、(それにしても……)と内心で首を傾げながら此処までの行軍を振り返る。

(石井郷からぐるりと筑波山を迂回して那珂郡まで兵を率いて進んできたが、……道中通過した集落の空気は、ありゃ一体何じゃ?)

 昨年末、常陸国府を攻略し、続いて下野、上野と軍を進めた際は、将門らの進軍を東国の夜明けとばかりに諸手を上げて歓迎する者もあれば、戦火の巻き添えを恐れて家の奥に引き込んでしまう者もあり、その反応は様々とはいえ、数千規模の騎馬軍の御通りと一目見ようと多かれ少なかれ沿道に群衆の姿が絶え間なく見えたものである。

 それが、此の度の行軍では殆ど人の姿が見当たらぬ。決起当時の軍勢から倍以上の規模で編成されているというのに、通過する家々の門扉は皆閉ざされ、野辺に人影一つ見かけぬというのは、今冬の際立つ寒さのせいからだけではないだろう。

(さあて、今度は一体巷間でどのような悪評が囁かれているのやら)

 ナニいつもの事じゃ、とこれ以上考えぬことにした彼の耳に、「おい、小休止ではないようだぞ?」と将頼が馬を寄せてくる。

「出迎えの者達が見えたようじゃ」



 常陸国に平貞盛ら残党勢力の動き有り、との知らせが届いたのは二日前の事である。

 この度の争乱を駆り立てた全ての元凶たる男が行方を晦ましてより四ヶ月が経とうとしていた。

「思えば、その間に随分と様々なことがあったものさな」

 と感慨深げに腕を組む経明の横で、玄明、玄茂の二人は凶暴な面持ちに薄笑みを浮かべて拳を握り締めている。

「……あの若造。漸く尻尾を掴んだわ!」

「だが、今の我らにとっては最早脅威に非ず。捨て置いたところで毛ほどの事もあるまい。わざわざ兵を起こして、未だ整わざる国内を敢えて乱すこともないと思うが……」

 遂高はあくまで冷静に始末の付け様を見定めようと思案顔であった。新皇が統べる坂東の軍勢は八千騎を越える。譬え今中央が鎮圧の軍を送り込んだとしても太刀打ちを許さぬであろう。今更敗残の舟喰い虫が船底で蠢いて見せたところで沈む大船ではないのである。

 一方で遂高同様無言で考え込んでいた将門の胸の内にはある光景が浮かんでいた。


 ――将門殿、貴殿との和睦を反故にし平和を破ったこと。我が身を裂かれる思いじゃ。じゃが貴殿よ。我ら石田平氏、一族領民らを坂東八国、ひいては日ノ本すべての敵に晒すわけには参らぬのじゃ!


 そう咽び泣きながらあの男は挑みか掛かってきた。思えばあの一場面が言葉を交わした最後であったか。

 結局、貞盛の懸念の言葉通り、常陸石田をはじめ坂東八国は中央と敵対する道を歩むこととなった。その発端に貞盛自身の謀略が関わっていたというのは何とも皮肉な経緯である。

 やがて将門は皆を見渡して口を開く。

「……残党共を討つ。但し貞盛は討つな。必ず生かして捕らえるのじゃ。彼奴には聞きたいことが山ほどあるでな。玄明よ、そなたも彼奴には恨みつらみが山とあろう。捕らえて直接言うてやるがよい。だからくれぐれも殺すなよ?」

 冗談めかして念を押す主に、「はっ!」と皆が深々と低頭する。

「それとな、実は皆に見てもらいたいものがある。……此処に持て」

 将門が合図すると、控えていた従者二人が真っ白な長旗一棹を抱えて一同の前で広げてみせる。

 それを目の当たりにした一座の者達に大きなどよめきが起こった。


『南無八幡大菩薩』


 ……後年、源平両氏が挙って戦場に翻すこととなる八幡神の御旗であった。


「これぞ我ら坂東軍の尊き護り本尊。我ら東国の武夫が新たに掲げる御旗である!」

 息を飲み魅入る一同を再び見渡すと、高座より立ち上がった将門は声高らかに宣言した。

「今一度兵を起こすにあたり、新皇勅として宣下する。民への狼藉は厳かに禁ずる。戦禍に逸れた婦女子は手厚く保護し、また孤児となった童や寄る辺なき老壮の者には施しを与えよ。我が軍門にあるまじき狼藉を為すこと、即ち八幡菩薩の御旗に泥を塗る所業と心せよ!」


 ――新皇勅して曰く、「女人の流浪は本属に返すは、法式の例なり。又、鰥寡のやもめ孤独のひとりひとに優恤を加ふるは、古帝の恒範なり」と。


 未だ政権地盤の不安定な状況で数千の将兵を動かすとなれば、彼らの兵糧だけでも将門達にとって相当な負担となろう。活動も短期間に限られることになるであろうし、それでも糧食の不足は避けられぬであろう。物資の現地調達、即ち兵達による略奪の発生は必至である。それでもこれ以上無辜の血が流れることだけは何としても避けねばならぬ。


「――此の度の出陣が、坂東における最後の戦となろう。全ての因縁の発端である平貞盛並びにその一党を懲らしめ、戦果終息の暁には我らの手で坂東に新たな秩序と永久の平穏をもたらすのじゃ!」



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