第2章 除目式 5


 

 薄目を開けてまず襲ったのは酷い頭痛である。

 どれほどの間眠りこけていたものか。宴の終わりから左程陽が傾いていないところを見ると大した間ではあるまい。

 再び目を瞑ってこめかみを抑えながらもう一度目を開けてみれば、自分を覗き込んでいる五人の人影が居並んでいる。

 ……まずはコウタ。

 それにコヅベン。……なにやら随分老けたのう。

 察するに、……此処は胆沢鎮守府か。

 ……一体今はいつじゃ?

 ……どうして遂高と秋保が胆沢におる?

 ……父上は、何処におられるか?


 ……この女人は、――誰であったか?


「……主様?」

 ズキズキと痛む頭を抑えながら暫し目の前で心配そうに眉を寄せる女性をぼんやり見つめているうちに焦点が整っていく。

「……美那緒?」

 酒に焼けてカラカラになった声音で名を問う将門に湯冷ましの椀が差し出される。

「珍しくお酒を召されたようにございまするが、お水を飲まれまするか?」

「にゃあ?」

 無意識に脱ぎ捨てたと思しき冠を小唄が差し出してくる。

「いや二日酔いには迎え酒が一番であろうて。のう小太郎よ?」

 その隣からズイとコヅベンが酒を満たした杯を突き出してくる。

「いやはや、無事にお部屋に辿り着かれていて安心しましたぞ!」

 三人の後ろで遂高と秋保親子がホッとしたように胸を撫で下ろしている。

「――随分、長い夢を見ていたようじゃ。……いや、酒はもうよい」

 礼を言いながら椀の水を飲み干し、一心地ついた将門が小唄から冠を受け取り被り直す。しかし今は酒の匂いを嗅ぐだけでも胸がむかつく思いである。

「……だから酒はいらぬて!」

 尚も「ほれほれ」と鼻先に酒杯を突き付けてくるコヅベンを鬱陶しそうに払い除けようとしていた将門の視線が小唄の顔でピタリと止まった。

「……小唄か?」

「あら、お気づきになられたご様子」

 うふふ、と秋保が袖を口にして笑う。

 そこで遂高も初めて気づいたらしく「おや!」と驚きの声を上げる。

「なんじゃ。見かけぬ女童がおると思えば、あの女弓手であったか! すっかり垢抜けたものじゃ」

「主様を吃驚させようと秋保が化粧を施してくれたのです。お懐かしうございましょう?」

「にゃうう……」

 尚も恥ずかしそうに袖で隠そうとする小唄の両手を、将門は無言のままそっと除けさせ、露わになった記憶のままの顔を食い入るように見つめる。

「にゃあ?」

そこへ、「よっと!」とコヅベンが真中に加わり二人の肩に手を回して抱き寄せた。

「どうじゃ、こうして三人揃うてみると胆沢川で蟹を採り西根の椚林で蝉を追うていた頃を思い出さぬか? しかし、改めて見合えばお前も俺も歳を食ったものじゃて。初めて会うた時など、お互いまだ乳臭さも抜けておらぬ年頃であったもの」

「……酒臭ェ」

 鼻につく酒の残り香に青い顔を顰めながらも、将門の脳裏に二人と初めて出会った記憶がふと呼び覚まされていった――。



――なんじゃ、坂東の童というのは変な言葉を話すものじゃのう。


 新参者を品定めとばかりに鎮守府官舎の入り口で待ち構えていた餓鬼大将が、早速遊びに行こうと一人飛び出してきた浅黒く俊敏そうな小童を捕まえてみると、喧嘩腰にも聞こえる抑揚の強い北関東弁で挨拶を返してきたものだから思わず子分達も尻込みしてコヅベンの後ろに隠れる。


――俺には陸奥の言葉が奇妙に聞こえるわ!


 小童の方も、「ニャアニャア」と間延びした独特の俘囚言葉がとても聞き取りづらく、それを棚に上げた相手の物言いに当初はムッとして言い返したものの、興味津々と自分を囲んで目を輝かせる様子にいくらか機嫌も直る。


――のう、おまえ都には行ったことがあるか? 若狭の海は黒いと聞いたが本当か?


――俺も筑波の空は赤いと聞いたぞ?

 

 言葉の通じる相手と知った子供たちが口々に質問をぶつけてくる。比較的外部の者の出入りが多い鎮守府近辺でも、俘囚地の外の世界の様子など大人の口づてを傍で聞き齧ることが出来る程度で、殆どは子供らしい空想を膨らませてみる他知る術のない異世界であったろう。

 馬鹿な奴らめと笑っていた小童であるが、下総を出立する前夜まで「父上、陸奥は年中雪が降り積もると聞きまするが、この格好で寒くはないものでしょうか?」などと着膨れに着膨れを重ね半べそ掻いていたのを散々伯父達に揶揄われていたのは内緒である。


――筑波の空も此処と同じじゃ。都にも若狭にも俺は行ったことがないが、坂東とも此処とも皆同じじゃと父上は言うておった。


――なんじゃ、此処と変わらぬのう。


――こいつも、俺達と変わらぬ。


――誰じゃ? 坂東の童は香取海の水辺に棲んでおるから頭に皿やら手に水掻きやら付いておると得意気に言うておった知ったかぶりは!


 がっかりというよりは一つ物を知ったことへの安堵と興奮に沸き立つ童達に、小童も一つ質問を投げかける。


――それより、俘囚の娘子は股の間に牙を生やした口が付いておると伯父上達が言うていたが、本当か?


 その問いに「え?」と皆一斉に輪に加わっていた一人の女童に向けられ、突如思わぬ視線を集めた女童も「え」と声を上げる。


――そんなの俺も初めて聞いたぞ。……どれ。


――ひゃあっ⁉ 何しくさるかこのエッチ!


――痛ってえ!


 不意に着物の裾を捲られそうになった小唄が悲鳴を上げてコヅベンの顔面に怒りの鉄拳を食らわせた。


 ……やがて小童が彼らとすっかり打ち解け、一緒に他愛無い悪戯をしでかしては父を苦笑させ、時にはこっぴどく怒られるようになるまで左程時間は掛からなかったのであった。


――まったく、何のために柵で囲い関で塞いで俘囚と東夷と区別するのか、……もうこの父にもよく判らぬようになったよ


 そう零していた父の言葉の通り、幼少に彼らと過ごした将門には、そこに分け隔たりなど一切なかったのである。



――よいか。もしそなたが父のように大きくなったら、その時は……


 そして在りし日の父の言葉が、再び度蘇った。


――今の光景を、今傍らに居った友らの顔を、今一度思い起こしてみるがよい。



「――殿⁉」

「主様⁉」

「おいおい、盥を持ってこさせるか?」

 突然顔を伏せ嗚咽を零す主人の様子に、気分が悪くなったのかと美那緒達が慌てて声を上げる。

「心配いらぬ。……只今、心の迷いが晴れたところじゃ」

 袖で拭い皆を見上げたその顔は、悪酔で青白いものの、かつて鎌輪宿の営所で蒼天に向かって決起を宣言したが如き晴れやかな表情であった。


「――今更になって、己が成し得たことを知ったところじゃ」



 四半刻前に御開きとなった式典と宴席の撤収と山のような祝儀の取りまとめが一段落し、各々の私室へ足を運ぶ玄明と興世王が並んで言葉を交わしていた。

「まったく、曲者ばかり集うたものじゃ。宴の席で配下共に聞き耳をさせていたが、どれもこれも無料酒目当てにお零れ目当てときておる。我らが大義に話を向ける者など殆どおらぬとは!」

「はは、祝いの席じゃでな。小難しい議論は興が削がれるものと皆遠慮したのじゃろうて」

 不機嫌そうに零す玄明と対照的に、こちらは大いに酒宴を満喫したと思しき興世王が上機嫌に笑う。

「将門殿も歯の浮くようなおべっか使い共に大分辟易されておったものと見えるな。宴では終始無言であった。あんなに口を開く間もなく酒を注がれてはまあ無理もあるまいが」

「主上は元々寡黙な御方じゃ。しかし、幾ら下心の塊のような連中相手とはいえ我が新皇に支持を寄せる者達がこの度一堂に会したのじゃ。この機会に是非新皇様から我らが掲げる大義、即ち坂東の独立解放に向けた高説を賜って宴の幕を締めたいところであったが」

「ほう、大義とな? 我らはそんな大層なものを掲げておったっけ?」

 へべれけの興世王が千鳥足を止めて暫し思いに耽る。

「大義など身共は知らぬが、さっきの膳に乗っておった鯛を焼いたのは大層美味かったのう。身共は生まれてこの方大海を見たことがないが、あんな美味い物がうようよ泳いでおるとは、齢を過ごしても見聞の余地はまだまだあるようじゃ」

 呵々と笑う傍らの男のあっけらかんとした物言いに叱責するも失せ、肩を落として溜息を吐く。

「あのな権守殿よ。そもそも、我らの大義とは――」

「おいおい、なんじゃ? 殿の寝室辺りに人が集まっておるぞ!」

 自分の言葉を遮り素っ頓狂な声を上げる興世王の指し示す先を見て、玄明が顔色を変える。

「主上は下戸でおられると先程遂高殿から聞いたが、まさか御体調を崩されたのではあるまいな?」

 慌てて主人の居室へ向かった二人は、騒がせぬようにそっと戸口の中を覗き込んだ。


 ……そして、このやり取りの一部始終を見届けることとなったのである。



 来た時と同様そっと足音忍ばせ退出していった二人は、再び各々の私室へ足を戻したのであるが、傍らを歩いていた興世王が、ふと「……のう?」と玄明に問いかけた。

「先程の話の続きじゃが、……改めて思うに、大義だの高説だの、あの御方に一番似合わぬものではないか? 困窮極まっていた我らを救ってくれた御方じゃ。足立郡の為、そして坂東の為と、弱き者の為に幾度も立ち上がった御方じゃ。そこに大義も高説もあるまいて、ただ至極当たり前の人間らしい道理があるのみじゃ。おぬしもそうは思わぬか?」

 彼にしては珍しくしおらしい口振りに、玄明もまた只今垣間見た光景に感じ入った様子で頷いてみせる。

「貴公の言う通りじゃ。某も今更ながら思いを改めたよ。我ながらよくまあ年甲斐もなく一人で肩肘張っていたものじゃて」

 彼もまた主将門同様曇りの晴れた顔色に笑みを湛えて興世王に答えたのだった。

「某も貴公らも将門殿に恩義を感じ、そこに惹かれたが故について行くと決めたのじゃ。大義名分などに惹かれたわけではない。……それを某は危うく失念するところであったよ。はは、まったく、様のないことじゃ」

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