第2章 除目式 4


 

(――此処は? ……炎か?)


 熱風に顔中を煽られチリチリと毛髪の焦げる匂いに薄目を開けると、一面が炎の海であった。


 剣戟、嘶き、蹄の音。叫び声、怒鳴り声、罵声。


 着こなし慣れているはずの甲冑が、酷く重く熱を帯びている。

 馬上から夜空を見上げれば、星の見えぬ空に黒煙がぶすぶすと立ち上り、彼方に見える筑波山の影さえもが煤黒く燻されているようであった。

 少しずつ薄ぼやけた意識が冴えていく。今では遠い昔のような記憶が蘇っていく。

(――此処は? ……筑波山麓。石田郷か!)


 遡る事五年前。

 将門は今、全ての発端となった戦の夜の最中にいた。

 まさに真っ赤な炎を上げて燃え崩れようとしている石田営所を前にしていたのである。


 この物語の原典である「将門記」の写本は全て巻首部分が欠落している。

 現代に伝わる平将門の物語は戦火の只中から始まるのである。

 承平五(九三五)年如月、親族間の争いから端を発した源扶兄弟との死闘。それを裏で操っていた伯父平国香の居所を奇襲し自刃へと追い詰めた場面に、彼は再び立ち合うこととなった。



「兄上!」

 火焔渦巻く館で立ち尽くす将門の目の前を、一騎の武者が駆け抜けていく。

 炎の影となって良く見えぬが、今の武者は弟の武頼、その先にいる馬上の武将は自分自身ではないか。

「伯父上は館の中で自害されたようでござる。炎が引けるのを待って引きずり出しましょうか?」

「いや。黒幕とはいえ我が伯父じゃ。骸を辱めるようなことは忍びない。それよりも、敵の手勢はこれだけか?」

「はっ! 随分手薄にございました故ほぼ掃討を終えておりまする。敵も思わぬ不意打ちを食らったことにございましょう。全くの無防備でしたな」

 圧勝を収めたにしては忸怩たる口振りなのは、やはり身内を討ち取らざるを得ない結果となったからであろう。他の従類もまた同様に勝利の喜びとは程遠い様子でやるせなく肩を落としている。

 しかし馬上の大将は毅然と口を開いた。

「まだ戦は終わっておらぬぞ。伯父の兵力がごまんと残っておる。親爺殿、伯父の郎党共は石田の他どの辺りに巣くっておるか?」

 問われた壮年の武将、平真樹も厳しい面持ちで答える。

「筑波、真壁、新治の三郡じゃ。広うござるぞ。筑波の麓を虱潰しに当たることになるが」

「貴殿の隣家にも煙を上げることになるが、異存はないな?」

「無論じゃ。此処で完膚なきまでに叩きのめさねば彼奴等明日にでも若殿の御所領に押し寄せて見境なく火を放つことじゃろうて!」

 老将の言葉に将門も頷く。

「皆よ。この戦、後に禍根を残せば身内の私闘では済まぬ争乱となろうぞ。此処でケリを付けねばならぬ。敵が再起不能となるまで焼き尽くせ!」

 将門の檄に「応っ!」と鉾を振りかざす配下の将兵らが一斉に馬を動かした。背後に残るのは焼け落ちていく石井郷の家々と焼け出された人々の悲痛な叫び声だけであった。

「――これで、もう後には引き返せぬ」

 もう一人の自身を先頭に走り去る一群の背を見送っていた将門の耳にそんな呟きが聞こえた。

(……いや、まだ引き返すことはできたはずじゃ。この後の長き戦いを思えば、まだ別に辿るべき道が残されていたはずであった)

 唇を噛み締め独白する将門の目の前の光景が不意に一転した。



 未だ炎の中である。

 しかし、今目の前で焼け落ちているのは住み慣れた鎌輪宿の自身の営所であった。

 承平七(九三七)年皐月。子飼渡の合戦敗北の夜である。

 野本の戦の首謀者である国香勢を徹底的に叩きのめしても尚、一度火のついた坂東の戦火が鎮火することはなく更なる炎が彼らを飲み込んだ。

 己の野望に憑りつかれた良正、因縁の根本たる甥を討たんとする良兼、二人の伯父の思惑に絡め捕られた貞盛らの逆襲により、この夜、将門は多くの者を失うこととなった。

「――殿、お許しくだされ……」

 火の粉舞う営所の前で傷だらけの武将が膝をつき涙に咽んでいる。

「わが使命、……遂に全うできませなんだ!」

(ああ、経明もまた、愛する者をこの戦で失ったのであったな)

 本人たちはひた隠しにしていたつもりであったろうが、将門はうすうす気づいていた。そして彼が未だにその傷心を抱いたままであることも。

(俺も多くの親しい者達を一夜のうちに失った。萩野もまたそうじゃ。そして……生まれてくるはずであった我が子もじゃ)

 伯父達も狙いは敵の勢いと士気を削ぐことであり、標的も将門勢拠点である営所周辺や郎党達の住居であったが、それに巻き込まれた市井の民も少ないものではなかったのである。

 それは家や家族を焼かれた配下の将兵、そして将門自身の憎しみを煽り、どす黒く抑えがたい復讐を招いた。

(そうじゃ。俺は己を見失う程に怒りに囚われ、復讐に駆られた。手負いの虎などとは到底呼べぬ、修羅の道に踏み外すところであった)



「これより――良兼一門を皆殺しにするぞ」


 場面は再び転じ、次は白昼の炎嵐である。

 同年長月、常陸国真壁郡服織宿。

 怒りに駆られたもう一人の己自身の様子を傍から眺めやる将門は灼熱の余り、既にしとどに汗を滴らせていた。

「――残らず焼き尽くせ!」

 彼の号令一下、彼を始め復讐に猛り狂った配下の弓手達が官舎も民家も見境なく無数の火矢を放った。

 ただ自分達の親しい者達を奪い去った憎き相手が逗留していたという理由のみで、この街に平穏に暮らしていた無関係な民達に対しても火の雨を降らせたのである。

 炎から逃げ惑い、ようやく匿われた避難民で溢れかえる服織営所に対しても情け容赦なく攻撃を続けた。己の行く手を阻む者は誰であろうと片っ端から手当たり次第に打ち据えた。

(……いや、これはまるで血に飢えた虎じゃ。俺は此処で畜生道にももう片方の足を踏み入れたのじゃ)

 民達の怯えきった悲鳴、啜り泣き。己の所業に彼は思わず耳を塞ぎ顔を覆う。漸く解放された彼らが馴染んだ家々が残らず灰燼と化している様を目の当たりにして声を放って泣き崩れる様が、どんなに見るまい聴くまいとしても将門も目に、耳に生々しく映し出されていく。

 これだけの幾多の戦禍を繰り広げ、数多の罪なき犠牲を巻き添えにしながらも、伯父達との骨肉の争いはその後幾度かの小競り合いの末、一族棟梁である良兼の病死によりうやむやのうちに幕を下ろした。もう一人の当事者たる貞盛は姿を晦ましてしまった。将門に残ったのは無辜の血に染まった己の両手を見つめ、只々悔恨する日々が繰り返されるのみであった。

(そんな俺の前に現れたのが、あの二人。興世王と藤原玄明であったな……)

 武蔵国足立郡にて起った一騒動。立場弱き者を擁護しようと調停を申し出たのは何も贖罪を思っての事ではなかったが、この時初めて中央の手先による民らの苦しみを改めて目の当たりにしたのであった。

 そして、裏で謀事を目論む貞盛の計略により故国を追われた玄明を匿うことを決めた時、彼の進むべき道は決したのである。

(……それを悔やみはせぬ。初対面の折には失念しておったが、俺はあの男に以前一度逢うておる)

 陸奥での任期を終え、下総へと戻って間もなく、「百足」を名乗る常陸の土豪が他国より追われた一門の受け入れ嘆願に訪れたことがあった。その中に彼と、後に腹心に加わることになる若き玄茂の姿を垣間見た記憶が過ったのである。


――この父にも、俘囚と都人と見分けがつかぬ!

――まったく、何のために柵で囲い関で塞いで俘囚と東夷と区別するのか、……もうこの父にもよく判らぬようになったよ


 幼少の自分を抱えながら、そう呟いていた父の顔がまた過る。

(……思えば、あの出来事以来叔父達との仲が急に険悪なものとなったのであったな。美那緒とも殆ど会うことが許されなんだ)


――よいか。もしそなたが父のように大きくなったら、その時は……


(……あの時、父は俺に何と言っていたのか)

 遠い記憶がめくるめく将門の視界に、また別の真っ赤な炎の波が飛沫を上げて波打った。



「――とくと御覧じろ! これが幾星霜に亘り東夷と虐げられし者達の怒りの炎そのものじゃ! 都人共への憎しみの炎じゃ、まさに地より出でて天を焦がす程のな!」

 そう言って高笑いを上げる玄明の背後の階下には嘗てない阿鼻叫喚の火焔地獄が広がっていた。

 天慶二(九三九)年霜月、常陸国府。

 今まで彼が潜り抜けてきた復讐に連なる炎の比ではない、坂東全ての憎悪が集火した暴虐の炎嵐、この世に業火を顕した様であった。

 或いは劫火とも言い換えるべき焼け崩れゆく市街地の様子を見下ろし立ち尽くすばかりの将門従臣らを前に、まるで己の言葉の反応を伺うかのように玄明の哄笑が響き渡る。

 いや、彼が見ているのは将門である。

 いや、彼だけではない。いつしかその場の皆が将門を一心に見つめている。

 合戦の果てにこの世の地獄を生み出した彼を責めているのではない。

 火焔地獄に生きながら放られた市井の民達を救ってくれよと懇願し、次の指示を期待しているのでもない。

 皆が玄明と同じ眼差しで、この悪夢が如き光景を目の当たりにした主の反応を、その顔色を窺っているのである。背後で口元を抑えていた彼の妻さえもが、真っ白な表情で主人の萎烏帽子の向こう側を見つめている。

(……成程。あの時、俺はこんな顔を浮かべていたのか)

 黙したまま炎上げ黒煙立ち昇る光景を見下ろすばかりの自身の前に回り込み、その顔を覗き込んだ将門が内心で溜息を吐く。拳握り締め、眉間の皴も深く唇噛み締める顔は普段のままであった。――いつからであろうか。これが普段顔となっていたのは。

 だがこの時の将門の心は皆の注視を受けていたことに気づかぬ程に無防備であった。

 その裸心に確とした思いが芽生えたのである。

 ――坂東の炎を、皆を照らす灯火に変えねばならぬ

 この時から、彼の戦いは身内の小競り合いから全ての弱き者達の為の闘争へと変わった。


 ――坂東の未来の為、たった今より叛き奉る!


 それはまさに天下へ向け初めて上げられた坂東の戦狼煙に他ならなかったのである。

 ……いつからであろうか。まだ引き返せるものと思っておった。それが引き返せぬところまで深く踏み込んでしまったのは。

 


 また舞台が一転する。しかし将門は未だ紅蓮に巻かれたままである。

 志を同じくする仲間達も続々と馳せ加わり、意気揚々と道を共にした彼らを待ち受けていたのは思いも寄らぬことに、彼らが其の為と立ったはずの民衆達が朱の血に染まり骸と転がる一面の寒々しい雪原であった。

 そして、またもや人々の営む安寧は図らずも将門の手によって焼き払われたのであった。

 時に天慶二年の年の瀬。二つの火焔地獄を描いた果てに彼は遂に新皇の叙任を受け東国覇者の座に着いたのである。

 ……いつからであろうか。途方もなく続く戦火に焼け爛れた道に眩暈を覚えるようになったのは。

(……いや、俺はいつも道に迷うてばかりであったよ。その度に俺の傍らで寄り添うてくれた者がいた)

 それは懐かしき思い出の中の人々であったり、頼もしき配下の者達であった。

 そして、決死の逃避行の末に攫い出した愛しき者であった。


 ――御心配事がおありなら、どんなことでも、妾にお打ち明けくださいませ


(美那緒よ……)


 ――こうして萩野とぴったりくっ付いておれば大層温こうございまする


 そう言って健気に笑ってみせるが、その両掌を取ってみると凍えるように冷たかった。


 ――親不孝は、これが初めてではありませぬ故!


 そう言って勇ましく鉾を振るい互いの背中を護り合ったこともあった。


 ――実は、……子を授かったかもしれませぬ


 結局、その子を抱いてやることはできなかった。


 ――主様、どうか御無事で!


 そう涙を流すのを葦津の江で見送ったのが最後の姿であった。……そう思っていた。


 ――……ごめんなさい。ごめんなさい。うあああああん!


 ……なぜ、謝る。なぜ、泣いておる? 死んだとばかり思っていたものを、再び逢えたというのに。


 ――ごめんなさいっ!


 ああ、また泣いておる。何故謝るのじゃ。なぜ俺の元から走り去ってしまう。

 

 美那緒。……美那緒よ。

 何処へ行ってしまうのじゃ。


 伸ばしたまま宙を切りそうになった彼の手を、そっと握り返す感触があった。


 

 ――いつまでも、こうして貴方の肩越しから、その行く末を見つめていとうございまする



 ……。



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