第2章 除目式 3


 

 ――便ち左右の大臣、納言、参議、文武百官、六弁八史は皆以て点定し内印外印は、鋳るべき寸法、古文正字を定め了んぬ。但し孤疑すらくは暦日博士のみ。


 以上、除目の式典が厳粛の内に幕を下ろすと、引き続き新年の祝いを兼ねた祝宴となった。坂東のまさに門出ともいえる新たな年の幕開けとあって、前段までの厳かな場面から一転し、取り仕切る興世王や玄茂らの声も軽やかに弾むような大層華やかな宴であった。



 同刻。


「……何で隣に座るんだよ?」

 何のつもりか隣に腰を下ろした吹雪に、顔を伏せたまま涙声でシロが尋ねた。

「どうした、泣いておるのか? 向こうの方は大層賑やかだぞ。宴の傍らで泣く奴がおるか」

 決して揶揄うでもない、かと言って同情的な口調でもない淡々とした問いかけなのだが、この娘なりに気遣っているつもりらしい。

「うるせえや! おめえに慰められる筋合いはねえ!」

 鼻を啜りながら膝頭に顔を埋めるシロが自棄っ八気味に吐き捨てる。

「泣くなら胸を貸してやらぬでもないぞ?」

 言う程大して豊満でもない胸をポンポンと叩いて見せるが、シロは顔を伏せたまま「余計なお世話だ。とっとと失せやがれ!」とにべもなく怒鳴りつける。

 と、突如吹雪がガバっとシロの頭を胸に抱きかかえる。

「うわっ⁉ だから余計なお世話だって――!」

「しっ……!」

 真っ赤になって声を上げかけるシロを吹雪が唇に指をあて黙らせる。

 そこへ、ほろ酔い心地の来賓二人が千鳥足で近づいてきた。服装と口振りから推察するに他国から訪れた知り合い同士の土豪らしい。

(……おい、隠れる必要あんのか。あいつら宴の客だろ?)

(あの手の地頭が酒に酔うて絡んでくると面倒じゃ。何をされるか知れぬ)

(わかったから離せって!)

 聞こえているのかいないのか、顔に胸を押し当てられ藻掻くシロの頭を抱えたまま吹雪は中々離そうとせぬ。

 何やら猥雑な世間話を交わしながらシロたちの隠れる茂みの傍まで歩み寄ると、植え込みの傍で二人に背を向けて足を止め、並んで立小便を始めた。

 もくもくと白い湯気が立ち上るのを見てシロが顔を顰める。

(行儀の悪ィ連中だなあ。厠行け厠!)

(おまえもよく納屋の裏で用を済ませているではないか?)

(……おめえって奴は、どこで見てやがった⁉)

「いやはや、期待外れも良いところじゃ。諸官の除目、諸国は自分の身内ばかりで固めた挙句、以下は現行のままとする、とは」

「然り然り。わざわざ伊豆から遠路はるばるこんな山奥まで足を運んだというのにのう」

「まったく、呑みで元を取らねば収まらぬ!」

 どうやらこの二人、坂東の覇者の座に収まろうとしている新皇の威勢にあやかってお零れに預かろうと、呼ばれもせぬのに参上した者達らしい。

 はあ……とおっさん二人が並んで恍惚の表情を浮かべ勢い衰えぬ長い放尿を続ける見苦しい様子をこれ以上行数を裂いて仔細に描写するのは書く方としても躊躇われるところであるが、幸なことに此処が引き時と見た吹雪が漸く抱きかかえていたシロを解放する。

(……今じゃ、逃げるぞ)

(ちょ、ちょっと待てよ!)

(何を屁っ放り腰になっておるか。気づかれぬうちに早く行くぞ!)

 と、最後にぶるぶると何の飛沫を切る土豪二人の後ろから、吹雪は何故か前屈みのシロを引き摺るようにこっそりと逃げ出した。またどうでも良い蘊蓄になるが、当時の酒は現代の清酒よりもかなり糖分が高かったので現代同様生活習慣病(この場合糖尿病)にかかる酒飲みは多かったらしい。


「……ところで、例の官符の話は聞いておるか?」

「ああ、例のな。道中で耳にした。どこまで本当か知らぬが、国府では大盛り上がりらしいのう。どこまで本当の話やら」

「だが本当だとしたら、手柄のある者には永代までの官位と地領が御上から賜れるとのことじゃ。だが見方を変えれば、うっかり此処で新皇様から官位など授かっておったら今に我らまでお尋ね者じゃ。ある意味幸運だったかもしれぬぞえ?」

「いやはや、今後の旗色がどう動くか見物じゃて」

 この遣り取りが耳に届くことがないまま、既にシロ達は営所の奥へと走り去ってしまっていた。



 同刻。


 現代の宴会でもたけなわを過ぎ、そろそろ締めに入ろうかという頃合というものはハンドルキーパーで座に加わっている素面の者や、設定予算に収まるか、収まるにしても余った会費はどの会計予算に繰越したものか思い悩んで酔っ払うどころではない、こんなことだったら少人数でもプランで予約入れればよかった、おいお前勝手に白馬のボトル入れてんじゃねえと一人頭を抱える接待旅行の幹事あたりになれば自ずと判るもので、聊か私情も入り前置きが長くなったが、要するに丁度今がそのような雰囲気なのである。宴席の中にそれぞれ話の合う集まりができ始め賑やかな空気がだいぶ落ち着いた雰囲気となると、そろそろ一旦お開きにしようかと察した玄明が腰を上げ、玄茂の元で耳打ちする。頷いた玄茂が膳を運ぶ雑仕女に声を掛けるところを見ていたほろ酔い心地の遂高が杯を呷りながら主君の方を一瞥すると、相変わらず新皇は穏やかな微笑を浮かべながら引きも切らぬおべっか使い共の酌を受けながら相槌をうっている様子であった。将門自身は酒は飲めぬので口を付けた振りをしながら相手が去ると傍らに避けている。その都度傍に控える侍従の者が下げているが、そのままにしておいたら今頃わんこそばのようにうず高く杯が積まれていたか、幾つも酒の桶が並んでいただろう。

(おやおや、一滴も召されぬ御方は大変じゃ。いや、生半可に飲める御方であればもっと大変であったか。……しかし、不味い御追従を肴に呑めぬお酒を次から次と寄こされて、ああやって終始余所行きのお顔を保っておられなければならぬとは、今日は我が君にとって災難な日になったものじゃ)

 と酔眼をトロンとさせながら暫し感慨に浸っていたが、ふと気づいた遂高がじっと手元の酒杯に揺蕩う波紋を見つめながら考え込む。

(……はて、そういえば殿の素顔を拝見したのはいつの事であったか。思えば、随分前からずっと、殿は我らに対しても余所行きのお顔をされておったのではないか……?)

 何とはなしに酒に渋みを感じた遂高が静かに杯を伏せる。

 それを余所に、新皇の玉座に揉み手しながら銚子を手に擦り寄ってくる者がまた一人。

「新皇様、此度は誠に目出度き日和にございますな」

「おお、公卿殿。貴公も参列されておられたか。気づかずにおって済まぬのう」

 と、知古のような口振りだが実際は何処の馬の骨とも知れぬ相手であった。相手の装束から身分を察しただけである。

「先程からお話を伺っておりましたが、何でもこの石井の地を王都と定められ、やがては王城を建てられるご予定なのだとか。良うございまするな。さだめし檥橋は京の山崎、相馬の大井津は京の大津に例えられましょうぞ!」

「はは、なかなか身辺が落ち着かぬ故いつになる事やら」

「いやいや、我らが坂東の大君の御力なれば、今にまことの京をも制することが出来まするぞ」

「……俺は、そんなことをするつもりはないよ」

「ホホホ、御謙遜を仰られる。我が坂東はまさに猛虎の如き破竹の勢い。いずれ本朝をその座から叩き落とし、我らが仰ぎ奉る新君こそが日ノ本全てを統べられる日も間近にございましょう!」

「……」

 笑みを潜めて黙り込んだ将門の様子に(ありゃ、しくじったか)と流石に感じた某公卿は返杯を待たずにそそくさと引っ込んでしまった。

「殿、そろそろ一旦締めに入ろうかと存じまするが……?」

 杯を手にしたままの将門の背に問いかける玄明であったが、次の瞬間に思わず声を上げてしまった。

「殿⁉」

 おもむろにグイっと杯を飲み干した将門を見た遂高が咄嗟に立ち上がって声を放った。

「皆々様、宴もたけなわではございまするが、此処で一旦中締めをさせて頂きたく存じまする!」



 四半刻後。


「ほらほら、小唄よ。照れるな照れるな」

「にゃう」

「ふふ、きっと殿もびっくりしてよ?」

 恥ずかしそうに扇で顔を隠した小唄を揶揄いながら四人が廊下をぞろぞろと歩いていく。垣根の向こうでは丁度宴もお開きとなったらしく、垣根の向こうから慌ただしい牛車の混雑が聞こえてきていた。

 と、美那緒が向こうの廊下の方に只今来賓達を見送ったばかりと思しき将門が歩いているのを見つけた。

「おや、噂をすれば。ちょっと待っていておくれ」

 三人を待たせて美那緒が将門の方へと足を速めて歩み寄る。

「主様! ……どう、なされたのですか?」

 何やら様子のおかしい主人の様子に美那緒が目を丸くする。なにやら足取りも覚束なく、荒い息を吐きながら柱に手を掛け危なっかしく歩みを進めている。

「大丈夫じゃ。急用か? ……悪いが、少し、疲れたので部屋で休んでくるよ」

 赤い顔に余所行きの微笑を浮かべてよろよろと去っていく。

 その背中を立ち尽くし見送っていた美那緒がスンと残り香に鼻を鳴らした。

(……酒臭いが、呑んでおるのか。飲めぬはずでは?)

 そこへ、慌てた様子で遂高が足音を鳴らしながら走り寄ってきた。

「今ここに殿を見かけなんだか?」

「丁度今通りかかったところじゃ。部屋に戻ると言うておったが、そんなに血相変えてどうしたのじゃ?」

「いやな。殿が突然酒を召されたのでな。あの御方は本当に一滴も飲めぬのじゃ。倒れておらぬかと心配でのう」

 思わず美那緒は将門の向かっていった方を見つめ、三人は揃って顔を見合わせた。



 居室に戻った将門は部屋に入るなり冷たい床の上に大の字に引っ繰り返った。


 身体中が熱い。体中が重い。

 眩暈がする。天井が回っているようじゃ。


 上着の前をはだけ、頭から卸したての冠を毟るように脱ぎ捨てる。冠というのは当時男性の象徴でもあったので滅多なことでは外さぬものである。

 息を荒げながら額の汗を拭う将門であったが、不意に心の底から笑いがこみ上げてきて一人声を放って笑った。


 なんじゃ、俺は酔うておるのか?

 ああ、何だかとても心地良うなってきた。

 ああ、何だかとても、とても、


 とても、疲れた――。


 そのまま、彼は深い眠りに落ちていったのであった。



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