第2章 除目式 1


 

 天慶三(九四〇)年睦月。下総国石井営所、秋保居室。


「ほら、あと少し。もうちょっとだけ辛抱していて頂戴ね」

「にゃう……」

 ぽんぽんと海綿を手に小唄の顔へ白粉を施す秋保の手慣れた様子を胡坐に頬杖ついて眺めていた美那緒がふと思いついたように問う。

「……そういえば、そなたら親子はこの営所に寝泊まりしておるが、他に住まいはあるのか?」

「はい。野田に本宅がございますが、そこには母が住んでおりまする。わたくしと父は住み込みで仕えておりまする。父の邸宅は守屋にございまする」

 当時は専ら男からの通い婚であったため、夫婦が別々に居を構えてるのが一般的であった。ちなみに子供の養育も基本的に母方の実家が主導していたのだという。

 という間に化粧の方が一段落ついたらしい。

「さあ、仕上がったわ。ふふ、素が良いから良く映えてよ?」

 と、嬉しそうに秋保が差し出す鏡を恐々と覗き込んだ小唄が疱瘡痕の見事に消え去った自身の顔を目にして息を飲み、秋保の肩越しにひょいと覗き見た美那緒もまた同じく息を飲んだ。

「これはまた、別嬪じゃのう……」

「折角の可愛らしいお顔だから、眉墨を塗るより眉毛を少し整えてあげるくらいが丁度良いかと思ったけれど、やはり可愛らしい。我ながら良い仕事をしたわ」

 自信作とばかりに秋保が胸を張る。

 この時代の女性の美的感覚では、「眉を剃らないままなのは毛虫のようで見苦しい」「鉄漿おはぐろを付けないのは虫の背中が割れたようで気持ち悪い」という記述が『堤中納言物語』所収の「虫愛づる姫君」の中に見られるが、美那緒同様素描を活かした方が魅力を引き立たせるところに目を付ける辺り、流石は秋保の手腕といったところか。

 戸口の柱に凭れて見守っていたコヅベンもまた歓声を上げる。

「おお、おお! 見違えたのう小唄よ。在りし日の小唄の姿そのままじゃ! と言うて二十年以上前の思い出に遡るがのう。秋保殿よ? この若作りは貴殿より若年に見えるかもしれぬが小太郎と大して歳は変わらぬ、実はとうに三十路を過ぎているのだぞ――痛ってえっ!」

「フーっ!」

 一言多い所感を口にしたコヅベンに小唄の怒りの鉄拳が見舞われる。

「というか、何でおぬしがここにおるのじゃ? 女人の部屋ぞ!」

 美那緒もまた呆れたようにその辺にあった何かの長い棒きれで不埒者の頭を小突く。

「痛いのう! さっきからおったわ。小唄が様変わりする様子を見たくてのう。……しかし、御前様よ。何やら今日は随分とあけっぴろげな御振舞いに及んでおられるが、それが素か?」

「あ」

 正体を明かしている秋保と口の利けない小唄という女性同士の集まりだからつい油断していたものである。慌てて居住まいを正すが、コヅベンは大して気に留めなかったようで、

「それよりも、俺が二人してぶっ叩かれるというのなら、あいつは良いのか?」

 ぶっ叩かれた鼻っ柱と頭を摩りながら外を指さすと、所在なさげに中庭に立ち尽くしていたシロと目が合った。

「あ……」

 と秋保とシロが同時に声を上げ、秋保は頬を染めて俯くが、シロは美那緒の視線に気が付いて目を逸らした。

「なんじゃ、昼間から珍しいのう」

「おい、あいつは良いのかよ此処に入っても!」

 納得いかぬと声を上げるコヅベンの抗議を聞こえぬ振りして、

「どうしたのかえ、シロよ。何か火急の知らせか?」

 声を掛ける頭目に、シロは何とも言えぬぎこちない笑みを作り手を振って答えた。

「……いや、たまたま通りかかっただけさ。邪魔したな」

「暇なら上がっていかぬかえ? 見目好いものがみられるぞ」

「悪ィな、ちょいと急ぎのようがあるンだ。また今度失敬するぜ!」

 と、いそいそとその場を去ってしまった。

「ああ……」

 と深い吐息を零しながらその背中が消えていった先を見つめ続ける秋保の何やら切なげな様子に、ふと気づいた三人が暫し怪訝そうに顔を見合わせていたが、やがて、

「……ほう」「……ふむ」「……にゃう」

 と何やら察し顔で頷き合ったのであった。



 話はやや遡り。

「……おい、なんだよ? 柄にもねェな」

 一味が寝食の場としている営所の厩脇の納屋を潜ったシロが、鏡を手にめかし込んでいるネネを見て呆れ顔で呟いた。

「フジマルに貰ったんだ。良いだろ?」

 と、鬢に留めた金細工の小さな髪飾りを指さす。

「なんだ、都土産か? 抜け目ねエな。上洛して早速一仕事してきたのかよ」

「違うよ、買ってもらったんだい!」

 フジマルの方へ目を遣ると、シロに向かって肩を竦めてみせた。

「そんなモンより、その鏡、磨きに出したらどうだい、いい加減曇ってんじゃねえのか? 七夕飾りじゃあるめえし、それじゃあ藪飾りだぜ?」

 当時の鏡は青銅など金属の光沢を利用したものなので経年すると酸化して曇りを生じるため定期的に研師へ研磨を依頼する必要があったのである。

 勿論大変高価であったのでネネのそれは盗品であろう。

 憎まれ口を叩きながら草鞋を脱ぎに掛かるシロの背中に、「……ところでよう」とダンシが声を掛ける。

「おめえ、いつまでこのままでいるつもりだよ?」

「あ?」

 結び目を解く手を止め、顔を上げる。

「俺達ァ一応営所お抱えの馬方って態で上がり込んでるけどよ。その実は泣く子も黙る街道荒らしの僦馬の一党だぜ? このまま此処で蜷局巻いてるわけにゃあいかねえだろうよ」

「は。別にいいじゃねえかよ、このまま此処に置いてもらえるってんならこのままで。飯にも困らねえ。それにお頭が殿様にぞっこん惚れ込んでいるんだから仕方ねえじゃねえかよ」

「それだよ」

 とダンシが指を立てる。

「お頭は殿様にぞっこんなのはわかるさ。でもよ、別に俺達まで殿様に惚れ込んでるわけじゃねえ。付き合い切れねえよ」

「……じゃあ、どうするってんだ? お頭置いて手前らだけで徒党を組むか?」

 振り返るシロの言葉に怒気が籠る。

「力むんじゃねえよ。ただよ、俺達ァ元々自由気ままな浮草暮らしの藁屑みてえな野郎が、流れのまんまに寄り集まって一党作ったような連中だろう? お侍様の堅っ苦しいお抱えは性に合わねえな、って思うのさ。……悪いけどよ、俺は抜けるぜ」

 そう言って手荷物だけ肩に負うと、ダンシはプイッと納屋の外に出て行ってしまった。

「おい!」

 思わずその背に呼び掛けるシロの後ろで、「……悪ィけどよ」とコユウザも荷袋を手に立ち上がる。

「俺もお頭の事は好きさ。あの人のお蔭で今日まで野垂れ死なずに済んだンだからよ。でも、もうついていけねえや。このままついて行ったら、命が幾つあっても足りやしねえ。……悪ィな、シロよ」

 また一人出ていく者を見送ったシロが耐えかねて立ち上がった。

「お前ら、急に一体どういうつもりだよ! 東山道に聞こえた黒裏頭僦馬があっという間にバラバラじゃねえか!」

 シロの怒声にネネがシュンと肩を落として呟く。

「あんたが戻る前に皆でちょっと揉めたんだよ……」

 それに続いて皆が口々に声を上げる。

「そもそも、俺達ァ盗人だぜ。決起だのなんだのに巻き込まれる筋合いはねえ!」

「お頭もお頭だぜ! なに色気づいてんだか知らねえが、俺達置いてけぼりにして殿様に入れ込みやがって」

「言いたかなかったけどよ、お頭ァ、前に一度俺達のこと見捨てて逃げ出したじゃねえかよ。今度ばっかりは付き合いきれねえぜ」

「っ! てめえ、それはもう責めねえことにするって決着つけた話だろうよ!」

 声の主を睨みつけるシロが視線を巨漢の男に向ける。

「フジマル、おめえも同じ考えなのかよ⁉」

 問いかけられたフジマルは、ごろりと藁の上に寝そべりながら気だるげに背を向けた。

「俺はお頭に文句はねえさ。でも戦はもう真っ平御免だ。胸糞悪くて仕方ねえ」

「……っ!」

 唇を噛み締め立ち尽くすシロの傍らに歩み寄ったネネが「あのさ……」と声を掛ける。

「去年、下野の国府をやっつけた後に、御役人を大勢都に送り届けただろう? あのときの御役人達がアタシらに向けた顔、覚えてる? アタシ、今でも忘れられないよ。人でなしの悪事はいっぱいしでかしてきたけどさ、あんな恐ろしい目で見られたことなんて、ない。此処でもそうだろ? 皆アタシらのこと怖がって、この納屋には誰も近づいてこないじゃないか。馬方ってことで通ってるけどさ、きっとアタシらの素性に皆気づいてるよ。このまま此処に居続けてたら、却ってお頭や殿様達の迷惑になるんじゃないかな……?」



 秋保の部屋から駆け去ったシロが、途方に暮れたように庭木の木立に背を預け、その場に座り込んだ。

(お頭、……遂高の旦那に秋保、……殿様……)

 一人一人の名を唱えながら顔を思い浮かべる。最早シロにとっては只の他人ではなくなっていた。

「なあ、どうしたらいいんだよ……」

 独り言ちるシロの顔の上に、不意に夕陽を背にした長い影が被さった。

「おまえこそ、これからどうするつもりじゃ?」

 見上げてみれば、いつの間に現れたのか黒衣の女、吹雪が目の前に立っている。

「……知るかよ。失せろ糞女」

 投げやりな言葉を吐き捨てて顔を伏せるシロであったが、顔を上げぬままに吹雪に尋ねる。

「聞いてたんだろ? ……なあ、さっきあいつが言ってたことって本当なのかよ?」

「未だ確認は取れておらぬ。それゆえに、私も未だ御館様にお伝えしておらぬ」

 そう答えると、吹雪がシロの隣に並んで腰を下ろす。

「……何で隣に座るんだよ?」

 顔を伏せたまま、涙声でシロが尋ねた。


 ……怒りに任せて納屋を飛び出したシロの背中に、誰かが言い放った言葉がいつまでも頭から離れぬ。


 ――シロよ、おめえは聞いたか?

 

 殿様たちの首に、幾ら賞金が掛けられているか――




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