第1章 都の動揺 4


 その年は例年にない酷暑であった。

 序盤でも蛇足になる程当時の気候について触れたことがあるが、余りに暑いが故に寝殿造などという現代では考えられぬような吹きっ晒しの建築様式が考案されたのだという。

 耳鳴りのような蝉の大合唱が陽炎沸き立つ都大路に鳴り響き、川辺で童達が水浴びに興じる横で御者が牛車の車輪が暑さで割れぬよう水に浸している光景が太陽の日差しを反射する水面の漣と相まって色鮮やかに目に映える。

 日差しの強さに通りを行き交う人の姿も疎らで、日陰で汗を拭きながら鰻を商う露天商の盥の中では白い腹を見せた長い物がぷかぷかと浮かんでいる。


「拙者を、……検非違使校尉に推して頂けるのですか?」

「左様。そちの宿願であったろう?」

 突然自室に呼び出されたと思えば、願ってもない提案を申し伝えられ、驚いて声を上げる若者を前に、にやにやと可笑しそうに忠平が笑顔を見せる。

「麻呂だけではない。実朝、師輔は勿論、各諸侯からの推薦状も揃えておる。そちの働き振りを間近にしておったが、なかなかに目端の利くこと、身の軽いこと、文武に秀でておること、申し分なしと見定めた。摂家藤原の当主たる麻呂が太鼓判を押して遣わすのじゃ。誰も異存はあるまいて。後はそちの意向次第じゃが、如何か?」

 は、と若者が息を飲んで膝頭に目を落とす。

 じっと考え込む様子の若者の様子を、忠平は穏やかな微笑で見つめる。

 それあ、悩むであろうな、と忠平は内心で呟く。

(……純朴な若者じゃ。有象無象共のように喜び勇んで飛びつくような真似はせぬであろうよ。悩め、悩むがよい。さんざん悩んだその末に己が行く道を選ぶがよいて。どのような選択を採ろうとも、麻呂は驚かぬ。麻呂はずっと今日までお前を見てきたでな……)

 やがて顔を上げた若者が、ようやく決心がついたと見える強い眼差しできっぱりと答えた。

「……折角の御厚意、誠に感謝申し上げまするが、辞退仕りまする」

「ほう?」

 と片眉を上げた忠平が、さも意外そうに問いかける。

「畏れながら摂関家御当主忠平様の御威光と御手腕は日ノ本に遍く聞こえるほど。誰もが主上の御前に平伏すものでございまする。それは主上の御人徳によるものと存じておりまする」

 深く深く額づいて若者は言葉を続けた。

「その御威光、御人徳は忠平様のものにございますれば、拙者如き者が己の立身出世の為に一寸ともお借りするは許されぬ事。或いは、傍の者達にそう受け取られることは耐え難き事にございますれば、我が宿願は我が手で以て掴み取りとうございまする。……何卒、拙者の我儘と思いお許しくださいませ!」

 暫し無言で若者を見つめていた忠平の表情から、いつしか笑顔が消えていた。

「ふむ……」

 ふと立ち上がった忠平が、若者に背を向けてぱちぱち笏を掌に打ち鳴らす。

「……それは残念じゃのう」

 厳しい叱責を覚悟の上で辞退した若者は次にどんな言葉が下されるかと顔を伏せたまま身を強張らせる。

 ふ、と溜息を吐きながら忠平は再び腰を下ろした。

「相分かった。もう下がってよいぞ」

「ははっ!」

 と若者は畏まって一礼し退出していった。

 若者が去った後、暫し物思いに浸っていた忠平が、ふと今まで対面していた相手が座っていた跡に目を遣ると、余程緊張していたものと見え、若者が流した汗でびっしょりと濡れている。

(そうかそうか、だいぶ悩んだようじゃのう……)

 ほほ、と堪え切れずに忠平が笑い声を漏らす。

(よく影からひそひそと聞こえてくるが、巷間では麻呂を袖の下でしか相手の器量を認め得ぬ業突く張りの狸爺との結構な評判じゃが、そら仕方あるまいて。所詮袖の下で擦り寄るばかりしか能のない輩など、袖の下の大きさでしかその器量を図ることは出来ぬからのう。だがこの若者は惜しい逸材じゃ。生真面目にも復とない好機をまさに袖にしてみせるとは。その一本気では狸だらけの宮中をこの先一人渡り行くことはさぞ難しかろうて。とはいえ――)

 遠くで遠雷が鳴っている。間もなく夕立が降るであろう。漸く少しは涼を取ることが出来そうである。

(……我が子らは良き友を得、我は良き倅を今一人得たり、か。小太郎よ、お前の行く道はきっと長いものとなろう。せいぜい己が道に迷うでないぞ!)


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