第1章 都の動揺 3
その年の冬は例年にない厳冬であった。
その分春の訪れの喜びもまた例年に勝るものであった。
都大路の板葺きの屋根からすっかり雪が溶け落ちる頃には、搔き集められた残雪の間を掻き分け蕗の薹が顔を出す。
四季の趣に最も
「んんー。……梅」
ほほ、良き哉。と自邸の中庭で可憐な白い花を綻ばせる白梅の大木を渡り廊下にてふと足を止め眺めていた忠平が感嘆の吐息を漏らす。この日は朝から汗ばむほどの陽気で、一足早い衣替えを済ませた忠平は、厚ぼったい冬着から糊の利いた薄手の上衣を卸し立て大変に上機嫌であった。
「主上、おはようございまする」
「閣下、ご機嫌麗しゅう」
廊下を行き通う者達も主の姿を目にして畏まる。彼らはこの摂関家当主の邸宅に仕える者達である。側近から下仕えの者に至るまで宮仕えの礼儀作法を叩き込まれた名門の子弟子女達で揃えられている。とはいえ、やはりこの暖気のせいか、いつになく彼らの笑顔も浮き立っているように見受けられる。
うむ、うむ、と忠平も満ち足りた面持ちで彼らに挨拶を返す。当時の宮仕えの人々に現代のような土日祝日の概念はないが、この日はこれと言って登庁の用向きがない故非番である。折角の休日、春の陽気に誘われるままに外へ遊びに行くのも良いが、たまにはゆっくり自邸で過ごすのも悪くはあるまい。
「んんー。……おお、名案が浮かんだぞえ!」
梅に見惚れていた忠平がパンパンと手を打ち側仕えの者を呼びつける。
「御前に」
間を置かずに壮年の侍従が現れ平伏する。
「良き梅じゃ。まだ日は登り切らぬが梅を愛でながらゆるりと酔い心地に浸ろうと思うのじゃ。こちらに
「成程。見頃でございまするな。早速――あ痛!」
突如ぽん、と後頭部に何やらもふっとした物が当たり、何事かと老侍従が後ろを振り返ると転がっていたのは蹴鞠である。
「はて、何処から飛んで来たものやら……」
不思議そうに二人が辺りを見回すと、池の向こうの垣根の後ろが何やら騒々しい。
忠平達が足を運ぶと、広い中庭の片隅で若者ら三人が何故か半裸になって息を荒げて引っ繰り返っていた。
「わ、若様ら! それと、お前は、……誰であったか?」
「将門じゃ」
目を剥く侍従に傍らの忠平が言い添える。
「主上!」
主の姿を認めた若者の一人が汗を滴らせながら飛び起きて膝をつく。
「これ、
相手が若輩の侍者と知って欠礼を咎める侍従を、「ほほ、良い良い」と宥めながら忠平が問いかける。
「将門よ。只今の蹴鞠はそちが飛ばしてきたものかえ?」
「はっ! 失礼仕りました!」
「ほほ、見事。良き蹴りじゃ」
大貴族の邸宅においては型破りな若者の振舞いに目くじらを立てるでもなく笑う主に、若者は目を輝かせて顔を上げた。
「蹴鞠という遊びを若様達に初めて教えて頂きましたが、面白うございまするな!」
筋骨隆々たる若者の弾んだ声の後ろで、未だゼイゼイと汗だくで喘ぐ貴公子二人が漸く身体を起こす。
「……将よ、遠くに蹴り飛ばすにもほどがあるぞえ?」
「駄目じゃ。もう……ついていけぬ!」
現代の一般的な球技のボールと違って全く弾むことのない蹴鞠の鞠を地面に落とさぬよう順繰りに蹴って回していくというのは存外に脚の筋力を使う遊びであるが、この二人は仲の良い公達の中でも
「……あのな将よ、蹴鞠は鞠を如何に地に落とさずに次の者へ上手く回すかが肝じゃ。そう言うたじゃろう! ……こんな際限なく回しの輪を広げる奴がおるか!」
いつの間にか雅やかな蹴鞠がセパタクローと化したことに喘ぎながら実朝が文句をつける。
「日頃歌や
「……父上、そのお話はまたいずれ」
お説教が長くなりそうだと察した師輔が手を上げて遮る。
やれやれと息を吐きながら侍従が口を開く。
「将門とやら。主上が笹葉を御所望じゃ。すぐに御厨へ支度を伝えて参れ。実朝様も師輔様も、そろそろ上衣をお召くだされ。御風邪を引いてしまわれますぞ」
「はっ! 直ちに!」
と額づいた若者が慌ただしく上着に袖を通しながら走り去っていく。
「実朝よ、師輔様よ」
「は」
侍従も支度に去っていった後に、忠平が息子二人へ声を掛ける。先程よりも尚一層上機嫌な笑みを浮かべている。
「ああいう者を本当の友と言うのじゃ。得難い宝ぞ。慈しむことじゃ」
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