第1章 都の動揺 2
同月十七日、夜半。太政府正門前。
深い深い嘆息を吐き散らしながら庁舎を後にする壮年の男の、見るからにしょげ返った様子を心配した太政官侍従橘篤胤が小走りにその背中を追いかけていく。
定時はとうに過ぎており、規則として門を開けることはできぬと相手の身分に恐れ入りながらも頑として首を振る守衛の兵卒の前で肩を落とし、広大な舎庭を挟んでだいぶ離れた裏門の方へとぼとぼと足を向ける老公家に声を掛ける。
「公卿様!」
呼びかけられて振り向いた老人――参議藤原忠文が相手の姿を認めると無理に作ったような笑みを浮かべる。
「……これは外記殿。貴公もこんなに遅くまで残務とはご苦労な事じゃ」
「この度におかれては御災難でございました。御心中お察し申し上げまする」
「はは。何を申されるかと思えば。皆目出度き栄転じゃと言葉を尽くして祝うてくれておるというのに。……そう言ってくださるのは貴公だけじゃ」
は、と忠文は再び溜息の塊を吐いて表情を曇らせる。
「まったく、とんだ貧乏籤を引かされたものじゃて……」
話は数刻前に遡る。
いつものように定刻を過ぎるまで続いた東西の動乱対策についての協議が漸く一区切りにまとまりがつき、銘々が席を立って帰舎の支度に掛かろうとしているところを忠文一人だけが座に着いたまま、
「……閣下、一寸ばかりお時間を頂戴して宜しいか?」
と退席しかけていた忠平を呼び止めたのであった。
「おや、右衛門督殿が改まってお話とは、一体どのような御用なのかな?」
と、空とぼけた様子で座り直す上司の態度に、端で見ていた篤胤は胸の内で悪態吐いたものである。
(まったく相変わらず狸でおられるのう。この御老公が折り入って話があると言えば決まっておるではないか。それも、まだ正式に任命もされておらぬ上に、本人も承諾を渋っておられる肩書で呼ばれるとは、なんと嫌らしい言い草じゃ!)
と後ろで侍従が顔を顰めているのにも気づかぬ忠平に、忠文は改まって平伏し口を開いた。
「此度の内定につきましておじゃる。儂も大変懊悩いたしましたが、やはりこの老体には荷が思うございまする。何卒、別の御方に御命じ願えぬものでござりましょうか?」
額づいて懇願する老公家を前にして「ほほ、なんじゃ貴公、まだ悩んでおられたかえ?」と事も無げに忠平が笑う。
「既に満場一致で決定したことであろう。明日には御内裏にて叙任の式典も整えられておる。今更そなたがが駄々を捏ね訴えたところで翻らぬぞよ?」
小馬鹿にした気配すら感じられる摂関の口調に忠文は尚も食い下がる。
「誠に名誉なことと心得ておりまする。しかし、なればこそ、斯様な誉ある務めは御君御子息の何れかに御任命あそばされるが相応しいことと畏れながら意見具申致しまする」
呵々と笑いながら忠平はひらひらと掌を振り首を振る。
「ああ、ならぬならぬ。実朝も師輔も歌を詠むのが巧いばかりで弓馬の方はからっきしじゃ。とてもあれらでは務まらぬ。それにひきかえ、そなたは若い頃から馬の名手として名を知られていよう。そなたのような老練なる達者でなければ野蛮な東夷の蔓延る過酷な坂東の地での戦いに到底耐えられまいて」
殊更に「野蛮」「東夷」「過酷」「坂東」という単語を強調して諭す忠平の後ろでまたもや篤胤が顔を顰める。
「宜しいか参議殿、いや、征東大将軍閣下よ? 麻呂は貴公の眩い経歴を買った上で老年の栄誉として餞を添えてやろうというのじゃぞ? 要らぬお節介と思うかもしれぬが、どうか麻呂のささやかな気遣いと思うてあまり悩んでくれるな。明日はそなたが佩刀される晴れの姿を拝見できることを楽しみにしておるぞよ」
そう言ってさっさと席を立ってしまう忠平の背中にこれ以上縋る言葉も見つからぬまま、忠文はただ顔を伏せうなだれるばかりであった。
「我が主上も言い草というものがおありであろうに。……ああいう御方じゃ。何卒お気を悪くなさりませぬよう。決して公卿様に対して他意あっての振舞いではありませぬ故」
「存じておる。貴公もあまり気に病まれるな。しかし、儂も貴公ほどの若い頃ならいざ知らず、今では六十八を数える歳じゃ。坂東の乱に出立したら最後、二度と都の地を踏めぬのではないかと、そればかりが案じられるのじゃ。年寄りの例に漏れず、儂も我が子や孫らの行く末を見届けることばかりが楽しみじゃでな。この度の務め、東国の荒土に屍を晒すとも、せめて子孫らの栄達に花を添えてやれるほどの褒賞を土産に出来ればと、儂の望みはそれだけじゃ……」
顔は笑みを湛えているが、見ている篤胤が堪らなくなるほどの悲壮ぶりである。
実際に坂東近辺では将門の叛乱に呼応した暴動が頻発しており、太政府の使いとして派遣された官符使一行が駿河国で争いに巻き込まれる事態も発生していた。平時でさえ未開の僻地として都人に忌み嫌われている坂東は今や極めて危険な紛争地帯と化しているというのが宮中の認識であった。その火中へ後ろから尻を押されて突き落とされるというのだから忠文にあらずとも実質「お国のために死んで来い」と命令されたに等しい心境であろう。
「いやはやまったく、この度の騒動で喜色満面に笑っておるのは例の武蔵国介の男だけであろうて」
東国の叛乱対応の為急遽打ち立てられた俄か対策が行き詰まりを見せ、誰もが次の対応に追われて駆けずり回り、中には神仏頼みの他に縋るもの無しと自棄気味の態度を決め込む者も現れる中、一人特別恩賞を得たのが、かつて武蔵野国足立郡の一件にて将門や興世王らと一悶着を起こした末に都へと逃れてきた元国介、源経基であった。
都に着くや否や「将門及び興世王に謀叛の気配あり」と鼻息荒く訴えたものの、将門の迅速な根回しにより結果的に将門の潔白が認められることとなり、一方の経基は偽りの訴訟によって中央を騒がせたことをこっぴどく責められることになったという経緯は以前にも触れたとおりである。
ところが、発端は別にあるとはいえ現実に将門が叛乱を決起したとなるや否や、打って変わって経基の先見の明が大いに称賛され、さる一月九日付で従五位下(※太政官位で例えるなら少納言相当)の官位を叙されることとなったのである。
(……それもこれも、憎らしいのは坂東の蒙昧な賎民共よ。東夷の争いなど、東夷同士で相争えば良いだけの事ではないか! よりによって老い先短いこの儂が、殿上人として築き上げた身代を野蛮人の跋扈する地の果てで散らすことになろうとは! 忠平奴、自分で決めたのであれば己のドラ息子のうちどちらかを仕向けるのが示しというものであろうに!)
胸中でぶすぶすと黒い炎を燻らせている老公家の本心を、手燭を手に先導する篤胤が知る由もなく、やがて二人は裏門へ到着した。
守衛の敬礼を受けて門を出た後も、忠文の悲嘆振りにいたたまれず、暫くの間篤胤も帰路の途中を伴にしたのであった。
明くる十八日、右衛門督兼征東大将軍の叙任と同時に中央軍総司令官として将門の乱鎮圧を命じられ、忠文はこれを謹んで拝命したのだが、余程気が進まぬものであったらしく出立を渋りに渋り、ようやく彼が節刀を佩いて都を発ったのは翌月八日、まさに東国大叛乱の雌雄が決しようとしている頃であった。
これより少し前、一月十一日付けを以て中央政府は東山道並びに東海道諸国に向けて将門逮捕の官符を下令した。
魁師将門、並びに副将を討ち取った者は身分を問わず高位高官の位に加え広大な田畑と領地を与え、他にも武勲秀でた者らにも莫大な褒賞を約束する、というものであった。
この官符は瞬く間に街道近辺の諸国官吏に留まらず坂東各地の有力勢力にも伝播し、国府のみならず将門贔屓の土豪や富農すらもその首に掛けられた褒賞にたちまち眼の色を変えることとなった。
……この己を取り巻く情勢の変化を将門らが知ることになるのは、彼らの明暗が分かれた後になってからの事である。
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