第1章 都の動揺 1
天慶三(九四〇)年、睦月。
――仍って京官大いに驚き、宮中騒動す。
この年、京の宮殿、並びに官庁は実に異様な年明けを迎えていた。
まず例年であれば宮中にて新年を寿ぐはずの雅楽の音が聞こえぬ。代わりに耳を騒がせるのは仰々しく共を引き連れ引きも切らぬ高僧らの牛車の輪の軋みと、陀羅尼や祈祷の暗鬱な合唱である。
都大路に目を遣れば、初市の小間物を路地に並べる露商と初売りで賑わう晴れ着の都人らの姿が見当たらぬ。代わりに矢鱈と目に付くのは厳めしい甲冑姿の武夫らの行列と騎馬の群れ、そして慌ただしく官舎の使いに走る舎人らの吐く白い息である。
新しき年の初めの初春を祝う者達の浮かれ騒ぎの代わりに、辻々の影で憚るようにひそひそと囁き合う者らの姿、一人声高に末法の到来を解く高野聖と、その周りに集い鬱々とした顔で手を合わせて祈るばかりの無言の群衆が冬曇りの下で寒々しい。
西の海賊、北の蜂起。そして新たに熾った東国の大乱に、都の下々から高みの殿上に至るまで、天慶三年は新年の祝賀とは程遠い年明けを迎えていたのであった。
斯くの如き異様な空気に満ち満ちた洛中の政所もまた嘗てない緊張感に包まれていた。慌ただしく足音立てて殿中の廊下を使いに急ぐ官吏達の粗相振りに平常であれば目くじら立てる殿上の貴人らもまた別に迫る危機に神経を尖らせており、普段の雅な所作も忘れ顔色変えて執務室を飛び出していく殿上人も見受けられる。
肩を怒らせ足早に退出していく背中を、入れ違いに入室しようとした男が怪訝そうに振り返る。
(今のは弾正の清原公か? ……随分と血相を変えて出ていかれたが)
首を傾げながらも御簾で仕切られた一室――摂関執務室の前で低頭し「推参仕る」と声を掛ける。
「篤胤か? 良いぞ」
中から聞こえる声に畏まって入室すると、細工の見事な文机の前で、福々しい顔に眉を寄せ書状に目を落としていた大変恰幅の良い貴人が顔を上げる。
太政大臣、藤原忠平。中央政府の頂点に立ち、全ての執政を振るう人物である。
「只今大納言様とすれ違いましたが、何やら只ならぬご様子にお見受けいたしました。一体何事でございまするか?」
畏まりながら面を上げて問いかける侍従に、長い溜息を吐きながら書状を示して見せる。
「これじゃ。この文を手土産に麻呂を問い詰めてきおったのじゃ。随分鼻息荒げてな。態良くはぐらかしておったら頭から湯気を生やして捨て台詞を吐いて出ていきおった。若造奴、すっかり辺りの空気に当てられておる」
「文でございまするか。何方からの文にございまするか?」
「聞いて腰を抜かすなよ? ――将門じゃ」
思わず篤胤は息を飲み、周りに聞き耳を立てる者がないかと見回した。
――本皇、位を下りて、二の掌を額の上に摂りて、百官潔斎して、千たびの祈りを仁祠に請ふ。
即ち、本皇――朱雀帝自らが玉座を降りて朝敵将門の頓死頓滅、邪滅悪滅を神仏に祈り、加えて百官に精進潔斎を命じた上、山々の高僧、諸社の神官に修法、祭祀の詔を下したのであった。この前代未聞の大規模な調伏は十七日間にも及び、都周辺は護摩やら香やら何やら判らぬ臭いものが焚かれる煙と匂いで霞むほどであったという。
そんな今や泣く子も黙らせ年寄りも震えて小便を漏らすような大逆人の名前をさらりと出して自分宛ての文まで見せてくるものだから、篤胤が思わず目を剥いたのも、また洛中の監察を司る大納言某が青筋浮かべて押し掛けてくるのも無理からぬことである。
しかし、
(……待てよ?)
ふと思い出して改めて篤胤が問いかける。
「……そういえば、将門は以前閣下の元で仕官していたと聞いたことがありまするが」
「そうじゃ。なかなか気の利く純朴な若者であった故よう覚えておる。検非違使尉の任官を望んでおったようじゃが、世の中とは世知辛いものじゃて。望み叶わぬまま故郷へと帰っていったが、……まさか斯くなる大それた騒動を起こすとはのう」
気の置けぬ腹心を前に寛いだ様子で肘掛けに凭れ暫し思いに耽る忠平であったが、やがて首を振りながら再び深い溜息を吐いた。
「以前も嫌疑を掛けられたことがあり、その際は自ら麻呂の前に出頭し誠意ある申し開きを見せた故なんとか取り繕ってやれたが、……今回ばかりは麻呂の手に負えぬ。今朝届けられたこの陳状も興を引くものであったが、如何に昔可愛がっておった奴とて今となっては大君を脅かす敵じゃ。何とも切ないことじゃ……」
と哀し気に目を伏せてみせる忠平の様子に、篤胤は内心で鼻を鳴らしていた。
(……全く、大した狸振りじゃ。そうやって、今までも摂関家の力を以て政敵を破滅させてはこれ見よがしに大層同情的な素振りをなさって見せてくださったものじゃ。件の将門にしても、自分に袖の下を使わぬから出世させてやらなかったのだろうよ。前回はたんまり貢物を担いで来たから目溢ししてやったに違いない。だが陳状一枚の紙きれでは俺は動かぬぞ、と、この御方はそういう御人柄じゃ。この度も年の瀬に坂東から知らせが届いた際は先頭きって矢倉の増設や追捕使の任命を指示なさって御自分の存在感をここぞとばかりに示されておられたが、結果はどうじゃ。却って洛中の混乱を煽っただけではないか!)
将門決起並びに坂東三国陥落の知らせを受けた宮中では、折しも忠平の還暦祝いが催されていたところであったが、伝えを受けた忠平は即刻祝宴を中断の上、毎年恒例であった新年の大宴の中止を命じたのである。更に将門勢の侵攻への備えと宮中に溢れかえる不安を除くため、宮殿に四つの矢倉を増築することを取り決め、その上皇宮常備兵の再編と東国追捕使を任命し、坂東への派兵を下令するなど、目まぐるしい采配を振るってみせたのであった。
ところが、突貫工事で矢倉は建てたものの、肝心の常備兵がまるで使い物にならない程弱体化しており、兵の再編どころではなかったのである。当時の京の治安は最悪の状態であり、余りに犯罪件数が多すぎた為、太政府の命により検非違使の増強が図られていたが、ならず者か食い詰め者しか集まらず、全く取り締まりの用を為さなかったという。皇宮の兵らも似たようなもので、将門勢が既に碓氷、足柄の関まで迫っているなどというまことしやかな噂が流れるや皆一目散に逃げだしてしまう始末であった。
おまけに、東国追捕使のうち何名かが、やれ兵が集まらぬ、やれ身体の調子を崩したなどと言っていつまでもぐずぐずしているものだから任命早々に解任されてしまうという為体である。
「……ところで、おまえも麻呂に何か用事があって参ったのではないか?」
「は。参議諸官より、西国の動乱に就いて意見申し上げたく、協議の場を設けて頂きたい、との求めにございまする」
「なんとなんと。西も東も大騒ぎとは、目が回るようじゃのう」
と零しながら大儀そうに身を起こすと、文机に置かれた螺鈿の文箱に陳状を仕舞う。
文箱に紐で封をしながら、ふと、
「……済まぬのう」
「どうかなされましたか?」
首を傾げる侍従に「いや。今参ると伝えておいておくれ」と申し付けると、再びどっかと肘掛けに凭れかかり侍従の退出を見送った。
(……済まぬのう、小太郎よ。この度ばかりは、麻呂はお前の力になってはやれぬ)
只今忠平が目を通していた将門筆とされる陳状の日付は、天慶二年十二月十五日と記されている。
それは上野国府が降伏した日と同日であり、将門が新皇の位を受ける四日前に
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