冥道
気が付けば、真っ赤な地の上を当てもなくさ迷い歩いている。
……いや、これは土の色か? 見上げれば昼か夜か、夕焼けよりも九層倍に強い朱の色である。地か空か。その判別がつくのは丁度天地の境界に山とも林ともつかぬ漆黒、いや深黒とでも呼ぶべきか、それが余りに黒く深い影が鋸刃のようにギザギザと真横に地平線を引いているからである。目に痛みを覚えるほど不協和な赤と黒の色彩に眩みを感じ堪らずにその場に蹲りかける。もし何かのはずみで倒れ伏せようものなら二度と上下の区別が効かなくなるのではないかという埒もない恐れが胸を締める。
そして、別に悩ませるのがこの耐え難い悪臭である。
饐えた匂い。腐臭である。それも腐り始めたばかり。腐り果てれば何れ匂いは落ち着くものだが、腐り始めたままいつまでも粘り膿を滴らせやがて元の形を崩そうともまた別の形に崩れ続け際限なく腐り続ける生き地獄の病の如き腐臭である。
……はて、生きて地獄とは異なことじゃ。生きながら地獄以上の地獄を味わうならば、死んだ者は皆極楽行きと決まっておる。生きておるより死ぬが
「――然り然り。此処が本当の地獄という処じゃ」
さてさて知らぬうちに歩が進んでいる。遠近感が狂うてしもうたか。上も下も只々朱一色。目の前は闇より尚深い闇の又さらに闇の奥の暗がりばかりが立ち並ぶ。あれは果たして木か山か。影か現か人か骸か。
「影も現もあるものか。人も骸も此処に来れば皆同じじゃ。どちらも行ったり来たり。判別などつくものかよ。ひと風吹けば骸も再び業深き息を吹き返すのじゃからのう」
からからと笑う声。まるで秋風が髑髏の眼窩を笛に吹くような掠れた笑い声が聞こえる。
「良く来たのう。娘子よ。その若い身空で此処に堕ちるとは、
「……おまえは何者じゃ?」
「儂か。儂は糸車よ。こうして糸を巻き続けて劫を億ほど数えたか知れぬが、そもそも糸が巻き付いておらぬ。巻き終わらねば業を贖えぬ故、再び億劫を数えるばかりじゃ。もう儂が糸車を回しておるのか、はたまた端から儂は糸車の一部分であったかすらようわからぬ。だから儂は糸車よ。娘子よ。糸を持っておらぬか?」
いつの間にどこぞの家屋に上がり込んだか。広い座敷じゃ。目の前では風もないのに糸車が一人で回っている。
からから、からから。
「臭うて敵わぬ。此処は何処じゃ?」
「言うたであろう。地獄じゃ。三界国六道郡五趣郷八難村という処じゃ。地獄も地獄の真の地獄じゃ。娘子よ。その若い身空で此処に堕ちるとは、如何な業を負うてきたものか」
からからと糸車が笑う。
からから、からから。
「臭うて敵わぬ。何処へ行けばよい?」
「此処におれば良い。何処へ行けども同じじゃ。違うかえ? 儂を見い。廻っては戻る。巡っては元通り。ひと風吹けば骸も人に戻り、
不意に温い風が吹く。ひと肌程の温い風じゃ。不意に背筋を触れられたような、薄気味悪い風が吹く。
香の匂いを含んだ風じゃ。しかし仏に焚くような潔い白檀とは程遠い、黴が生えこれまた腐りかけた抹香の風である。
「これは堪らぬ。今までよりも質が悪い」
顰め面が可笑しかったか、糸車がまたからからと笑う。
からから、からから。
「遥か彼方の浄土から吹き下ろす風じゃ。これでも皆有難がるのだぞえ?。 しかし、皆、次には泣きながら嘆くのじゃ。ああまた人を繰り返すのか、骸の方がまだ益しじゃ、とな。娘子よ。糸を持っておらぬか? 糸を紡がねば、儂も億劫を繰り返すばかりじゃ」
「糸。……糸ならあるぞ」
袖をまさぐり、繕い用の糸束を差し出すと、今まで糸車だとばかり思うていたのは干からびたされこうべであった。
からから、からから。
「此処は何処じゃ……?」
歩けども歩けども留まっているのと同じである。
ともすれば浮いているのか這っているのかともつかぬ気さえする。
朱の空。
朱の土。
行けども行けども目の前は暗闇の地平線ばかり。
ふと見上げれば朱。
ふと見降ろしても朱。
ふと気づいて足を止める。
「……鏡じゃ!」
地が空を映しているか。或いは空が地を浮かべているか。
「……そうじゃ。此処は鏡地獄じゃ」
それは誰が言ったか。己の言葉か。
足を止めていたはずが、また場面は変わっている。
朱の地面から人が生えている。
いや、人が地面に沈んでいる。
すぐ先に、朱に焼けた鎖で両腕を繋がれ吊るされた男が、苦悶の呻きを漏らしながら朱の海に沈んでいる。
そうか、これは地ではなく血じゃ。血の池じゃ。男が流した血の池じゃ。
血の池の上を渡っていたのじゃ。
「おまえは誰じゃ……?」
「……何を言うておる? ……俺じゃ、俺はお前の事を良う知っておるぞ……」
「俺はお前の事など知らぬ! 会うたこともないわ!」
思わずそう叫んだ美那緒がハッと息を飲んだ。
「……まさか、将門――主様でございまするか?」
「そうじゃ……。俺は今、己の殺生のみならず決起により臣下が犯した悪行までをも一身に咎を受け、只一人冥道を巡り回されておる。或いは剣の山に追い立てられ、或いは焼け爛れた鉄に放られ臓腑まで焼かれてな。……嗚呼、辛い、苦しい! もう耐えられぬ、もう耐えられぬのに死ぬこともできぬ! ひと風吹けば生き返り、無限に業が繰り返されるのじゃ! ……美那緒、美那緒は何処におるか? 獄卒に眼を抉られ、何も見えぬのじゃ!」
「主様! 今助けに行きまする!」
堪らずに駆け出そうとする美那緒の行く手を遮るように突如女の背中が立ち塞がった。
「主様、美那緒は此処に居りまする」
後ろ姿の女が、苦しみ悶える将門にそう答える。
「違う! 美那緒は俺じゃっ! 主様、この女は偽物でございまする!」
「――嘘……」
女の背中がぽつりと答える。ぐっと美那緒が言葉に詰まる。
「嘘ではない。俺が本物の美那緒じゃ!」
「あなたが偽り者ではないというなら、この子を抱いてやることもできぬまま葦津の江で死んでいたはず」
そう言いながら女がゆっくりと振り返る。胸に赤子を抱いている。
「あなたが本物というなら、あなたは死んでいるはず」
「違う……。俺が美那緒じゃ。おまえが本物の美那緒というなら、俺は、……誰じゃ?」
「――嘘……」
「……違う。俺が美那緒じゃ。俺が本物の美那緒というなら、……おまえは、誰じゃ?」
――そうじゃ。此処は鏡地獄じゃ。
からから、と、鎖に繋がれたまま将門が笑う。
からから、からから。
「妾は、美那緒じゃ――」
そう言って振り向いた同じ顔の女が笑う。
「――妾は、おまえじゃ」
からから、からから。
「――っ! ……はあ、はあ……っ」
己の呻き声に驚いた美那緒が飛び起きた。
真冬の早朝だというのに、全身が汗でぐっしょりと濡れている。
一昨日、久しぶりに石井営所の自室に戻り、昨晩は懐かしく馴染んだ枕で眠りに就いたというのに今朝はとんだ目覚めであった。
ふた月前よりこの方戦続きであった。漸く落ち着いたところで気持ちが緩んだのかもしれぬ。
自室を出て朝日を浴びていると、丁度起き出したばかりと見える秋保が顔を出した。
「おはようございまする。御前様、今朝は随分魘されていたようでございまするが、もう御気分は宜しくて?」
心配そうに小首を傾げる娘に「最悪じゃ……」とげっそりした顔で答える。
(己の顔を夢に見ると程なく死ぬと聞くが、……まったく、嫌な夢を見たものじゃ)
心の中で独り言ちる美那緒の耳に、ふと、
――からから、からから。
「……誰じゃこんな朝早くから糸紡ぎなどしておる奴は? おかげで寝起きからエラい目に遭うたぞ!」
と恨みがましく呟く女主人の愚痴に、はて? と唇に人差し指を当てながら秋保が再び小首を傾げる。
「糸紡ぎの音でございまするか。私には何も聞こえませなんだが?」
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