第4部
間章 百足退治の俵藤太
天慶三(九四〇)年睦月。下野国唐沢山、藤原秀郷居所。
冬晴れの朗らかな日差しが、館と呼ぶには質素な庵の屋根に積もった雪を溶かし、氷柱から滴り落ちる雪解けの水音が絶え間なく静かな一室に響き聴こえてくるというのに、その室内は凍えるほどに冷え切っていた。日当たりの悪いせいもあろうが、客座の傍に焚かれた気休め程度の火鉢の他に几帳すら仕切られていない室内の飾り気のなさが、薄暗さと相まって猶の事寒々しい。
そんな殺風景な一間にて、庵の主を前にしながら白い息を凍らせて座に着いているのは藤原為憲、平繁盛、そして貞盛の三人であった。いずれもこの部屋の薄ら寒さを堪えているというよりは出迎えを受けてから終始人を食ったような掴み処のない主の態度に苛立ちを堪えんが為に肩を怒らせている様子であった。
無理もあるまい。
着座早々、一言目が、
「常陸国介殿の御曹司に、同じく元常陸大掾石田の国香殿の御子息御二方か。聞けば下総の腕白小僧に手酷くやられたそうじゃのう?」
とニヤニヤ笑いながら出迎えの挨拶を貰ったものだから、カッとなった為憲が腰を浮かせかけたものを貞盛らが何とか押し止め宥め聞かせたのである。その間も、その一幕を愉快そうに薄笑い浮かべて眺めていたのだから大した肝の据わりようであった。
「まあ、よくこの寒い山の中のあばら家までおいでなされた。もてなしてはやれぬがせいぜい寛いでいかれよ」
ようやく怒りを堪え切った為憲を横に、貞盛が改めて目の前で胡坐をかく壮年の男を見つめる。
顔は笑ってはいるが、眦はまるで刃を向けるような底知れぬ鋭さを光らせている。眉間に深い皴の刻まれた相貌は生まれついてのものか。一見すると厳めしい顔立ちだが、常に唇の片端を吊り上げるような歪な微笑が邪魔をして容易に表情の読めぬ男であった。
(……この男が、噂に聞く百足退治か。成程、見るからに一筋縄ではいかぬ御仁じゃ)
これが老獪の域というべきか。ずっと微笑というよりは底意地悪そうな笑みを絶やさずにいるが、三人に向けられている眼差しには抗い難き峻厳が垣間見え、もし一度その軽薄な笑みが彼の顔から失せたなら、たちまち射竦められた獣のように皆身動きを封じられるであろう。
最前まで相手に激高しかけていた為憲さえも、小馬鹿にしているとしか思えぬ老人の薄ら笑いを睨みつけているうちに、その奥に秘められた得体の知れぬ酷薄さを感じたか、真冬の寒気の籠っている中で背筋に汗が伝うのを感じていたのである。
この老人こそ下野の一角に一大勢力を誇る豪族藤原一門棟梁、「百足退治」で一躍名を馳せた藤原秀郷である。
曽祖父が下野国に縁を持ったことからはじまり、祖父、父と続いて下野国府高官に就任、その過程で広大な私営田を開拓するとともに、有力土豪であった鳥取氏を婚姻関係によって取り込むことで当地に強い地盤を築くことになった典型的な土着貴族であったが、狼藉沙汰が災いし幾度も国府より懲罰を受けることとなり、現在は中央や国府と距離を置き山中の営所で静かな暮らしを送っていたのであった。
「……しかし、御三方よ。折角見えられてこう申すのも心苦しいが、貴殿らは将門とは直接刃を交えた程の猛者であろう? 殊に貞盛殿ら御兄弟は、幾度も彼の軍勢と戦を繰り返しておられたという。何も俺のような一線を退いた年寄りを頼らずとも、将門の戦い方など良く熟知されておられよう。一体俺に何をお望みじゃ?」
飄々と尋ねる主人に、詰め寄る勢いでまず為憲が口を開いた。
「その前に一つ尋ねたい。下野国府が侵略を受けた際に、貴殿は何をしておいでであったか? 官兵のみならず民百姓までが武器を取り賊徒共に抵抗したのですぞ! 府下が常陸のそれ以上の無残な略奪を受け一夜のうちに灰塵に帰したというのに、貴殿はただ小山の上で界下を眺め下ろしせせら笑っていたばかりか⁉」
意気込んで問い詰める為憲に対し、相変わらず余裕ぶったまま老人が苦笑する。
「まあ、そう無暗に息巻かれるな、お若い御方よ。そりゃあ俺も大層胸が痛んだものよ。しかしのう、当時将門の軍勢は四千を凌ぐ大軍であったという。迎え撃つ国府軍もそれに匹敵する軍勢じゃ。御覧の如き山奥に隠遁した一翁が大乱の渦に一滴の雫となって飛び込んだところで戦の趨勢は変わらぬ事だったろうて。我ら藤原が加勢に加わろうが加わるまいが、下野は敗れ去る運命にあったのじゃ。これは誰にも変えられぬ事よ」
ぐっと為憲は言葉に詰まり乗り出しかけていた身を引いた。
その様子を横目に、「さて、」と貞盛が口を開く。
「本題に移ろう。……秀郷殿、先日貴殿の元に中央から逆賊首魁将門並びにその一味追討の命と共に、押領使任命の官符が届いておられような?」
「おお、確かにそんな内容の書状が寄こされておったっけ? この枯れた老い耄れを今更引っ張り出して矢避けの代わりに使うつもりか知れぬが、御上も老骨に惨い仕打ちをなさるものじゃ。何でも朝廷では、将門怖さに宮殿の矢倉を建て増しの上、偉い坊主に高い布施を払っては連日朝敵調伏の祈祷三昧だとか。有難い霊験現れるまで様子を見ておれば良いものを」
「その討伐、どうか我らも加えて頂きたい!」
貞盛の懇願の声と共に三人が両の拳を床に突き立て、揃って深々と低頭した。
しかし、秀郷は三人が額づくのを前にしても恐縮の素振りなど欠片も浮かべず、「さあてのう……」と顎を撫でながら空とぼけた様に宙に目を遣る。
「先程も触れた通り、貴殿らは実際に将門と戦を交えておられよう。俺は将門と顔を合わせたこともないのじゃ。貴殿らお若い武夫方の足手まといになるのが関の山じゃて」
繁盛が真っ赤になって顔を上げる。
「その我らでは将門には戦にて到底及ばなんだ。かつて三上山の大百足を討ち取られたという覚え目出度き貴殿の御裁量が必要なのでございまする。何卒、お力を貸してくだされ!」
貞盛も涙を浮かべて訴える。
「某は将門の為に全てを失い申した。とはいえ、元はと言えば我が父や伯父らが発端となったこと。今更恨み言は申しませぬ。……しかし、それが発端となり今や坂東は朝敵の手により戦禍に呑まれつつありまする。このまま見過ごすことは出来ぬ。何卒!」
「まあ、いずれ考えておこう。しばし時を頂きたい」
あまりにのらりくらりとした態度に繁盛までが声を荒げて食い下がる。
「悠長に考えておられる暇はございませんぞ! 今や下総、上総、武蔵、安房、そして相模に至るまで、坂東八国全てが将門勢に降伏の意思を示していると聞き及んでおりまする。このままでは、増上慢にも新皇などと名乗りを上げた将門一味の思うが儘となりましょうぞ!」
「……それとも、秀郷殿よ。百足退治の英雄などという勇ましき武勇伝は只の噂でございまするか?」
青筋浮かべながら小馬鹿にしたように鼻を鳴らす為憲の不遜な言葉に貞盛が慌てて目で制するが、秀郷は気を悪くした風でもなくクツクツと含み笑いを漏らした。
「百足退治か。随分尾鰭付いて語り伝えられたものよな」
すうっ、と目を細めた眼差しを向けられ、思わず為憲は口を噤んだ。
「……為憲どのよ? 百足の化け物などと呼ばれておったがな、俺が殺したのは、化け物どころか、只の民らであったよ」
思わぬ告白に三人が目を剥いた。
「百足などと呼んで俺が討伐を命じられたのは、三上山の山中に集落を営む、平穏に暮らすだけの民であった。女子供も、年寄りもおった。俺はそれを命ぜられるがままに皆殺しにしただけの事じゃ。御上はそれを天晴れ俵藤太の化け物退治などと世間に触れて回り、その上たんまり褒美を賜ることとなった。もう何も御上の御命に従わずとも、死ぬまで暮らすに困らぬ程の褒美じゃ。その後国府が諫めるのも聞かずに散々に好き勝手やっておるうちに、とうとう国外追放の官符まで食らったが、もう金輪際御上の言う事など聞いてやるものかと開き直ることとし、御命を無視して今日まで山奥で臍を曲げておった。……俺はそれだけの只の偏屈爺よ」
どうじゃ、正体は御覧の通りの枯れ尾花よ、と含み笑いを絶やさぬ秀郷に暫し言葉を失う貞盛であったが、彼は再び嘆願を込めて額づいた。
「百足退治の真相など今は良い。今まさに坂東の女子供ら足弱の者達が貴殿の申したような三上山の憂き目に遭うておるのでござる。……これ以上、我が石田の郷のような悲劇を目の当たりにはしとうありませぬ。何卒、藤原一門のお力をお貸しくだされ!」
貞盛に倣い他の二人も今一度低頭する。その様子を相変わらず薄ら笑いを浮かべたまま眺めていた秀郷であったが、やがて口を開いた。
「……貞盛殿よ、坂東の虎は今一番盛りがついておる。まさに今がその勢いの頂点に来ておる。今仕掛けたところでどう手を打とうが荒ぶる猛虎に太刀打ちできぬ。譬え我が一門が動いたところでな……」
秀郷の言葉に、ぎり、と貞盛が唇を噛み締める。
「……しかし、虎とて百足と同じく正体は人じゃ」
不意に秀郷の口調が変わった。冷徹さが吹き込みながらも、何処となく愉快そうな不思議な口ぶりであった。
「人が人を治めるのは容易なことではない。それも、たったふた月を以て一気に八国をも手に入れたとなれば、猶の事じゃ。将門は数年ばかり京で仕官をしていただけで政治の采配など判らぬであろう。その臣下で政事を知っておるのはせいぜい武蔵国介であった興世王や、元常陸国掾の藤原玄茂くらいのものじゃ。あの一味だけで坂東全体を統制することなど到底できぬ。民衆とは現金なものじゃ。旧政より真新しいものには期待を寄せて飛びつくが、与党慣れしておらぬ俄か政権など、すぐに気持ちは離れてゆくであろう。「苛政は虎よりも猛なり」と言うが、今に新皇将門の悪政を嘆く声が巷に溢れ返ろうぞ」
三人が顔を上げる。底には、今までのけだるげな薄笑いとは打って変わり、これから企むことが楽しみでならぬ、という心底愉快そうな狩人の笑みであった。
「よいかお若い方々よ? 虎が密林に護られているうちに下手に足を踏み入れても、返り討ちに合うがオチよ。虎を狩るには、まずは木々が茂った葉を落とし、虎が丸裸となったときを狙え。されど、毛皮一枚となっても威を失わぬのが虎の恐ろしさじゃ。俺と共闘を組んだとて努々油断せぬ事じゃ」
「おお! では貴殿は我らに力を貸してくださるのか!」
思わず目を輝かせながら縋り寄る貞盛たちの背後で、どさり、と屋根の雪が解け落ちる音が大きく響いた。
「……さて、そろそろ燗の支度もできた頃合であろう。先程から堪えておったが、この部屋はどうも寒くてかなわぬ。御三方よ、場所を移して改めて戦評議と致そうか」
……かくして、百足退治の俵藤太――藤原秀郷は、此処に為憲、繁盛、貞盛ら復讐に燃える三人と共闘し、将門の前に立ちはだかることとなったのである。
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