第5章 新皇 3



 十日足らずで下野、上野を攻略し、ひと月の間に北坂東三国を征服した英傑が勝利の祝宴を催すという噂は数刻と経たぬうちに近隣に広がり、未だ宵の口、宴も序盤という頃には祝賀に訪れる地元の郡司や豪族、将門贔屓の庶民らまでもが宴の座に加わり、国衙の賑わいは四門の外にまで聞こえるほどであった。

 国衙の外に幕営を張っていた兵卒達も存分の酒肴を振舞われ、羽目を外さぬようにと厳しく釘を刺されていたもののその賑わいは祭りさながらの騒ぎで、その様子を聞きつけた抜け目ない行商の者らや媚を売る娼妓の女達が引っ切り無しに出入りしている。

 広間では直臣の従類はじめ真樹や白氏、途中から加わった兵団の頭目らが膳を囲み、これも予め玄明が手配したという見目好い酌婦達から美酒を勧められつつ祝い人衆の舞いや芸を楽しみながら歓談に興じていた。

 上座では、美那緒を傍らにした将門が来賓達から形式張った杯を受けるのに忙しく、なかなか膳に箸をつける暇もない様子である。彼が酒を飲めぬので、唇を付けたばかりの杯を回されてきた美那緒が皆呑んでしまうことになるのだが、当時の上等な酒というものは現代でいうところの味醂に近い代物で、量を過ごすと舌にも五臓にも非常に重い。それも次から次と一献勧めに来るのだから大変である。

「どうした、あまり進んでおらぬようじゃが?」

 大分出来上がった様子の興世王が銚子を両手に千鳥足で遂高の向かいに腰を下ろし酒臭い息を吐いた。

「いや、あれだけ杯を回されてきてよく潰れぬものと感心しておった」

 杯を手に上座を指しながら呆れたように言う遂高にケラケラと笑いながら酒を注いでやる。

「全く、下戸の殿様と添い遂げると思いも寄らぬ苦労もあるものよ。……しかし、なかなか奇矯な舞いじゃのう。身共は初めて見るわい」

 広間の中央では、二人の踊り手が「赤城大明神」と染め抜かれた幌を被り、獅子頭を頂いて笛や鉦の音に合わせ神妙な踊りを見せており、その周りを例の木面を被った舞手が扇を手に囃子歌を唄っていた。

「某も初めて目にするが、恐らく「下野日光山縁起」の再現であろう。猿丸大夫が上野の大百足を退治する神話じゃ」

 そう解説しながらチラリと上座に視線を戻す。上座の傍らでは玄明と玄茂が木面の娘から酌を受けているところであった。

 

 やがて一通り余興が終わり、揃って一礼する舞手達に酒席から満座の拍手が送られ、方々から労いの一献に招かれた。

「なかなかに面白き余興であった。後で褒美を取らそう。先ずは一献受けるがよい」

 上座に招かれた座長が恐縮しきった様子で杯を受ける。

「へへえ、殿様から直々に御盃を賜れるとは身に余る誉でございまする。ところで、実はもう一つばかり披露したき一幕がございまして」

 これ、と背後で畏まっていた年若の娘に声を掛ける。

 低頭したまま進み出た娘が顔を上げ、木面を取ると艶やかな黒髪がふわりと舞い、面の上からは想像出来ぬ程の麗しい顔が現れた。

 匂い発つばかりの妖艶な美貌に、酒席で管を巻いていた酔い心地の一同が思わず手を止め魅入るほどである。

「歩き巫女の清音と申しまする」

「この者は近江より御仏の有難き御験を伝道せんと発心し、各地を行脚しておりましたところを、ひょんな事から一座に加わることになりましてな。何でもこの娘が申すところによれば、先日、将門様が上野国府の悪しき受領を御追放なされた夜、御仏が夢に現れ、御君へのお導きを託されたのだとか。これはきっと貴方様にも目出度き験となりましょう。何卒この娘の言葉に御耳を貸してやってはくださりませぬか?」

「ほう、御仏が夢枕に立たれたと?」

 少々興味を感じた様子の将門が杯を置く。

 その様子に、再び巫女は額づいた。

「口利きを生業としている私もかつてない霊験にこの身を打たれたのでございまする。これはきっと、神仏が私に与え給いた尊き使命。……何卒、御宣託をお聞き届けくださいまし!」

 新たな余興の提案に、「ほう!」と声を上げたのは玄茂であった。

「それは良い! 丁度宴もたけなわじゃ。御仏の有難き宣託となれば祝勝の宴の大団円に相応しいではござらぬか。されば、巫女殿、何かこちらで支度致すものはあろうか?」

「榊の枝を一振り。それで十分でございます」

 何やらまた面白き興行が始まる気配に皆が興味津々と沸き立つ中、チラリと遂高と美那緒の間で視線が交わされた。



 万が一酒を過ごして乱に及ぶ者がおらぬかと見張りを買って出た経明が、幕営の外で配下数名と共に焚火に当たりながら物思いに耽っていた。

「良いのですか? 別当様なら殿や遂高様らと共に広間の饗宴に加わるべきでしょうに」

 焙った干し魚を齧りながら腹心の一人が問いかける。

「良いのじゃ。俺は大分前から酒を断っておる。酌も受けぬ辛気臭いのが加わっても座が白けるだけじゃろうて」

 子飼渡しの敗北以来、経明は人知れず酒色を一切立っていたのであった。無論、萩野の死を悼んでの事である。

「折角の御振舞いじゃ。お前達は気にせず呑んでも良いぞ。これだけ酒肴もあてがわれ、娼妓らも揃っておれば雑兵共も外に出て悪さを働こうとは考えぬだろうよ。こう寒くてはお前達も燗酒でもやらねばやっておられまい」

 主からお許しを得た配下達は途端にぱっと顔を輝かせると、「では遠慮なく」といそいそと幕営の中に消えていった。

「おい、酒は良いが娼妓と戯れるのは程々にせいよ!」

 と、その背中に呼び掛けた経明が、おや? と首を傾げた。

(……なんじゃ、幕営の喧騒に霞んで気づかなんだが、国衙の方が急に静かになったのう)

 そう思っているうちに何やら夜空がゴロゴロと雲行き怪しき気配を帯びる。

 そのうち忽ち大粒の雨が見上げる彼の顔に降り注いだ。

「うひゃあ、なんじゃ⁉ こりゃかなわぬわい!」

 慌てて経明も幕営の中に飛び込んでいった。



 燭台一本のみ燈されたほの暗い広間の天井から、土砂降りの雨が叩く音が絶え間なく響き、何処かで遠雷が鳴る響きが聞こえてくる。

(この急な雷はいくら何でも出来過ぎじゃろう……?)

 宴とは打って変わって厳かな雰囲気に満たされた広間の空気に居心地悪そうに興世王がもじもじと膝を揺する。

 梓弓を鳴らしながら、皆が注視する中、清音が何やらぶつぶつと祝詞か真言じみた言葉を小声でぶつぶつ呟き、時折酒を口に含み榊の枝に吹きかけては、飛沫を飛ばしながら左右に振り回す。

 急に冬の嵐となった天候の変化も相俟って、皆誰一人言葉を発しようとはしない。ただ、巫女が何を口寄せ、何を口にするのか、固唾を飲んで見守っていた。

 遂高や美那緒、将門さえもが、やや青ざめた顔色で巫女の様子を無言で凝視していた。

 やがて、ふらりと立ち上がった巫女が上座に歩み寄っていく。

「おいっ⁉」

 慌てた好立が声を上げるが、巫女はそこに将門がいることさえ視界に入らぬ様子で上座に上がり込み、将門と美那緒も何も言わずに高座から降り下座に座り直した。

 そして、ゆっくりと振り向いた巫女はまるで人が変わったような面持ちで皆を見回し、静かな威厳を込めて口走ったのである。


「――妾は八幡大菩薩の使いなり」


「はち――」

 思わず声を上げ、騒めく者達もいた。だがまだ託宣は終わってはおらぬ。将門をはじめ、多くの者が無言で御使いの言葉の続きを待つ。

 しかし、巫女の口から述べられた言葉は、皆を心から驚嘆させるのものであった。


「従四位下、鎮守府将軍平良持の子将門、左大臣正二位菅原道真朝臣が霊魂の取次ぎを以て新皇の位を授け奉る。御身は尊き八幡大菩薩より八万の軍の加護を以てこの位階を授けようぞ。さればこれを迎えるに相応しき三十二相の楽を奏でて拝し、謹んで迎え奉るべし――」


 そこまで述べ終えた巫女はぷつりと糸が切れたように崩れ落ち、美那緒が慌てて駆け寄った。

(新皇だと、……将門がか?)

 意識を失った巫女を抱き起しながら、只今この娘が菩薩の口を借りて語ったという内容を混乱しながら反芻した。

「新皇……?」「殿が、将門様が?」「……道真公? 三十数年前に非業の最期を遂げられた、あの天満宮様か!」

 皆が夢からハッと覚めたかのように口々に囁き始める。

 そんな中で、ボソッと呟く声もあった。

「何を皆呑まれておるのか、たかが梓巫女の余興であろうが……」

 それをかき消すように玄茂が立ち上がり大声で皆に語りかけた。

「各々方よ、確かに今聞かれたか! 勿体なくも八幡大菩薩様の有難き宣託じゃ。この巫女殿の口寄せによって、只今、道真公の御霊が上書を以て我が御君平将門様へ新皇の位を表されたぞ! 今ここに北坂東三国を統べる新たな王者が定められたのじゃ!」

 その宣言にその場の全ての者が一斉に将門へ顔を向ける。

 上座に正対した将門は、皆の視線を背中に受けながら、やがて深々と美那緒に抱きかかえられた巫女へ額づいた。

「――蔭子将門、謹んで新皇の位、承りまする」

 ワッと歓声が広間を震わせた。


 ――況むや四の陣を挙りて立ちて歓び、数千併ら伏して拝す。


 この吉報はすぐさま幕営の将兵にも伝えられ、数千の将兵達は皆総立ちになって歓喜に沸き立ち、また有難き御仏の宣託に感涙に咽びながら合掌した。

「然して牧童は美神より黄金の果実を給う、か。……これでは話とあべこべじゃがのう」

 誰にともなく呟くのは皆の歓喜と喝采を余所に袖へと引き下がる玄明であった。

「まさに興世王殿が申しておられた通りじゃ。数多の将兵、そして混迷極める坂東の地を統制統治するには、人徳――否、神格を備える御方でなくてはならぬ。……それは将門殿、貴殿を置いて他におりませぬ」


 ――将門を名づけて新皇といふ。


 いつの間にか、冬の嵐は止んでいたが、国衙周辺の歓声は未だ止む気配がなかった。

 しかし、皆の喜びの中で、美那緒は上座に低頭する直前に見せた将門の顔が忘れられなかった。

 



 夜更け。

 国府の中心地からやや離れた杉林の木陰に混じり、二つの人影が見える。

「……しかし、図らずも狙いすましたような雷雨であったな。あれは良かった。ひょっとしたらまことの御宣託であったかもしれぬ」

 人影の一つ――玄明が杉の大木に背を預け、腕を組みながら忍び笑いを漏らした。

「清音よ、大衆の心を動かすにはな、場の演出が肝要じゃ。広間は薄暗くし、出来れば宵の口が良い。舞台に皆を注視させ、充分沈黙を含ませた後に大胆な余興を披露してみせるのじゃ。そうすれば、聴衆の心は必ず魅了される」

「しかし存外に上手く事が運び良うございました」

 それに答えるのは先刻の宴にて皆の前で宣託を述べて見せた清音という巫女であった。しかし今の彼女は匂うような艶やかさは何処かに潜ませ、代わりに鋭い冷徹さを双眸に光らせている。

 それに対し、玄明は穏やかに笑ってみせる。将門や彼の周りの者達の前では見せたことのない表情であった。

「それは皆が内心で望んでいたことだからじゃ。我らはそれを後押ししたに過ぎぬ。流石に人の望まぬところへいくら手招きしてやっても、誰もそちらへ動きやせぬよ」

 ふ、と清音も初めて頬を緩めてみせる。

「ここまで長うございましたな……」

 そんな彼女の肩を叩いてやりながら労うように玄明が語りかける。

「皆の働きの甲斐があってじゃ。あともう一息で、きっと我らが宿願を果たせようぞ!」


「――やはり貴公の企てであったか」


「――っ! 誰じゃっ⁉」


 清音が驚いて背後を振り向き、主を庇うように身構えた。

「……その声は、遂高殿か。皆と一緒に潰れておられると思ったが、こんな街外れまで酔い覚ましにおいでか?」

 一方の玄明は微塵も同様のそぶりを見せず、油断なくこちらを睨み据える遂高へ気さくに問いかける。これも遂高が初めて耳にする彼の口振りであった。

「宴の酒では酔えぬ質でな。……貴公こそ、こんな夜更けに何をしておる。まさか新皇様の側近ともあろう者が、白湯文字相手に逢引きでもあるまい?」

「――言葉に気を付けよ、東夷が!」

 嘲笑う遂高の背後から凍てつくような冷たい声と共に首筋に投剣が突き付けられる。

 いつの間にか顔の半分を覆面で覆った黒装束の女が彼の背後に立ち、冷たい殺気を向けていたのである。

「……もう一人おったか。気づかなんだわ」

 忌々し気に舌打ちを漏らしながら遂高は両手を上げる。

「御館様、どうなさる。殺しまするか?」

 遂高を睨みつけながら黒衣の女が指示を乞うたが、なぜか玄明は肩を竦めて首を振った。

「やめておけ。多勢に無勢じゃ」

「っ⁉」

 ハッとして背後に気を遣ると、今度は自分が背中に刀を突きつけられていた。

「よう、また会ったな糞女!」

 此処であったが百年目とばかりに牙を剥きだしてシロが笑いかけた。

「シロ、そいつか!」

 そのすぐ後ろから一足遅れて美那緒が駆け付ける。

「ああ、こいつが何時ぞやの手裏剣女に間違いねえ。まだ肩の傷が疼くぜおい」

「構わぬ。ぶっ殺せ!」

 間髪入れずに美那緒が物騒な指示を出す。

「待て待て。まだこちらは首に刃が当たったままじゃ。まったく、いつまでも来ぬから肝が冷えたぞ!」

 慌てて止めに入る遂高に、刀を構えたままシロが頭を掻く。

「いや、これでも急いだんですぜ。一旦下った碓氷峠を急に俺ら一人呼び戻されてまた登る羽目になった身にもなってほしいね!」

「俺も明日はきっと二日酔いじゃ……」

 青い顔をした美那緒も何処か足元が覚束ない。

 そこへ、もう一人木立の影から姿を現す者がいた。

「……御館様。もう宜しいでしょう。各々刀を収められよ」

 これも何時から隠れていたのか、玄茂が何とも言えぬ困った様子で皆の前に姿を現すと、清音も黒衣の女も意外なほどあっさりと短刀を仕舞い、玄明の傍に退いた。

「遂高殿よ。どうやらだいぶ前から我らの動きに気づいておられたようじゃのう?」

 改めて問う玄明に、いや、と遂高は首を摩りながら首を振る。

「確信したのは昼間、祝い人に扮したこの者共を見た時じゃ。一斉に立ち上がった時の所作が目に付いてな。その時ふと以前シロが忍びの者に襲われたのを思い出したのじゃ。配下を偽装し招き入れると来れば、今宵の宴で何か事を図っているに違いないと思い、急ぎシロを呼び戻して確かめさせてみたところじゃ。尤も、貴公と初めて対面した時から胡散臭い男だとは睨んでおったが」

「はは。吹雪よ、お前もとんだ男を襲ったものじゃのう」

「面目ありませぬ」

 主に揶揄われた黒衣の女が畏まって頭を下げた。

 しかし遂高達の猜疑の目はますます鋭くなる。

「貴公ら、一体何者じゃ。一体何を企んでおった? 殿を新皇に祭上げようという御膳立ては全て貴公らが取り計らったものであろう。……よもや、常陸国府との確執から一連の争乱、全て貴公らの謀によるものではあるまいな⁉」

 美那緒も眼光を光らせながら腰に帯びた太刀に手を掛ける。

「だとしたら生かしては置かぬ。この騒動で主様がどれほど悩み苦しみ、胸を痛められたか、この俺はずっと傍らで見ておった。その御心を徒に弄ぶような所業、断じて許すことは出来ぬ!」

 二人の剣幕に清音、吹雪は再び短刀を構え、玄明と玄茂はお互いに顔を見合わせ、悩まし気に暫し黙り込んだ。

「……御館様、此処が潮のようでございますな」

やがて意を決したように玄明が口を開いた。


「左様。――遂高殿よ。我らは「百足」と呼ばれている者じゃ」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る