第5章 新皇 1
天慶二(九三九)年十二月十九日。上野国国衙の一室にて。
「全く以ての他の事じゃ。国府の土蔵にある官貢物はもともと上野の民らに帰すべきものじゃ。それを我が将兵らで私し、分配しようなど!」
強い口調で却下する玄明と、その後ろに座して同調の意を示す玄茂。対して、面座するのは遂高、好立、興世王の三人であった。
「それで褒賞に不満を持つ兵らがまた街に火を掛け略奪に及ぶようでは元も子もないではないか!」
こちらも負けじと拳を握って言い返す。
「仮に全ての蔵を開放したとて既に五千にも及ぶ我が軍属ら全てに行き渡らせるほどの米穀絹布の類はありませぬぞ。将兵らの規律を司るのは貴公ら将門殿直臣、特に大目付たる遂高殿の御役目ではござらぬか?」
「その将兵達の眼で以て某は説いておるのじゃ。もはや我が勢は軍規だけで統率が適う規模を越えておる。陣の編成もままならぬ、只勢いだけの軍勢が勢いのままに統制を失えば、我らは只の野党と変わらぬ。民心も離れ兵らも離れ、いずれ我らが掲げた大義すら掛け離れることになろうぞ!」
両者の成り行きを悩まし気に見守っているのは、たまたま居合わせたばかりに舌戦に巻き込まれてしまった経明であった。
同月十五日。下野を発った将門勢は道中で更にその勢力を増しながら隣国上野国府に侵攻した。
既に抵抗の意を喪失していた介藤原尚範は直ちに降伏し、あっさり国衙を明け渡してしまったのであった。
そして十九日、諸々の引き渡しを終えた国司や官僚達は例によって都に追放されることになったが、その最中、またしても府下で略奪行為が行われたのである。
流石に黙っていられなくなった遂高達が将門へ意見具申を申し立てようとしたところを、居室の前で居合わせた玄明らに「殿は弟君らと評議をされておられる。代わって某が承ろう」と別室へ案内されたのであるが、それだけでも出過ぎた口を利く新参者奴と憤慨を堪える遂高であったが、案の定御覧の通り唾飛ばし合い互いに畳を叩く言い争いとなった次第である。
師走というのに額に汗浮かべ肩で息を吐く遂高を前に一呼吸入れるように「……さて」と不意に玄茂が間に収まっていた経明に水を向ける。
「遂高様の御言い分も尤もな事じゃと思うが、これではいつまでも埒が明かぬ。ところで、其許はこの件についてどう考えられるか?」
問われた経明は意外にもあっけらかんと即答した。
「どうも何も、我らの主は将門様じゃ。坂東の弓取りが番える矢たる我らが思うことなど、矢の先の他に何があるか? 矢と鉾が空の手で競い合うたところで、決めるのは殿の一存であろう」
その言葉を聞いた玄明は我が意を得たりとばかりに膝を打ち、呵々と笑い声を上げた。
「まさしく仰る通り。全ては将門殿がお決めになる事。臣下が蔵の中身を如何するなど勝手に決めることではない」
「……だからそれをお伺いしようというところを貴公が横槍入れてきおったのであろうが!」
呆れと疲労の入り混じった怒声を聞こえぬ素振りで玄明はその背後の人物に顔を向ける。
「ときに興世王殿。国府に仕えておられた貴殿にお尋ねするが、配下たる官民の忠心を得るには何が肝要と御心得か?」
ふぅむ、とこちらは暫し思案顔で、
「何しろ前にも話したことがあるが、例に漏れず碌な治政ではなかったからのう。……まあ、強いて言えば飴と鞭の使い様か」
困ったように頭を掻くが、玄明は不思議な笑みを浮かべたまま重ねて問う。
「それだけでござるか? 他にもあろう?」
いつのまにか皆の視線を集めていることに気づいた興世王が思わず顔を赤らめる。
「おいおい、困ったのう。さて、酒でも出して労ってやるか、褒美をたんと弾んでやるか。いやいや、それは最前も議論に上っておったっけ。――矢張り、上に立つ者の人徳であろうか。これに尽きるのう。武蔵に居ったころの上司といえば、例の影の薄い維幾といい、嫌味も甚だしい貞連といい、人望のかけらもない輩であったもの」
だから武蔵国府を出奔したのよ、とプイッとそっぽを向いた。
「成程、人徳か。仰る通りじゃ。我が主君こそ、桓武帝の貴き血筋を引く御方。そして誰よりも勇猛であられる。まさに坂東全官民の頂に立つに相応しい。将門様にこそ、その頂に於て黄金の玉果を手にされねばならぬ御仁じゃ。……各々方もそう御思いであられよう?」
玄明の語る真意が読めず、遂高が怪訝な顔を浮かべる。
「……貴公、一体何を考えておる?」
そこへ、「失礼いたしまする」と玄明配下の従卒が現れ、主に進みよると何やら小声で耳打ちする。「相分かった。支度を始めよ」と頷いて見せると、従卒はそそくさと退出した。
「失敬致した。実は某からも、件の事について各々方にご提案があり申してのう。一寸手を貸して頂きたいのじゃ」
同じ頃、別の一室にて、美那緒はコヅベンと二人で将門幼少の頃の思い出話に花を咲かせていた。本来は対面できる立場ではないのでお忍びである。
「……それでのう、まだ夏も暑い盛りよ。皆が合歓の木の辺りと予め目星を付けて川辺の藪の影に隠れて小唄が水浴みするのを待ち伏せておったのよ。その間に、俺達悪童共の間で賭けが始まってのう。それも、もう生えておるかまだ生えておらぬかという、下らぬものでな。そのうちに小唄の姿が見えてくると、途端に我ら悪童共がムッと息を殺して藪の影から汗を拭き拭き目を凝らして見入っておった。小唄が長い髪を束ねていたのを解いて絣の夏衣を脱ぎだすと、知らぬうちに皆が皆押し合いへし合い前に身を乗り出していてのう。果たして小唄が皆の前で裸身になったところで、何を思うたか小次郎の奴が「やった、俺の勝ちじゃ!」とか素っ頓狂な声を挙げたもんだから皆が驚いた弾みに藪の影から雪崩打って川淵にザンブと水飛沫上げて落っこちてしもうてのう。勿論小唄は悲鳴上げて着物掴んで泣いて逃げちまうわ、俺達は着物汚して帰って親父から大目玉食らうわ、小次郎も御父上から皆の前で尻をぶたれるわで散々だったわい」
あまり上品でない思い出話であったが美那緒は扇を広げて笑い声を立てぬよう苦労している様子であった。
「あの頃の小唄は村の年頃の童の中でも一番の器量よしでな、どっちが将来嫁に貰うかでよく小次郎と競り合ったものじゃて。ちょくちょく小次郎にちょっかい出されて小唄も泣かされておったっけ。だが一番泣いておったのは小次郎が陸奥を去る日であったかのう。……それから程なくして、村で疱瘡が流行って悪童仲間も小唄の家族も大勢死んだのじゃ。生き残った俺や小唄も戦に駆り出され戦いを仕込まれた。しかしその縁あって小次郎と再会が叶ったというのも縁なのであろうのう……」
しみじみと語りながら侍従に勧められた白湯を受け取り、喉を潤して一息つく。
「普段あまりにも生真面目過ぎる人だから、あなたが来てくれて良かったわ。こうして面白い話も聞かせてくれたもの」
礼を言いながら美那緒も白湯に口を付け、白い息を吐く。
「久々に逢うてみたら、小次郎奴、なかなかに大変な御立場のようじゃ。御前殿も苦労されておられることであろうが、どうか幼馴染を支えてやってくだされ」
深々と一礼するコヅベンに美那緒もまた同じように首を垂れる。
常陸、下野と続きこの上野でも府下の街が荒らされる様を目の当たりにし、悄然としているところを見かねて美那緒の元を訪ねてくれたのであろう。嬉しい気遣いであった。
「おお、噂をすれば我らが小町が現れなすったわい」
コヅベンの声に庭先を見ると、泥だらけの鍬を肩に担ぎ、竹笊を抱えた小唄が、相変わらず編み笠を目深に被り姿を現した。
「にゃあ」
「おや、ずぶ濡れでないかえ。さあ、中へ入って火鉢の傍においで」
濡れた服のまま雪の上に平伏しようとする小唄を慌てて部屋の中へ招き入れる。
「まあ、すっかり手を冷たくして、何をしてきたのかえ? ……あら?」
「にゃ、にゃあ!」
勿体ないことでございます! とでも言わんばかりに、冷え切った掌を摩って温めようとする美那緒に小唄が真っ赤になって萎縮した。その小唄が抱えてきた笊の中身がうねうね蠢いているのを見て美那緒が声を上げる。
「あら、大きな泥鰌。随分沢山捕ってきたのね?」
「冬の田んぼを良く見ているとな、湧き水の染み出ているところは外より温かいからそこだけ雪を被らぬのじゃ。そこへ泥鰌が暖を取ろうと集まってくる。それを鍬で泥ごと掬って笊に掛ければ脂の乗った泥鰌をわんさか捕まえることが出来るのじゃ。……しかし、やはり御前殿は肝が据わっておられるのう。大抵の女人は笊に上がっているのを気味悪がるものだが?」
「ほほ、平気よ。泥鰌は妾の好物だもの」
笑顔で答える美那緒にコヅベンは目を丸くし、傍らで聞いていた侍従もギョッとした様子で顔を上げる。しまった! と内心で美那緒もヒヤリとした。
この時代、身分のある女性が食事食欲に関する事を直接口にするのは非常に品を欠く行為であり、御法度と言っていい。
暫し絶句するコヅベンと侍従であったが、やがてコヅベンは堪え切れずに吹き出した。
「……はっは! やはりあの小次郎の細君殿じゃ。ただの女性ではあいつの奥方は務まらぬ。旬の泥鰌は良き滋養じゃ。是非ご賞味くだされ」
「にゃあ」
「やだ恥ずかしい。宅には黙っていておくれ。でもありがとう」
そう礼を述べて小唄の頬に触れた美那緒が、(おや?)と手を止めた。
「ごめんね? ちょっと笠を取ってみせておくれ」
「にゃあ?」
そう言われて遠慮がちに笠を脱ぎ、素顔を露わにした小唄を前に、美那緒は微かに痛まし気な表情を浮かべた。先程コヅベンから思い出話に聞かされた通り、かつては村一番の美少女であったという名残がくっきりと残っているから猶更である。今も尚その顔の額から頬の半分にかけて疱瘡の後が痛々しく張り付いている。
(でも、浅い。……これくらいなら、十分お化粧で隠せるはず)
普段こそ戦場を駆けることが多い故、最低限の薄化粧に留めている美那緒であるが、当時の貴族女性の化粧――特に白粉はかなり分厚く施されていたという。よく源氏物語などの絵巻物や書物の挿絵などで身分の高い女性が扇で顔を隠している様子が描かれているが、あれは男性に顔を見られぬようにする目的とは別に、うっかり変なものを目にしないように、あるいは目にした時の顔を見られないようにするための用途もあったという。油断して笑うと顔中にヒビが入るからである。それくらい厚ぼったく白粉を塗り込んでいたらしい。
そこまで厚塗りにせずとも、この程度の疱瘡痕であれば綺麗に隠すことが出来るだろう。それに、この少女は将門の幼馴染であれば当時でも年増といえる年齢であるものの、病のせいで少女のままで成長が止まっている。言うなれば、一番白粉の乗りの良い年頃の肌であるから、さぞ化粧映えするであろう。
「にゃあ……?」
何やら頻りに自分の頬を撫でまわす御前様を不思議そうな顔で見つめる小唄に、美那緒がにっこりと微笑みかける。
「後できっと泥鰌のお礼をしてあげる。楽しみにしていておくれ」
ところ変わって、国衙に設けられた将門居室にて。
――十九日を以て、兼ねて使ひを付けて官堵に追ふ。その後、府を領して庁に入り、四門の陣を固めて、且つ諸国の除目を放つ。
常陸、下野に続き、上野国府の官吏全てを追放し終えた後、将門とその弟らは、ここに至ってとある課題について頭を悩ませていた。
「これで三国の政所を続けざまに空にして参った。さて、この空になった政所をどうするか、じゃ」
将頼の言葉に、兄弟達が腕を組みながら唸る。
「このまま野坊主にするわけにもいきますまいて。やはり各国の民衆の自治に帰すべきでござろう。元々、我らの大義は中央からの解放にございますれば」
「だが、その自治をまとめるのは結局誰が担うのかが問題なのじゃ。目ぼしい有力土豪に任ずるか? 争いになるのは目に見えておるぞ?」
将武の提案に将為が異議を唱える。それに被せるように末弟の将平が口を開く。
「そもそも国司はじめ国府上官の任罷は帝の名に於て下されるものでござる。その除目を図るということは他ならぬ大権私議を冒すこととなりまする。騒乱の首謀どころでは済まぬ、大帝への紛れもなき謀叛となりまするぞ。……有史以来前代未聞の大逆じゃ!」
言葉にするにも慄きを隠せぬ将平の様子に、兄達は呆れたように窘める。
「何を今更申しておるか。我らは既に御旗に弓を引いておるのだぞ。最初からそのつもりで事に挑んでおるのではないのか?」
しかし将平はその言葉が耳に入らぬかのように将門に向き直った。
「……長兄よ、この機会にお尋ねしたい。兄上はこの戦の帰着を何処と見定めておられるか? 某には、この度の決起、徒に坂東を掻き回しているようにしか思えませぬ。兄上はこの戦の先に何を見ておられるか?」
「おい、将平よ、口が過ぎようぞ!」
「今は此度の決起の趣旨を問う場ではない。それとも、其許は民の解放の他に我らに何の目的があると申すか?」
兄達の声に叱責の色が混じり始める。それでも構わずに将平は続ける。
「何卒この愚弟奴の不肖をお許しくだされ。しかし、某にはまさしく、その民の解放というのが未だに判らぬのでござる。何を以て解放とするのか、兄上は如何なるお考えでござるか?」
暫し無言で末弟の問いかけに耳を傾けていた将門であったが、やがて口を開いた。
「……じきに話すこともあろう。実は俺もお前と同じ問いにずっと悩んでおったよ」
苦笑いを浮かべる長兄の言葉に、流石に出しゃばりを恥じた様子の武平が「ははっ!」と畏まって額づいた。
「いずれ三国の国府を空にしたまま放置するわけにもいかぬな。除目というほど大それた真似を直ちに行うつもりはないが、代官は立てておかねばなるまい。常陸については玄茂が良く知っておるだろうからあれに任せたいが、今は手放せぬ。下野上野は、……さて、これからよく検討せねばならぬだろう」
結局、この場では具体的な方針は決まらぬままに解散となった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます