第4章 坂東制覇へ 7



 ――時に、新司藤原公雅〔ママ〕、前司大中臣全行朝臣等は、兼ねて国を奪はむと欲する気色を見て、先づ将門を再拝して便ち印鎰を擎げ、地に跪きて授け奉る。


「将門殿。昨日は悪天候に見舞われさぞ難儀されたことでしょう。ささやかながら慰労の場を設けさせて頂いておりますれば、何卒暫し寛いでいかれますよう」

 質素ながらも膳の揃えられた広間に通された将門らを厳かな正装に身を包んだ文官らが畏まって控えていた。口上と共に将門らを上座へ導き、その足元に平伏する国主弘雅の、勅使の出迎えも斯くやとばかりの謙譲振りを目の当たりにした一同の反応は様々であった。

「貴殿の憂郷の想いから決起なされた世直しの御志、寡聞なる小官の耳にも届くほど今や世に広く知れ渡っておりまする。この度は先日常陸を成敗されたばかりの御足から脚絆も解かれぬまま当地へ救民に駆け付けてくださるとは、小官まことに恐悦の至り。我が民も誉に思うておることにございましょう」

慇懃に過ぎる公雅の態度が流石に鼻についたと見える将頼が眉を顰めて下座に整然と並ぶ国府官僚達を見渡す。

澄ました顔でお定まりの労い口上を述べ上げる国主であるが、果たしてその胸中にどんなものが渦巻いているかは知れぬ。対して、その背後でひれ伏す官吏らは将門らが着座した後も誰一人面を上げる者はおらず、特に弘雅の傍らで同じように面を伏せる前国主完行に到っては顔は見えずとも項から耳元までどす黒く憤怒に染め上げ歯軋りさえ聞こえてきそうな気配である。

将門もまた上座にて深々と一礼する。

「勿体なきお言葉、痛み入りまする。不幸にも昨日は物合矢合わせの場面もありながら、下野司様より斯様に我が身に余る御歓待を賜るとは、某こそ光栄の至りと存じまする」

 しかし、その言葉とは裏腹に全く気を良くした様子は窺えない。

「何分、御一行の御同行が当地に伝わったはつい先日の事なれば、俄か支度故行き届かぬところも目に付きましょうが何卒ご容赦を」

「……推参ながら、国司様」

 昨日の合戦など何事でもなかったかのような態度にたまらなくなった将頼が遂に口を挟む。

「只今拝聴しておりましたところ、閣下は昨日の戦のことなどまるで貴方様はじめ下野国府に関わりなき些事を語っているように某の耳に聞こえましたが? 我らは下野の正規軍をはじめそれに与した民兵らと幾多も刃を交え数多の矢を潜った上でこの場に着いておるのですぞ? それについて兵の発令権者たる貴方は何と釈明されるか?」

 語気を強める将頼の問いに動じた素振りも見せず、面を伏せたまま弘雅が答える。

「昨日の合戦か。あれは我が守備隊指揮官源渉が大君への忠義如何ともしがたく思い悩んだ末、同志の勇士達と徒党を組んで貴殿らに挑んだまでの事にございまする。我らはほれ、御覧の通り貴殿らの出迎えの支度に勤しんでおりました故」

 涼しい顔で答える弘雅の傍らで、ぎりり、と完行の歯が唇を噛み締める。ぽたぽたと床の上に血が滴った。

 慇懃を通り越して不遜とも取れる国主の態度に、流石に腹に据えかねた将頼の声に怒気が籠る。

「随分と悠然とされたものじゃ! あれだけ自軍も犠牲を払いながら貴殿ら国府の高官は戦いに我関せずと申されるか! 昨日の戦で双方がどれだけ犠牲を払ったと思われ――っ⁉」

 膝立ちになった将頼の目の前で初めて顔を上げた弘雅より錦の包みが差し出され、思わず言葉を飲み込む。

「そうじゃ。この国府印鎰を手に入れるために貴軍将兵らは余程の血を流したことであろう。……だがわが臣下、わが同胞達はこのような金判一つの為にその身命を捧げたのではない」

 値万金の印鎰の威光などよりも国司公雅の凄みの効いた眼差しに将頼はじめ将門将兵の多くが思わず後ずさる。

「印鎰なぞ鬼怒川に投じようが筑波の山猿にくれてやろうが一寸も惜しいとは思わぬ。されど、我が臣下が命を投げ打って護ろうとしたこの下野の安寧が、帝の神威にまつろわぬ逆徒共に侵略されんとすることを、民の平穏を望む想いを踏みにじる輩共に脅かされ筑波や常陸の如く災禍に見舞われんとすることを、昨日吹雪の中で貴殿らの前で散っていった者らはさぞ無念に思うておることだろう。……小官は只々それが無念じゃ!」

 憤怒の炎に燃える双眸に皆がたじろぐ中、

「……一つだけ尋ねたきことがございまする」

 差し出された印鎰にも、それを手にした国司の豹変ぶりにもまるで動じぬ様子で将門が尋ねる。

「昨日の戦にて見事な最期を遂げられた武将がおったが、彼の者らが掲げていた旗印……あれは何でござるか?」

 それを聞いた弘雅の顔に、得体の知れない笑みが浮かぶ。

「何を尋ねられるかと思えば、今更知れたことではないか。――貴殿は下総にて一体何に向かって弓を引いたつもりじゃ?」

 くつくつと不気味な匂いを含ませながら弘雅がせせら嗤う。

「まさか昨日見たのが初めてとは申されまい。今日まで貴殿が討ち果たした幾千柱、そしてこれより相向かうであろう幾万柱もいずれ貴殿らが吹雪の中に垣間見た五文字の旗を皆掲げていることであろうよ。――さあ、遠慮なく印鎰を受け取られるがよい」

「成程……」

 その言葉に頷いた将門が、弘雅の両掌より錦袋を恭しく受け取る。

「謹んで受領いたしまする。下野の民の安全は、この将門の矜持に掛けてお約束致す」


 ここに下野国府は将門勢に完全に降伏したのである。


「……さて、これで貴殿らの目的は果たされたであろう。後は銘々御勝手に手酌で戦勝の宴をお好きなだけ楽しんでいかれるがよい」

 将門の手に印鎰が納まり、手ぶらになった弘雅が元の澄まし顔でパンっと掌を打つと、それを合図にしたように文官の一人がスっと無言で席を立つ。すると、その後を追うように他の官僚達も上座に一瞥もくれずにぞろぞろと退出していく。当然ながら、誰も敵の勝ち祝いに相伴するつもりはないようであった。

 さもあらんとはいえ、まるで糞に砂を掛けるが如きあからさまな態度に、無言で官僚らの背中を睨みつけ見送る者もあれば、どうしたものかと所在なさげな視線を主に向ける者もあり。そんな白々とした席の中で肝の太いところを見せたのが興世王であった。

(いやはや、戦などより余程肝の冷える会談じゃ。……しかしまあ、これでやっと二つ目が我らに降ったか。ここまで存外に骨が折れたわい)

 やれやれと嘆息しながらどっかと食膳の前に腰を下ろした興世王が膳に並べられた銚子を手に取り酒杯に口を付けようとしたところを「待て」と将門に制された。

「折角のお気遣いながら慰労の宴など不要。国府印鎰を我らに譲渡された以上、国主様はじめ官吏の皆様方は直ちに都へ引き払って頂く。護衛には健剛たる強者らを付けまする故、御安心なさいますよう。……玄茂、並びに下野勢は山中に逃れた官民らを府内まで護衛連行し、治安の維持に努めよ!」

「はっ!」

 将門の下令に、玄茂は畏まって席を離れた。

 


「おやおや、良いのですかな。大目付殿らがこのようなところで油を売っておられては若殿にお叱りを受けますぞ?」

 広間からやや離れた一室にて、酒膳を運ばせて杯を酌み交わしていた遂高、好立、興世王の三人を、たまたま通りかかった白氏が見かけて揶揄い交じりに声を掛ける。

 既に夕刻であるが、国衙の柵内は騒動の後始末と次の支度に急ぐ者の足音で未だに騒々しい。常時将門の傍に控えているはずの側近達が今に限って姿が見えぬと不思議に思っていたが、意外にもこんなところに隠れて酒盛りなぞしていたか、と白氏も少し呆れた顔である。

 顔を上げた三人は既にだいぶ聞し召しているらしく、部屋中に満ちた酸っぱい空気と床に転がる銚子の数を見るに、国司や役人達を一人残らず国衙から追い出してすぐ後、まだ日も傾かぬうちからずっと飲んでいたのであろう。他二人はともかく、堅物の遂高が人前であられもなく酔って見せるのは珍しい。

 しかし、酩酊の割には三人とも無理矢理酢でも呷っているようで、あまり美味い酒の呑み様ではない。

「いや、これはまずいところを見つかってしもうた。なにぶん殿は酒を嗜まれぬ故宴も好まれぬ。とはいえ、酒に罪はあるまい。なにしろ後味の悪い戦が続いたでな。これは清めの水とお目溢しくだされ」

 冗談めかして額を叩く遂高であったが空滑りの様子であった。隣の好立も差向う興世王も揃って浮かぬ顔である。

「然り。こうして戦を生き延びた我らが弔いの酒を汲んでやるのも供養でござろう。明日には早々に上野へ出立とのことじゃ。涼州詞曰く『古来征戦幾人か回る』、次の戦の後にも生きて酒にありつけるものか神仏にも判りませぬぞ。ささ、白氏殿も座に加われよ」

 好立に勧められ礼を言って腰を下ろした白氏に興世王が杯を向ける。

「……いやはや、当然のことながら、我らは何処に赴いても嫌われておるのう。先刻空恐ろしい国司様の剣幕を見た後じゃ、渋い酒になるかと思うたが、なかなかどうして、下野の酒はイカしたものじゃ。いくらでも呑めてしまうわい。全く、呑まねばやっておられぬ」

 杯から零れんばかりに白氏の手へ酒を注ぐ興世王であったが、返杯を飲み干すと、ふう、と深い溜息を吐いて目を落とす。

「一体、昨日はこの手で何人女子年寄りを殺めたか知れぬ。全く、寝覚めの悪い勝ち戦よ」

 なんじゃ、しけた酒盛りじゃのう。と遂高は笑いかけるが、彼にも興世王の心痛がそれこそ痛い程わかる。

 元来が人の好過ぎる男である。ところが戦になると羅刹に化ける。一度火が付けば先頭を駆ける将門に負けず劣らず我先にと火焔の中へ飛び込み、鎮火した後で己の浴びた返り血に気づくような猪武者振りであった。彼の戦い振りを下総で初めて目にした時は舌を巻いたものである。しかし、足立郡の一件では弱き立場の者に己が非を認め一歩譲ってみせるなど、民を慈しむ憐れみ深い武蔵国高官であったのである。

 昨日の戦いは彼には人一倍こたえたであろう。

 暫し皆が押し黙る中、ふと白氏が独り言ちる。

「……それにしても、若殿は随分お変わりになりましたのう」

「ほう?」と遂高が顔を上げ、好立もまた白氏を見つめる。

「なんじゃ、初めて会うた時と大して変わっておられないようにお見受けするが?」

と途中から仲間に加わった興世王は意外そうに首を傾げるが、後の二人には心当たりが大いにある様子で耳を傾けた。

「初めて若殿の戦振りを間近にしたのは川曲村の合戦であったが、勇猛なれど随分無鉄砲な青年じゃとハラハラ致し申した。子飼渡しの戦では単騎敵武者と渡り合っていた隙を外野から狙撃されたと聞いておりまする。……確かに我武者羅な御気性と、常に先陣の先頭を切って配下を鼓舞しておられる御姿は相変わらず勇ましいことじゃ。しかし、久しく会うておらぬうちに何かこう、見えぬ一線を見極められたというか、踏み外しては危うい道を見定められたというか、そんな目をされるように見受けられた」

「そりゃあ、天下に立ち向かわれる御決意をされたのじゃ。一皮剥けたように見えるのも至極当然のことじゃて」

「いや、それより前じゃ。下総国府との戦の前には、既に感じるものがあった。やはり……」

 酒を呷りつつ答える興世王に白氏は首を振って続ける。

「……堀越渡の一件があって以来か。一時美那緒殿を見失われた若殿の弓袋山での凄まじい戦い振りは今思い返しても背筋が凍るものじゃ。奥方は取り戻したが、腹の御子は残念なことになったという。考えてみれば、目元が変わって当然かもしれませぬのう」

 ふむ。と好立が考え込む。

「そう言われてみれば、美那緒様もまた随分と御印象が変わられましたな。いつだったか、千曲川で貞盛一行を追討した時など、まるで童に還ったかのようなはしゃぎ様であった。てっきり殿から新しい鉾を送られて喜び勇んでおられたのかと思ったが。以前この下野で良兼勢と刃を交えた時はもっと慎み深い戦い振りであったようだが。……ああ、いや失敬。しかし、昨日の戦いで敵の大将首を上げられたときの有様をご覧になったか? 果たして以前の御前様であれば、戦場とはいえ殿の前であそこまで激しい振舞いをなされたであろうか」

「これでは殿とは真逆の変遷ですな。それもやはり堀越渡の敗走の最中に、腹の御子と、長年仕えていた萩野を一度に失ってしまった御心痛によるものかのう……」

 真顔で頷き合う好立と白氏であったが、隣で聞いていた遂高はぎくりとしたものである。

 そろそろ話題を逸らそうと口を開きかけた遂高であったが、ふと白氏が怪訝そうに視線を巡らせる。

「……何やらきな臭うござらぬか?」

 スンスンと鼻を鳴らしながら首を巡らせる白氏に、興世王が違う方の鼻を鳴らす。

「そら寒いもの。何処かで兵卒共が焚火でもしておるのだろうて」

「いや、近場の焚火ではない。遠くの、もっと大きな火の匂いじゃ」

 あまり呑みつけないとみえる白氏が足元覚束なげに立ち上がり、部屋の外へ出て様子を見に行く。

 そして幾らも経たぬうちに顔色を変えて三人の元に駆け戻ってきた。

「――おいっ、府下から煙が上がっておるぞ!」








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