第4章 坂東制覇へ 2


 下野国衙の一室にて、前国司大中臣完行の前に座し、深々と額づいたまま国府軍総大将源渉が恭しく口を開いた。

「……まことに弘雅様には気の毒なことになり申した。折角わが下野に赴任されて早々、国政の采配いよいよこれから御手腕を振るわれようという矢先に、かかる奸賊共の不逞暴虐の憂き目に遭われようとは」

 顔を伏せたまま、それでも堪え切れぬ忠臣の嘆きに、完行もまた無念さを滲ませながら頷き返した。

「弘雅殿も是非ともこの場に立ち合い、護国の勇士を見送りたいと申されておったが、予がお引き留めした。国府の長自らが兵の出立を見送ったとあっては、逆徒共に後々因縁をつけられかねぬが故にな。……許せ」

「当然のお計らいにございます。此度の迎撃、身共が一存によるもの。国府の下知とは一切関わりなき事とせねばなりませぬ」

 この時、下野国府は丁度完行が国司としての任期を終えたばかりであり、後任の新司藤原弘雅が着任し前司より引継を受けていたところであった。

 まさにその最中、下野国全土を震撼させる将門侵攻の凶報を受けたのである。言うなれば羽化を終えばかりで羽根も固まらぬ蝉同然、未だ国府の新体制が整わぬところに不意を突かれた形勢となった。国府の常備軍は千人足らず。相手は臨戦態勢の下総国府軍を劣勢にもかかわらず一人残らず叩き潰して見せた軍勢である。到底勝てる望みはない。

 しかし、主の面前に顔を上げた引立烏帽子の下から覗く顔は実に晴れ晴れとしたものであった。

「されど、我ら下野の軍民が最後まで賊徒に抵うた事、いずれ大君への忠誠として中央に聞こえましょう。御君、並びに新司両君――そして我が下野の民に対し御上も無体な沙汰は下されますまい」

 潔き渉の決意と裏腹に、対面する完行の眉間は愈々深いものとなる。

「渉よ」と言葉を口にしかけた二人の間に、「申し上げます!」と慌ただしく従者の声が割って入った。

「奸賊らの軍勢、隣村の境を越え今にも府内に達しようとしておりまする。その数……ざっと三千余!」

 悲鳴じみた報告にフッと渉が含み笑いを漏らす。

「勝てぬか?」

 押し殺すような声音ながらも一縷の望みに縋るように問う主に、総大将は首を振って答える。

「馬が足りませぬ。それに矢も足りませぬ。……されば、我らは此処で潔く死んで見せねばなりませぬ」


 ――各々竜の如きの馬に騎る。皆雲の如きの従を率ゐる。鞭を揚げ蹄を催して、将に万里の山を越えむとす。各心勇み神奢りて、十万の軍に勝たむと欲ふ。


 かつて完行が国司に着任し間もない頃、将門と対する良兼・良正ら平氏の軍勢同士によって繰り広げられた合戦の際、この下野国府は将門勢により一時完全に包囲されたことがある。その際に官民共に味わった恐怖、いやそれに勝る屈辱は未だに府下に染みついたまま拭い去れぬ。

 あの時は矢倉に掲げられた藤原勢の幟に助けられたが、今回は百足退治の猛者も坂東を飲み込む虎の勢いに怖気を覚えたか尻尾を丸めて動こうとせぬ。青い幟は未だ一向に翻らぬまま。下野は孤立無援であった。

 静謐な眼差しを完行に向けながら渉は続ける。

「……思うに彼奴等の決起は未だ争乱の走り火に過ぎぬ。聞けば賊軍の内には我が下野より加わったものも数多おるとか。何れも俄かに上った赤い旗印に意味も分からぬまま浮かれて飛びついた輩じゃ。今隣国の飛び火を振り払ったところで、どのみち革命熱に目の眩んだ蒙昧な者共が内側から煙を立てようとするでしょう。そうなれば、中央はきっと下野を賊閥として根こそぎ潰そうとなさる。無辜の我が民らも一層の責め苦を受けることとなるやもしれぬ。それだけは、何としても避けなければなりませぬ。……御君よ、何卒我らが討ち果てたる後は、将門奴に印鎰を引き渡し、民らと共に生き延びられよ」

 再び渉は深々と低頭した。

「我らの犠牲を以て、彼奴等の熱狂も少しは晴れましょう。此度の抗戦、きっと史籍の行間にも記されぬような些事なれば、御君も身共らを棄て石と割り切り気持ち良く見届けられまするよう、何卒!」

「……よく聞け、渉よ!」

 とうとう堪え切れずに完行はにじり寄ると、自らの前に額づく甲冑の肩を掴んだ。

「よく聞けぃっ! 其許の如き善臣の犠牲を以てしてまで予は保身を図りとうはないぞ。ほんの数歳ばかりの赴任とはいえ、美しく移ろう大平山の四季を望みながら、鬼怒川の平野に営む下野の素朴な民らに慕われ寄り添うた一時を予は終生忘れられぬ。それに比べれば、たかが数年手元に預かったばかりの印鎰一つなど、御上に返そうが将門の目前で鬼怒川に投げ捨てようが、下野一国の安寧を統べる我が務めに比べれば羽の生えたような代物じゃ!」

 顔を上げた渉の頬に主の涙が零れ落ちる。

「その御役目も既に弘雅殿に譲り、我が妻子や家人共も府下の女子供らと共に落ち延びておる。されば予は今や只一介の官吏。弓矢も刀も扱えぬ身の上とはいえ、我が身命は最後まで下野国とともに在れり! 下野は我が二つ目の故郷じゃ。なれば我もまた東男子あずまおのこよ! 渉よ、予の元によく仕えてくれた其許だからこそ今の謂いは我慢ならぬ侮辱ぞ! ……よいか、貴公ら侍者ばかりが討死して予を生かそうなどと口にするとは、思い上がりも大概にせい!」

 滂沱の涙に咽ぶ完行の慟哭を前に、やがて渉は口を開いた。

「……もしや只今の我が物言いを当てつけがましく感じられましたなら、それは身共の全く意図せぬところ。何卒お聞き零し頂きたく存じまする」

 目を細めながら主を見つめる。

「されど、只今最後の迷いが晴れましてございまする。勿体なくも御君が泣いて我が背を見送られるなら、身共は笑って発ちましょう!」

 そう一礼して座を立つ渉の眦にも涙が光っていたのである。



 退出すると、戸口の傍にて側近が渉の兜と外套を抱えて控えていた。その肩が震えているのは、肌寒さのせいではあるまい。

「……それにしても真昼間とは思えぬ程冷えるのう。見よや、今にも降り出しそうな雲行きじゃ。ははっ、初雪を拝みながら死ねるとは、実に愉快なことではないか! のう?」

 外套を羽織りながら笑顔を見せる総大将の問いに側近も袖で顔を擦りながら畏まる。

「まことに、我が主君と共に討死に果てるにはこの上なき日和にござる!」

 部下の勇ましい言葉に、兜を受け取った渉が表情を引き締め満足そうに頷く。

「して、賊軍共の動きはどうなっておるか?」

「は! 上流より鬼怒川を渡河した将門勢四千、川岸に陣を張りこちらの動向を伺っている様子にございまする。既に我らが陣営からも目視できる距離。鬼怒川河川敷を埋め尽くしておりまするぞ」

「四千だと? 増えておるのう」

 呆れたように鼻を鳴らす渉らが正門前に到ると、渉の乗馬を整えた従卒が首を垂れて控えており、その前を慌ただしく動き回る官吏らが最後の仕事とばかりに国府の文書類を火にくべているところであった。薄暗い曇天の下で明々と燃え上がる焚火の傍では数人の将兵らが暖を取っていたが、渉の姿を認めると慌てて膝をつく。その様子に「苦しゅうない。今のうちに火に当たっておけ」とひらひらと手を振る渉の傍に二人の兵卒が顔色を変えて駆け寄って来た。

「なんじゃ、あれは府内の女子供らの避難を命じておった者らではないか?」

(そのまま民らと一緒に付いて行っておれば生き延びられたものを、……律義に戻ってきおって!)

 内心で呟く渉の前に「申し上げます!」と白い息を荒げながら二人は平伏した。

「御命の通り、官僚様の御妻子様はじめ府内の民らのうち大方の者を大平山山中へ退避させましてございまする!」

「うむ、大義であった。其許らの働きを以て、我が軍勢心置きなく正面を切り戦いに挑めるのじゃ。良く勤めを果たしてくれたな!」

 労いの言葉を述べる渉であったが、それを聞いた二人の伝令達は堪え切れぬように地に額を押し付け声を押し殺して啜り泣き始めた。

「何じゃ、おぬし等、その有様は? ――まさか……」

 その只事ならぬ様子に渉の表情から血の気が引いていく。

 彼らが護衛し府外の大平山に避難した非戦闘員の中には、渉の妻子や従者も加わっていたのである。彼の妻は身重であった。別れの際、せめて貴方の形見に腹の子に名を付けてくだされと涙ながらに懇願する妻に、今生の未練となる故いずれこの子の父となる男に名付けてもらうが良いと内心の哀哭を押し殺しながら見送った後ろ姿が不意に過った。

 しかし兵卒らが口にしたのは思いも寄らぬ言葉であった。

「戦禍を避けるため、我らが護衛の下に山裾へ逃した者は八百余名。……なれど、府下に留まり戦線に立つを望む者はもっと多うございました」

「何……?」

 嗚咽を堪えながら告げる兵の言葉に怪訝な顔をする渉を、もう一人の年配の兵が真っ赤に泣き腫らした目を以て自軍の総大将を見上げた。

「某は、只今ほど下野に生を受けたことを誇らしく思うたことはございませぬ……!」

 そう言い切るや堪え切れず声を上げて泣きじゃくる兵らの様子を傍らで見下ろしていた側近が、ハッとした様子で門の外へと駆け出していった。

「……何という事じゃ。――閣下、これをご覧あれ!」

 後に続いて正門を出た渉も息を飲む。


 ……その数は見渡しただけでも五千、いや六千を下らぬであろう。いずれ数の上では敵勢を優に凌ぐ一群である。

 各々手にするは錆びた刀に鉾、或いは狩猟用の弓矢、農具に竹槍と有り合わせの物ながら、皆一様に双眸に浮かべるのは、得物に勝る見事な闘気。

 故郷の存亡を前に国中より集った、老若分かたぬ義勇の民衆達であった。中には女人の姿も見受けられる。

「将門討つべし!」

「坂東に再び平穏を!」

「かくなる国難、我らが立ち向かうか、さもなくば死するかじゃ!」

 口々に叫ぶ幾重もの谺に、門前の国府将兵らは眦を熱くさせながら立ち尽くすばかりであった。

「……閣下。拙者は若狭の生まれ。西国の下級公家の末子故、地の果てに骨を埋めるも是非なき事と我が身の運命を軽んじておりましたが」

 目頭を押さえた側近が、込み上げるものを堪えながら呟く。

「これほどの心躍る死に場所、この身に余るというものじゃ……っ!」

 渉も目に涙を浮かべながら頷く。

(見れば、年端もいかぬ童もいれば白髪豊かな老兵も見えるではないか! 皆己の将来もあれば、孫らに囲まれ暮らす余生もあるものを、進んで故郷の為に身命を捧げてくれるというのか!)

「……まことに、そなた等の言う通り。身共も下野に生まれたこと、誇りに思うぞ!」

 そこへ、錦に包まれた包み物を携えた兵卒の一人が歩み寄り、恭しく手にしたものを掲げながら跪いた。

「国主弘雅様より、是なる御旗と共に言伝を賜っておりまする」

「何、弘雅様から?」

 拝するように包みを受け取った渉が錦を解くと、現れたのは『天照大御神』の御文字を記した錦幟であった。

「――貴殿ら坂東男子の潔き忠国の義、心から感服せり。貴殿らこそ真の官軍なれば、天孫の御加護必ずや貴軍らと共に在り。只々健闘を祈らん――との仰せにございまする!」

言葉を詰まらせながら伝える兵卒の言葉に渉もまた「おお……!」と感嘆の声を漏らす。

「……皆よ、聞いたか! 我らこそ日ノ本の殿軍、坂東の先兵じゃ!」

 拳を震わせ檄を叫びながら出でたる国府軍総大将の姿に、正門前に集った幾千の義勇兵たちが一際大きな歓声を上げた。しかし、続いてその頭上に掲げられた五文字の御旗に総員が揃って息を飲み、忽ち水を打ったように静まり返る。

「皆よ、良く我が元へ集ってくれたな! ……深謝致す!」

 一同が固唾を飲んで大将の次の言葉を待つ。

「さて同胞共よ、彼方を見よや! 鬼怒川の岸を朱旗で埋め尽くす賊徒将門の軍勢を! 今や坂東は奸賊の手により我が下野を境に二つに割られようとしておる。下総にて罪なき民らまでをも見境なく焼き尽くし、嬲り殺し、奪い尽くした筑波山の虎狼共が、我らの故郷をも咢に掛けようと牙を研いでおるのが良う見えよう! だが、天下の采配は既に我らが元に斯く下されたりっ!」

 大将の傍らより前に歩み出た側近が錦旗を捧げ持つ。御文字を染め抜いた清き白幟が北風にバタバタと靡き響いた。

「これぞ我らが故郷、坂東下野の旗印ぞ! いざ御旗の下、生き血に狂った賊軍共の旗を足元に踏み敷いて押し返さん! 彼奴等裏切り者の血を以て鬼怒川を彼奴等の旗と同じ朱の色に染めてくれん! 会心の輩よ、これより我らは天子様の皇軍じゃ! ――命を捨てて此の地を護れっ!」

 指揮官の激励を傾聴する一群の殆どは幟に記された文字の意味など碌に判らぬ者達であった。仮に文字の読める者がいたとしたら、何故永年我らを搾取した御上の旗を掲げるかと怒り出したであろうか。

 しかし、己の護るべき故郷の地に己を導き示すべき幟が立ち上ったことは、何よりも彼らの決死の勇気を猶鼓舞するものとなり、折からの雪粒混じりの北風に力強くひらめくのを見上げた義勇の志士達は地を揺るがすばかりの鬨を響かせ、拳を振り上げ、或いは鉾や竹槍を掲げた。


(この者らの意気込みを前に、潔く死ぬなどと気安いことを思っておられぬ。……我らは勝つ。――いや、勝たねばならぬ!)


 凍てつく風に混じった雪が大粒となって吹き付ける中、総大将源渉は腰の大太刀を抜き放つと全軍に号令を放った。


「この下野の地より将門を退けよ! 総員、配置に付けィっ!」



「国府陣営に動きが見えたようでございますな。……何やら知らぬが大盛り上がりじゃ」

 将文が独り言ちるまでもなく、敵陣地の気迫も凄まじい鬨の声は将門陣地の空気も震わせる程に平野一帯に響き渡って聞こえてくる。

「どうやら間もなく吹雪となるようじゃ。敵の動向を見通せるのも今の内、よく相手方の配置を確認しておけよ」

「は!」

「吹雪けば一面真っ白じゃ。自軍の朱幟、各々の赤い肩標を目印とせよ」

 部下に指図する遂高達や将門らのやり取りの傍らで、美那緒は暫し目を瞑り風の動きに耳を欹てた。

(……いずれ半刻もせぬうちに猛吹雪となるは確実。遂高殿の言う通り、視界は極めて悪くなる。それに我らの背後から強い追い風。守備側の弓は使い物になるまい。接近戦は必至。前線の護りは騎馬で容易く崩せるだろう)

 やがて目を開いた美那緒がほくそ笑む。


(まるで描いたように我が勢が圧倒的に有利な状況。――この戦、我らの勝ちは決まったな!)

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