第4章 坂東制覇へ 1



 天慶二(九三九)師走。下野国府付近。


 小高い丘陵の笹薮を踏みしめ、眼下に望む敵先鋒の砦を暫し見下ろすと、ほう、と白く凍った息を吐きながら、物見に出ていた者達が寒さと緊張で強張らせながらも笑顔を浮かべて本陣へ駆け戻ってきた。

「関周辺に敵の姿は見当たりませぬ。周辺の営所も全て放棄されておりました」

「うむ、ご苦労であった」

 満足そうに頷いた将頼が陣を振り仰ぎ一同を盛り立てる。

「どうだ、聞いたか! 我らが行く手の関守共、皆悉く尾を巻いて逃げ散っておるようじゃ。目指す下野の中心地は目前! 皆よ、きっと今宵は一本の矢も欠かさずに国衙の広間で祝宴ぞ!」

 副将の音頭に一帯を埋め尽くした将門勢の将兵は谷に谺するほどの歓声を轟かせる。


 鎌輪宿における決起の日から十日余り。

 将門率いる決起軍は遂に進軍を開始し、その動きは坂東八国の受領や駐在する中央官僚達を飛び上がらんばかりに仰天、芯から震え上がらせ、将門叛乱の急を告げるべく早馬が泡を吹かんばかりの勢いで各国から放たれたのであった。

 一方で、東下りの官僚連中に虐げられ続けてきた民衆や土豪らの中には、積年の積もり積もった雪辱を遂に晴らすときが此処に来たりと諸手を挙げて歓迎する者も少なからずおり、決起軍が堂々と朱幟を翻し軍勢を進めるうちにも続々と加勢を希望する者らが集い、その数は今や実に数千にも及ぶ程に膨れ上がっていたのである。道中では民衆らの喝采や兵糧の寄進が引きも切らぬ事であった。

「この大軍を見れば無理もあるまい。馬の蹄を鳴らすだけで地を揺るがすが如きじゃ。やれやれ、久々に存分に鉾を振るえるかと勇んでおったが、どうやら下野は無血開城と決まったのう」

 苦笑しながら研ぎたての鉾を撫でる将文の馬の頭を傍らから撫でながら弟の将為が破顔する。

「まあ、そう無念がることはありますまい。何しろ下野といえば、百足退治に聞こえしあの猛者が幅を利かせる土地でもあります故、皆腰抜け揃いという事はなかろう。少しは骨のある者が国府門前で我らを待ち構えておるやもしれませぬぞ?」


「……その通りじゃ。未だ国府前線の物見の者が報告に戻らぬ。まだ兜の緒は締めておけよ」


 皆が楽観気分で酒など取り出している者もある中、本陣中央に無言で座していた将門が周囲の浮かれ気風を嗜めるように口を開く。

 その傍に控えていた参謀の遂高や白氏も同じように厳しい顔で腕を組む。

 同様の表情を浮かべるのは、皆、これまで将門の元で幾度もの戦を潜り抜けて来た歴戦の側近達であった。

 美那緒もまた皆の心中を半ば察しながらも、傍で渋顔を作る遂高に敢えて問いかける。

「この関所や営所の放棄、やはり常陸のような略奪を警戒しての事であろうか?」

 尋ねる女武将に、然りと老武将も頷いて見せる。

「将文様の仰る通り、我が大軍に比べれば関所の護りなど大河の一滴に過ぎぬ。ただ無益に兵を失い、その従者や妻女を危険に晒すくらいならばと、足止めにもならぬ小砦を敢えて棄てたものと察する。そして、下野は八国の中でも比較的良政を敷き官民の結束の固い国じゃ。だからこそ先に落とさねばならぬ国でもあるが……少なくとも、浮かれておる連中のような楽観視は俺にはできぬな」

 恐らく読者の中には、良政の地へ真っ先に攻め込み、なぜ苛政の地を後回しにしてしまうのかと疑問を持つ向きもあろう。

 しかし、官政の整った国という事は、それだけ中央の支配が浸透した地であるという事。ここを先に落とせば、ただ搾取第一で東国政治を司っているような小者の如き及び腰の京受領共など、国衙に印章も妻子家来も残し我先にと都に引き上げることであろうというのが将門側の目論見であった。

 とはいえ、事の様子では、必ず何処かで壮絶な決戦の場があるであろう。

 そう暗に匂わす遂高の言葉に美那緒は固唾を飲んで鉾の柄を握り直した。

 そんな明暗分かれる陣中の内に、兵卒に導かれながら二人の異様な出で立ちの者達が将門の元へ通された。

 鞣革の甲冑が流行りつつある時世に、重苦しい鋼の甲冑に身を包んだ中年の男と、編み笠を目深に被って顔を隠し、形ばかりの戦装束を纏った小柄な女である。なんとも妙な様相の珍客に取り巻く将兵達は目を丸くした。

「殿、我が軍門に加わりたいと申す者共を連れてまいりました。何でも陸奥から参ったとか」

「何、俘囚地からか?」

 揃って目の前で膝をつく面妖な二人組に怪訝な顔を浮かべる将門の様子に、何やら堪え切れなくなった様子で男の方が顔を上げてケラケラと笑いだした。

「何じゃ何じゃ。髭など生やすようになっても相も変らぬ悪童面よ!」

「これ、なんじゃ無礼者が! 御前であるぞ!」

 目を剥く遂高を余所に兜を取ってみせた男の顔を見た将門が「あ!」と声を上げた。

「まさか、コヅベンか⁉」

「久しいのう、小次郎よ。相変わらずの腕白振りで安心したぞえ!」

「なんと、殿のお知り合いでござるか?」

「幼少の頃、父上と共に陸奥鎮守府に住んでおった頃の幼馴染じゃ。すると、隣に居るのはコウタか?」

 懐かしそうに声を掛けられた女武将であったが、将門の声にぐっと被った編み笠を抑え身を縮こませるばかりである。

「どうしたのじゃ小唄よ、なぜ顔を見せてくれぬ?」

「……にゃ、にゃあ」

 将門の問いかけに、女は遠慮がちに呻くばかりであったが、「おっと!」とコヅベンが間に入った。

「小次郎よ。気の毒だが小唄はお前が陸奥を去ったすぐ後に疱瘡に罹ってしもうてのう。それ以来うまく喋れなくなってしもうた上に身体の大きさも女童の頃のままで止まってしもうたのじゃ。顔にも身体にも酷い病の痕が残っておる。あんまりその辺は触れぬでやってくれぬか?」

「そうか……。それは配慮が足らなんだな。許せ」

「……にゃあ」

 それでも顔を上げ懸命に上笠越しにキラキラした目を覗かせて将門を見つめようとする小唄とコヅベンが並んでいるのを見ると、まるで在りし日の胆沢川で水遊びをした情景が蘇ってくるようであった。

 あの頃は彼を兄のように慕っていたし、小唄も黒髪美しい少女で悪童仲間の誰もが憧れていたものであった。

 思い出話に花を咲かせる三人を何気ない風で見つめていた美那緒は、ふと二人の掌に目を留めて(……ほう!)と内心で僦馬の頭目の眼差しを以て感心したように息を漏らした。

 見るからに土の匂いのする陸奥男であるが、一目で節くれだった指の筋の入り方が只の農夫とは違うことが判る。鍬を振るうばかりに鍛えられたものではない。鉄と鉄の打ち合いで作られたものであろう。

 一方の小柄な女も、袖から覗く小さな掌には無残にも疱瘡の痘痕が未だ残っているのが見えるが、三指の内側が分厚い皮でてかてかと光っている。丁度弓の弦を引く部分である。病の後に相当な弓の鍛錬を重ねていたのであろう。いずれ両者ともに相当な手練れと見た。

「それより貴公ら、陸奥から参ったと申していたな?」

 暫し歓談に耽っていた三人の間に遂高が割って入った。

「然り。白河の柵を押し通るに夢中で遊んでおったら二百人いた仲間が大分やられてしもうたが、それでも五十人は連れて来ておるぞ?」

「ということは貴公ら、秋田の叛乱の落人達か!」

 遂高の眼差しが険しいものとなる。

「敗兵を軍門に加えることは出来ぬ。我らの士気に関わることになる!」

 物語の途中でも間章として触れているが、出羽を中心とした天慶の動乱は国府側の攻勢によりこの年の八月に俘囚側の敗北に終わっていた。尤も、已む無く蜂起せし俘囚への情状の余地大いにあり、と戦を収めた権守藤原保則の懇願によって叛乱側に対し中央からは比較的温情的な沙汰が下されたとされている。

「まあ待たれよ。我ら奥六郡が加勢に加わっていた間は勝ち戦だったさ。胆沢に引き上げた時にはもう戦況が変わっておった。歯軋りしていたところに懐かしい小太郎坊が東国で一旗揚げたと小耳に挟んで悪童仲間を呼び集めて駆け付けて来たところじゃ。しかしよ、東夷の目付殿。我らエミシ衆も貴公が思う程遊興のお邪魔にはならぬと思うがのう?」

 そう不敵に笑うと、上座に一礼の後腰に帯びた剣を抜いて見せた様子に年配の配下達に無言のどよめきが起こった。

 男が皆の前に示して見せたは、かつて阿弖流為の乱をはじめ俘囚地蜂起にて蝦夷騎馬隊が好んで振るった蕨手の剣。

そもそも鉾・薙刀や弓に比べ攻撃・防御において有効範囲の狭い刀剣の戦場における実用性は現在でも議論が分かれるところではあるが(特に槍を用いた歩兵の集団戦法が主体となった戦国以降の合戦ではその傾向は顕著になる)、古代東北の戦においては、最新鋭の甲冑を身に纏い、盾と鉾で武装し圧倒的な兵力を以て陸奥に攻め寄せた中央軍を幾度にも亘って撃破して見せた蝦夷の強さをまさに象徴する剣であった。今では使い手も殆ど絶えてしまったとされるが、それでも陸奥遠征に駆り出された経験のある年長の武者の中には、この剣を手にした敵突撃隊の、雄叫びと共に振るわれる馬ごと斬り落とす程の強烈な斬撃に忘れられぬ恐怖を植え付けられた者は少なくあるまい。

その剣を誇らしげに掲げる男の顔には、確かに一敗地に塗れし敗兵の翳りは見当たらぬ。

「それに遂高様、どうやらその隣の女人も並大抵のものではありませぬぞ」

 不意に口を挟んだ美那緒が、視線を跪いたままの小唄に向け、穏やかに語り掛ける。

「小唄とやら。見ればそなたも相当の弓達者の様子。差支えがなければ皆の前でその腕前を披露してはくれぬかえ?」

「にゃあ」

 将門夫人の問いかけに、恐れ入って掠れた声で頷く女を見た美那緒は座に加わっていた経明にちらりと目配せした。

 頷いた経明が弓を手に立ち上がると、矢を番えてぎりりと天へと向けた。

「良いか小唄とやら? 今より一手放つ。しっかと見定めよ!」

 経明の言葉に面を上げた女の素顔が一瞬編み笠から露わになり、その場にいた何人かが痛ましさに胸を打たれた。

 しかし次の一瞬後にはその場の全員が目を疑う程に仰天することになる。

 ぱああん、と経明の弓から矢が放たれるや否や、ぱっと女が懐に隠し持った小さな弓を構える。懐に抱けるほどに小さく誂えられたそれへ目にも留まらぬ手際で矢を番える。その矢もまたなんと短い、通常の矢の長さを三分の一以下にまで切り詰めた矢である。

 それを口に幾本も咥え、鋭い眼光で上空を睨み据えた小唄が片膝立ちにぱぱぱん、と続けざまに三射撃ち放ち、うち一矢が宙に放たれた経明の矢と交差し、二つの矢は弧を描く前に三つとなって弾け散った。

 

「――お、お見事!」

 思わず陣の一人が身を乗り出して喝采を叫んだ。

「見よや。弓矢にはこういう使い手もおる。尤も、これに習熟した兵らは小唄の他は皆秋田の戦で討死してしもうたが」

「にゃう……」

「これで我らエミシ一党を加えていただく事にどなたも異存はあるまいのう?」

 弓を懐にしまい込み再び皆の前に低頭する女弓手に、皆も惜しみない拍手と賛美の声を上げる。

 一座が驚きと興奮にさざめく中、ううむ、と難しい顔で腕を組むのは自慢の一矢を破られた経明であるが、彼が眉間に皴を刻むのは矢を射落とされたことではない。

「……確かに、弓身と矢柄を詰めれば連射には適するであろうが、飛距離と命中精度、それに威力は格段に落ちる。果たして戦場でどれほど使い物になるか。いずれ射手の腕次第となるが」

 ちなみに当時も貴族や子供の遊びの一つとして小ぶりな弓矢を用いた楊弓なるものが存在したが、只今小唄が用いたものとは全く別物であり、勿論実戦で用いられたことはない。

 なお、ずっと後年の話になるが、本邦が二度に亘り異国より攻め込まれた際、これに極似した弓矢の戦法に我が国の武士団は大変に手を焼くことになる。


「申し上げます!」


 そこへ、国府前線付近へ物見に活かせていた配下の一人が泡拭かんばかりの様子で陣へと駆け込んで来た。

 すぐに言葉を発せぬ程の狼狽えぶりであり、その顔色は蒼白であった。


「か、官軍勢、国府に陣を構え全兵力を集結、陣周囲に幾重にも柵を巡らし、防備を固めている模様。その規模、とても常陸国府の比ではありませぬ!」


 その報告に、半ば浮かれ模様であった陣周辺の者達は一気に押し黙り、或いは息を飲み、或いは互いの顔を見合わせた。

「……して、敵の兵数は?」

 遂高の問いかけに物見の兵士は狼狽えを露わにする。

「そ、それが、見たこともない大軍で……。五千とも、六千とも……。いずれ我が勢を遥かに上回りまする!」

 瞬く間に同様の走る陣中の喧騒に、将門は冷笑と共に鼻を鳴らし、周りの者にしか聞こえぬ声で小さく呟いた。


「……それみたことか。天下を相手にしての戦、やはり血を流さぬわけにはいかぬようじゃのう」



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