第3章 動乱の勃り 常陸国府の攻防 6


 同月二十九日。下総国豊田郡鎌輪宿。


 かつての本拠地に将門勢が帰還したのは合戦から八日後、既に夕刻であった。

 既に霜月の晦日も間近という、甲冑の上からも肌寒さを覚える初冬のもの淋しい田園をぞろぞろと馬を連ねた一行が、戦火で焼失して以来最近になって漸く再建された真新しい営所の門を潜ると、皆ホッとしたように白い息を吐くのであった。

(……思えば、鎌輪営所を訪れるのも随分久しいことじゃ)

 遂高が振り返ると、この屋敷の門を潜るのは初めてとなる美那緒は考え深げに首を巡らし、かつてこの一帯が焼け落ちる様を成すすべなく膝をつくばかりであった経明は涙を浮かべて見回していた。

(萩野殿……)

 在りし日に束の間の逢瀬を交わし合った亡き女性の面影を偲んで嗚咽を堪える経明の胸中を誰も知る由もなく、先頭を進んでいた将門は馬から降りると常陸から連行してきた受領ら二人を畏まって車から降ろし、

「御二方には当分この営所にて暮らしていただく事になる。粗末なあばら家にて行き届かぬところもありましょうが、何卒ご辛抱くださりますよう」

 と慇懃に低頭するが、当の維幾は生きた心地がしない。当分飯も喉を通らぬだろうし夜も眠れず苦しむことになろう。

 自ら二人を寝処へ案内に向かう主の背中をじっと見送っていた遂高は不意にパンっ! と手を打つと、

「ひとまず皆よ、この度は大義であった。遠方より遥々ここまで付き従ってくれた常陸の勇士たちにも改めて礼を申そう。これより酒肴の支度をさせる故、今宵は大いに合戦の勝利を皆で祝おうではないか!」

 これに一同は大いに歓声を上げ、肩を叩き合って喜んだ。常陸の兵達の多くは将門の武勇を慕い、故国を棄てて彼への忠誠を誓っていたのであった。

 ぞくぞくと運ばれてくる酒甕へ群がる将兵達の歓声を余所に、美那緒は夕暮れの闇の奥に消えていった将門の背中をずっと見つめ続けていたのだった。



 ……思えば、常陸の府下が朱の炎に染まり行くのを目の当たりにして以来、自分は将門の背中ばかり見つめていたように思う。

 否、自分ばかりではあるまい。皆の前に向けるのは、広く、大きな背中ばかりで、決して露わな素顔を皆の前で明かして見せようとはしなかったようであった。

 幾度、その肩越しにせめて横顔だけでもと覗き込もうと試みたことか。

 しかし、我が主が見せるのは只々、巌の如き無言の背だけであった。

 あの燃え上がる常陸の街の炎を見下ろしながら、焼かれていく者達の嘆きの声を耳にしながら、怒りに我を失い紅蓮に猛り狂う民達を目の当たりにしながら、果たして我が主はその表情にどんな想いを浮かべていたのだろうか。


 ……いつからだろう。自分がこの男にこのような想いを抱くようになったのは。



 既に夜更けである。皆が酔い潰れ泥のように眠りに落ちる中、将門の寝処を訪う者があった。

「……美那緒か?」

 眠れずに簾を半ばまで上げ、冬の青い月を眺めていた将門が顔を上げた。

 背後に月明かりを背負った彼の表情は青白く、彼女の方からは伺うことはできなかった。

「……主様、お逃げくださいまし!」

 久しぶりに己に向けられた彼の声に堪らなくなり、縋り付くようにその逞しい胸に顔を埋めた美那緒は懇願するように訴えた。

「今に都から主様を捕縛するために大勢の者が差し向けられましょう。屈強な常陸の兵たちと共に在れば、或いは俘囚地に逃れることが出来ましょう。我らのことは決して顧みてくださいまするな! 只御身一つを思われませよ。御前様は一つの大事を成し遂げられたのでございまする。……後の事は煩われず、どうか、お逃げくださいまし!」


 ああ、いつからだろう。

 この男の為ならば、自分などどうなってもよいとまで想うようになったのは。


「美那緒よ……」

 自身の懐を涙で濡らしながら縋る妻の肩をそっと抱きながら、将門が囁きかけた。

「顔を上げよ」

 そう言って微笑む将門の表情は、涙を拭いながら見上げた美那緒が思わずはっとするほどに晴れ晴れとしたものであった。

「俺は、……既に覚悟を決めておる」

 美那緒の頬に触れながら、将門が静かに尋ねる。

「そなたには、先日の常陸府下が燃え行く様子がどう映った?」

「……は、あれは――」

 問いかけられた美那緒が回想と共に思案を巡らせる。

「あれは、恐ろしい光景にございました」

 美那緒とて、元を質せば街道を行く者達を震え上がらせた泣く子も黙る僦馬の頭目。荒仕事となれば見境なく火を放ち、奪い、掠め、時には人を攫い、或いは人を殺め、しばしば戦に加わっては首を奪い合う稼業で碌を食んでいたのである。その道に堕ちた理由はそれぞれあれど、己の所業は紛うことなき悪行、いつかは捕らえられることもあろうし、手足を斬り落とされようが、首を刎ねられようが、文句の言えぬものと皆弁えていたのであった。

 しかしあの夜目の当たりにしたものは一体何であったか。

 民衆の悪に対する怒りの炎と、それ以上に激しい暴虐の嵐。美那緒達が初めて目の当たりにした類のものであった。

 決してそれを一概に悪と断ずることは出来ぬ、だがそこからは悲痛と嘆きばかりしか生まれてこぬ、只々――

「民らの嘆きが、怒りが、只々恐ろしく、そして哀しゅうございました……」

 無残に焼かれていく者達の呻きが、暴虐の餌食となり泣き叫ぶ者らの悲鳴が、憎悪に囚われ猛り狂う者達の雄叫びが、今尚耳から離れぬ。

「俺も、同じ思いであったよ。只々、恐ろしく、哀しいものであった」

 美那緒を抱く腕に、微かに力が籠る。

「……だが、あれはあの時我らの前で玄明が示したように、ほんの走り火に過ぎぬのだろう。……坂東は今に随所で同じ炎に呑まれることになろう」

 ふ、と将門が吐息を堪え、言葉を続けた。

「今に民らの不満の爆発は連鎖するであろう。この度の常陸国府の陥落を習いとして、武器を手にした民衆らが怒りに任せて闇雲に官人らに襲い掛かり、やがて巷は灰燼に変わり、八国は民らの嘆きと怨嗟に満ち溢れることであろう。――その口火を切ったのは、他ならぬこの俺じゃ」

「決して、貴方様のせいではありませぬ! 主様はただ――」

 己の筋を通さんが為に、数に勝る敵を相手に戦いを挑んだだけではないか!

 そう言いかけた美那緒の言葉が、途中で詰まる。

 それほどまでに、自分を抱く将門の眼差しは決意を秘めたものであった。

「玄明の予言の通り、いずれは坂東全てに広がるであろう朱の炎じゃ。……だが只全てを焼き尽くすばかりの炎であっても、それを導く者がおれば、やがて坂東の民の行く手を照らす、闇夜の篝火ともなるはず。その導き手こそが口火を切った我が勤めであるならば、此処で只大人しく首を刎ねられるのを待っていることは出来ぬ。――美那緒よ」

 将門が美那緒を抱き寄せ、そこに己の言葉を確かめるように彼女の瞳をみつめる。

「いつかそなたに話したことがあろう? 譬えこの身が修羅の道を歩むことになろうとも、決して俺は修羅には染まらぬと。まさにこれから歩むは修羅の道に相違ない。だが俺と共にこの道を歩む者を誰も修羅には堕とさぬ。坂東の炎を、皆を照らす灯に変えねばならぬのじゃ。それが、――きっと天が俺に課した務めじゃ!」

 月光を背にした将門の眼差しが、美那緒の瞳の中でぼやけていく。

 ああ、やはりこの人は将門であった。

 ずっと見つめ続けていた通り、その背中は大きく逞しいものであった。


「戦い続けよう。――皆と共に」


 ならば、自分はずっとその背中を追い続けよう。

 その肩越しに見える道のりがどんなに長く険しく暗闇に満ちたものであろうとも。


 ……最期の時まで暗夜を伴にしよう。朱の炎を以て。


 やがて、蒼い月明りに浮かんだ二人の影が不意に重なり合った。

 床に横たえられ、優しく衣をはだけられた美那緒は初めてその場所を男の大きな掌に触れられ小さく悲鳴を上げかけたが、将門の気遣いの囁きに頷くと静かに目を閉じ只彼のなすがままに身を任せた。


 晩秋の名残を含んだ淡い夜風が、簾の影を微かに揺らして消えていった。



 翌早朝。

 将門の部屋を足音高く訪ねてきたのは、興世王と玄明であった。


「主殿、よもやこのまま大人しく中央に首を召されるのを座して待つつもりではございませぬよな?」

 既に身支度を整え二人を迎えた主を前にし、開口一番に詰め寄るような口調の玄明に対し、「これ、控えよ!」と一言窘めた興世王が、何事かと眉を潜める将門へ表情を改めて告げる。

「実は兄弟よ、今すぐ門の前へ足労願いたいのじゃ。やれやれ、まったく朝から騒がしいことじゃて」


 将門ら主従が門前へ駆け付けると、そこにはずらりと鎧装束の武者達が膝をつき、営所の主の出座を待ち侘びていたのであった。


「下野国河内源某以下三百余、将門様に帰順いたしまする!」

「同じく下野那須平何某以下五百、この度の常陸国府を相手の貴殿の見事な勝利、我ら大いに奮起いたし候。何卒貴殿の軍門に加えてくだされ!」

「武蔵国足立百姓一党八百名余、国府の狼藉は目に余るばかり。是非殿様の義戦に参加しとうございまする!」

「常陸国新治菅野某以下二百六十余、坂東解放の為、義に因り百済を故国とする我が同胞の有志を率いて参上仕り候!」

「相模国浪人竹内某以下千二百余、受領より土地を奪われ家族を虐げられし仇、今こそ殿と共に晴らしとうございまする! 何卒配下の末席に加えてくだされ!」

 と、口々に述べる口上に、思わず門の周辺で立ち尽くしていた従類や将頼らも息を飲むほど。

 門の外にまで連なる彼ら頭目達が自らの軍団を引き連れてきたとしたら、一体どれほどの地が埋め尽くされることであろうか。

「主殿、この者らは募兵に集った者らではない。皆、殿の常陸国府への勝利を聞きつけ、東夷と罵れられし屈辱の日々の解放を思い、矢も楯もたまらずに遠路馬を走らせて馳せ参じた者共じゃ! 皆が主様の御手での坂東の変革を求めておるのですぞ!」

 気迫に満ちた武将達の名乗りに思わず涙を浮かべながら玄明が主を振り仰ぐ。

 その横で、興世王もまた声を詰まらせながら将門に問う。

「兄弟よ、貴殿は以前こんなことを申されておったな。この諍いがもし戦にでもなれば、果たして我が首一つで済めばよいが、とな。将門殿よ。事ここに至った今、貴殿の首級は既に御身のものだけではあるまい。今や八国の民草すべてが貴殿の発起を求めておるのじゃ。兄弟よ。もし貴殿が坂東八国の為に剣を振るうというのであれば、身共も地獄の果てまで共に戦おう。しかし、将門殿、貴殿が常陸一国を攻めた呵責を負って首を討たれんとするのを座して待つというのであれば、身共はそれを目の当たりにする前に自刎して果てよう。いずれにせよ、死するときは一緒じゃ。将門殿、我が兄者よ、どうか決断を!」

 そのやり取りを、将頼ら兄弟、従類はじめ、その場に集った幾百とも知れぬ者達が固唾を飲んで注視していた。


 その様子を、少し離れたところから、美那緒は静かに自身の主の背中を見守っていた。

 彼の決意など、既に自分は知っている。


 戦い続けよう。――皆と共に


 暫しの後、頷いて見せた彼の眼差しが、ふと自分と一瞬交差した様な気がした。


「――我が想い、全く皆と同じものじゃ!」


 やがて東から注ぐ朝日に向かって大太刀を抜き放った将門は、おお! とどよめく大衆に向かって高らかに声を上げた。


「……皆よ、只今この時より、我が首級は坂東のものじゃ。決して都の土くれのうちには朽ち果てぬ。我が血と肉、魂魄の全てを、坂東の民のために捧げよう。


――大帝よ、一天万乗の我が大君よ!」


 眩い朝日に刃を閃かせながら、将門は遥か帝おわす宮城きゅうじょうの方へその切っ先を向けて瞑目した。


(……何卒大逆を許されたし。臣籍降下より幾世代、桓武帝の血を受け都より遠き坂東の地にて今日まで臣下の礼を尽くしてまいりましたる大君の赤子せきし、この平小次郎将門――)


 刮と目を開くと、とまるで童心に帰ったような晴れやかな顔で宣言した。



「――坂東の未来の為、たった今より叛き奉る!」

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